1
強烈な閃光、轟音、暗闇が反転した。
眼球そのものが焼けているかのように痛み、視神経が爛れ落ちるのではないかという錯覚は、生き物としての根源的な恐怖を齎した。
その場で、閃光弾が炸裂したのだと即座に理解できた者は誰ひとりとしていなかった。
目が光を、耳が音を、四肢が制御を失った。
スタングレネードはアルミニウムと過塩素酸カリウムが炸裂することにより、爆音と閃光を発生させる。
宵の口といえど車のヘッドライト程度しか光源のなかった廃工場は、その瞬間あたかも太陽が落下したかのように無骨なトタン波板や虫の死骸で黒ずんだ桟、突き出た異形棒鋼を照らし出した。
数枚辛うじて残っている薄い窓ガラスがパラフィン紙のように波打った。
閃光手榴弾やスタンガンをはじめとするノン・リーサル・ウェポンは、いくら非致死性を謳えど兵器に変わりない。
ゴム弾だの催涙弾だの、優秀なKOLOKOL-1といえども、状況によっては死人をつくり出すのはあまりに容易い。
「ッ……!」
なまえは目を開けていられない激痛、耳鳴り、頭痛に襲われ、はくはくと空を噛んだ。
平衡感覚を失し、自分が立っているのか倒れ込んでいるのかすら判然としなかった。
強制的な見当識の失調によって気色の悪い浮遊感が続く。
瞬間的にパニックに陥りそうになるものの、それを抑え込める手立てはなかった。
周囲にいた数名の黒服たちも、ガダラの豚のように呻きながらうずくまっていた。
なまえは汚れたコンクリートの床に崩れ落ち、すさまじい嘔吐感にさいなまれながら意識を手放した。
2
「――ふふ、旦那さまのように、サングラスでもかけておけば良かったかしら」
熱河電影公司ビル最上階、ペントハウスの紅閨に、女の穏やかな声が響いた。
床から天井までを覆う大きなガラス窓にはたっぷりとした襞が波打つ分厚いカーテンが引かれており、部屋全体が暗い。
ベッドで上体を起こして座っているなまえは、ヘッドボードに背中を預けたまま、主のいる方へ向けて微笑んだ。
「さすがに荷が重かろうよ。フラッシュバンを防ぐことまで期待されんのは」
張は嘆息しながらなまえの横へ腰掛けた。
白を基調とした典雅なベッドは軋みもせず男の身を受けとめた。
薄暗い部屋のなか、張は愛用のサングラスを外しシャツの胸ポケットにテンプルを引っ掛けていた。
白いシャツは首元のボタンをふたつ外してネクタイもゆるめられており、上着は投げ出すようにソファの背もたれへ放られていた。
もしもなまえがそれに気付いていたなら、ませた幼な子のような表情でしかつめらしく小言を重ねていたに違いない。
普段よりいくらかラフな格好のまま、張は唇を皮肉めいた笑みの形に歪めた。
「まさか撃ちこぼしが逃げ出すたあな。おかげで危うく、彭たちが体重を増やすところだった――ブチ込まれた.22LRで」
張は手持ち無沙汰に、結わず流れるままに任せているなまえの髪を指先ですいた。
黒髪を飼い主によってもてあそばれ、なまえはそれはそれは嬉しそうに口元をゆるませた。
ひとを殺すこと、支配することに長けた男の手は、いまこのときばかりは驚くほどやさしい。
たとえば煙草を吸う為様だったり、愛銃の引き金を引く指先だったり――嗜好品にふれる主の手は、常住坐臥、繊細だった。
「もう、旦那さまったら。いけませんよ、あまり兵卒を軽んじては」
弾んだ声音は恋い慕う男にふれられる喜びをいっかな隠せていない。
とまれ言選りばかりは良識めいて、なまえが窘めた。
まるで損傷など皆無かのようだ。
そのちいさな顔の上半分は白い包帯で覆われていた。
3
三合会タイ支部が度々使役していた情報屋がガセネタを寄越してきた。
ロアナプラにおける勢力版図の最たるところを占める三合会へダメージを与えたい他組織からの依頼によるものか、はたまた三人でひとつの情報屋として身過ぎをする男たちがつまらない欲をかいたのか。
いずれにせよ多少なりとも損害を被ったトライアドが、三人組の情報屋に「落とし前」を付けさせるのは道理至極である。
ロアナプラ郊外、数多ある打ち捨てられた廃工場のひとつに行方をくらましていた表六玉共が潜伏しているとつかんだ三合会は、速やかに手筈を整えた。
くしくもロアナプラを離れ、香港へと一時的に帰国していた張は、タイに戻り次第エアポートからその足で廃工場へと赴いた。
対象はあくまで情報屋だ。
日夜、暴力と抗争、相克に身を浸す洪門の敵になるものか。
案の定、急襲されて右往左往し、慌てふためく男たちの内ひとりを部下がさっさと仕留めた。
残りの二名もわざわざ張が愛銃を抜くことなく片が付くはずだった。
しかしながら黒服たちの不手際によって、廃工場の外へと逃げ果せた「撃ちこぼし」の一名が、所持していたスタングレネードを苦しまぎれに起爆させた。
彼は延命を図ることができた――三名の内一名が逃亡する結果となってしまった。
所持していたのが破片手榴弾や攻撃手榴弾でなかっただけ幸いというべきか。
しかしなによりの不幸は、廃墟の脇というまったくの蚊帳の外であったはずのその場に、なまえが追従していたことだった。
「まったく、あのときばかりは肝が冷えたぜ。血涙相和して流れるってえのは、ああいう心地をいうもんだ」
「ふふ、ここは驪山でもなく馬嵬でもなくロアナプラ……部下の皆も反旗を翻す気すらないというのに?」
歌うような囀りは軽やかで、くすぐるような嬌笑を含んでいた。
なまえは、しばらく本国へ赴いた張をエアポートまで迎えに参じていた。
そうして飼い主を出迎えるのはさして珍しいことではなく、その足で連れ立って私邸のひとつへ帰途に就くはずだったが、折しもあれ、途中、サグスの後始末に道草を食ったのが不幸の元だった。
白い包帯がなまえの顔半分を覆っていた。
突発的な閃光により傷付いたなまえの網膜は著しく光に過敏になっていた。
ベッドサイドライト程度の淡い光量といえど、いまの彼女にとっては突き刺さる凶器に等しかった。
かすかな刺激にすら目が痛むというのだから、部屋は薄暗く、目元にはきっちりと包帯が巻かれていた。
頭部にぐるぐると巻かれた白い布を自らそっと撫でながらなまえは憂えた声音で呟いた。
「恋は盲目とはいうけれど……実際に盲いてみると、殊の外不便で困りますね。なにより、」
うっすら口元に笑みを浮かべ、主の座っている方へ小首を傾げてみせた。
「あなたのお姿を見ることができないなんて……これほどつらいことだとは知りませんでした」
秘めた恋心を告げるようにそっと囁いた女の声色は、どこまでも清らかだった。
ひたむきな情愛にだけ満ちたなまえの言葉に、張は、ふっと息をついた。
ここではなく私邸のひとつに仕舞い込むことも考えていたが、当のなまえに「自衛もできない、目も見えない小鳥一羽を邸に置いて、護衛のためとはいえ人手を分散させるより、主と共に控えさせておいた方が面倒がすくないのではありませんか」と理路整然と説かれれば閉口せざるをえなかった。
次いで「……本当はね、なまえが、すこしでも旦那さまのおそばにいたいだけなんですけれど」とこっそり秘密を打ち明けