悲鳴に近いキャアアアという歓声が耳に突き刺さる。
わたしは本日何回目かの溜め息をついていた。
どうしてわたしはここにいるんだという、これまた胸中で何度も繰り返した問いかけごと、溜め息に乗せて吐き出す。
顔を上げて目線を戻すと、そりゃあもう童話の王子さまも真っ青なほどキラキラと輝くディエゴ・ブランドーさまが馬上からこちらを見ていた。

・・・


「おいなまえ、途中よそ見してただろ」

図星だったものだから、うっとつまる。
なんであんなに離れていた上に、大量にいたとりまきの中からわたしを見付けられたんだ。
汗を簡単に拭ってヘルメットを取ったディエゴくんの格好良さは、そりゃあもう言葉に出来ないほどだった。
大人しく椅子に座ったまま口をつぐんでいると、「よくもまあオレ以外のものに目を向けられるな」と呆れられた。
ハイハイすみませんでした。

それにしてもわたしなんかが入って良いのだろうか、と、出されたお茶を手にチラと周りを見渡す。
なんでも、普段練習に利用しているところと違って、今日は親善試合を兼ねた公開練習だとかでここに来たらしい。
今日は朝食もそこそこに(洗濯物も終わっていないのに!)、なぜかそれに連れてこられたわけだけれど、わざわざ一個人のために控室として部屋が用意されてこの高待遇ってすごい。
そう言ったら「オレがわざわざ来てやったんだから当たり前だろ」と鼻で笑われた。
なんでも著名な選手が利用するだけで、施設側に箔がつくとか客寄せになるんだとか。
詳しいその辺りの事情はちゃんと聞いていないから、わたしもよくは知らないけれど。

乗馬ブーツを脱いで泥を落とすディエゴくんを見ながら、改めてすごいひとだなあと思う。
そりゃあウチにいる人(一部人外もいるけど)たちは、凄いどころの話ではないとは分かってはいるけれど。
彼目当てのギャラリーは殆どが女性で、わたしが混ざっているのが場違いすぎて浮くくらいに美人さんばかりだった。
彼がなにかするたびに上がる黄色い声援に、耳は始終びりびりしていた。
「はあ、今日もステキね……」
「このあとの予定、把握している人っているかしら」
「さあ、でも、誰か相手してもらえるかもよ」
「それが最近、あんまりお声がかからないみたいってウワサよ」
「えーっ!? どうしたのかしら」
などなど以下延々と続く。

耳を覆いたくなるような赤裸々な会話と、アイドル顔負けの追っかけのお姉さんたちに、わたしはただただ圧倒されていた。
関係者用通路を使ってこの控え室に入ってきたけど、これがあのお姉さま方にバレたら、わたしは八つ裂きにされてしまうかもしれないと危機感を抱くレベルで怖かった。
恋する女の子ってすごい。
窓からこっそり外を伺えば、遠くにはまだまだ出待ちと思われる女性たちがちらほらいる。
うわあさすが競馬界の貴公子サマ。

当の本人といえば、暑かったらしく、その見事に引き締まった体を惜しげもなく晒して上半身裸で道具のチェックをしている。
これ、隠し撮りして売りさばいたら、結構な額の収入になるんじゃないか……。
なんて邪なことを考えていたのがバレたのか否か、仏頂面のディエゴくんに鼻をつままれた。
ふがっと情けない声を上げたわたしに、たくさんの女性を魅了してやまないそのお顔を近付ける。

「で、オレはなぜなのかって聞いてるんだが」
「はい?」

忌々しげに舌打ちひとつ。
一拍置いて、ああ、どうして途中彼を見ていなかったかってことかと思い至った。
わたしなんかが見ていなくても、どうせあんなたくさんのきれいなお姉さんたちが焦がれるくらいに見つめていらっしゃったじゃないですか。
わがままか。

「ファンのお姉さま方の声援がすごくて、耳が痛かっただけだよ」

だからそんなにご機嫌ナナメにならなくても、と続けようとしたところで、今度はぎゅうと抱き締められた。
いつもよりも苦しく感じられる拘束に、瞬間的に心臓が跳ねた。
どうしたの、と、口にする前に、さっきまでの不機嫌そうな様子とは180度正反対な愉快げな声が降ってくる。

「それは妬いたってことで良いんだな?」
「……どうしてそうなるのか分からないんですが」
「素直になれよ、なまえ。あんな泣きそうな顔しやがって、誰かに虐められでもしたか?」
「はあ? なに言って、――っ、あっ」

痛みで一瞬、視界が歪んだ。
信じられない。
ディエゴくんが突然、がぶりとわたしの首に噛み付いたのだ。
見えないけれど、血が滲んだのが分かった。
このひとは、自分が他人より鋭利な歯だってことを忘れているんじゃないか。
上手く呼吸が出来ず、無様にひっ、ひっ、と浅く息をする。
傷の上から未だがぶがぶと甘噛みを続けるディエゴくんに、息も絶え絶えにやめてほしいと訴えるも、全く聞き入れてもらえる様子はない。
膝が小さくふるえた。

「ふ、ぅ、やだ、ディエゴく、いたい、」
「なまえ、」

わたしの名前を呼ぶ声は、鋭い痛みとは対極に、やわらかく、優しくて。
本当のことを言うまで許してもらえないだろうことが、なぜだか瞬時に理解できた。
痛みと困惑で、うっすら視界もぼやけてくる。

吐き出すつもりなどなかった、胸奥にしっかりと仕舞い込んでいた気持ちを、こぼした。

「っ、言うっ、言う、からっ! ……ごめ、なさいっ、だってディエゴくん格好いいし、ファンのひとたちも、みんなきれいなんだもん……!」

息も絶え絶えにそう言うと、やっと離れてくれたディエゴくんは、楽しげに、おそろしくきれいに笑った。
いつの間にか溢れていたらしい涙を拭われ、今度は優しく抱き締められる。

だって周りにあんなきれいなお姉さんばっかりで。
しかもお持ち帰りが普通のことのような会話に、消えたくなるのを堪えるのにわたしは必死だったのだ。
なんでわたしはここに居るんだろうって。
わたしなんかとりまきの一人ですらないのに。

すん、と鼻をすすれば、ディエゴくんの香りが肺を満たした。
いつも仕事に行った帰りはシャワーで汗を流してくるから、いつもはこんなににおいが強いことはない。
なんだかその汗の香りにどうしようもなくドキドキしてしまって、気持ちの処理が追い付かずいっぱいいっぱいになり、また涙が零れた。

何も言わずぽろぽろ泣くわたしに、元凶のくせに少しは焦ったらしいディエゴくんが「いい加減、泣きやめよ」と血が滲んでいるだろう首を撫でる。
誰のせいだと思っているんだ。

「ディエゴくんのせいだ。イケメン」
「そうだな」

さも当たり前のように言う憎たらしい口をつねってやりたい。
家に居るときはいつもわたしを守ってくれるお兄ちゃんみたいだというのに、二人っきりになるとこうしていじめっ子になるのはどういうことなんだろう。
今もわたしが泣き止んで少しは調子を取り戻したらしく、その骨ばった細い指はわたしの首を離れて、いたずらに動き回っていた。

「んっ、あ、ディエゴくん、」
「なまえ、なあ、」

その手に慣らされたわたしは簡単に、彼に縋りつくことしか出来なくなる。
ぐいと膝を抱えられ、長めのスカートの裾が捲り上がる。
制止しようとした声は、無遠慮に口に突っ込まれた指によって意味を成さなくなった。
諦めて黙り大人しくなったわたしに、ディエゴくんはその鋭い歯を見せて愉しげに笑う。

椅子に座るわたしの前に跪いた王子さまは、膝を掴んで持ち上げ、スカートが捲り上がって露出した太腿の内側に、唇を落とした。
恐ろしくプライドの高い彼のその行為に、目を奪われる。
彼に膝を着かせた、そう思うと、ぞくぞくと倒錯した興奮に襲われ、意図せずまた脚がふるえた。

それを見た彼はわたしを見上げて、また世の女性が卒倒してしまうんじゃないだろうかってくらいにきれいにいやらしく笑うのだ。

杯を満たせ、白を統べよ

首筋へのキスは執着、腿へのキスは支配。
(バイロン「いざ、杯を満たせ」(1809)より)

(2014.07.10)
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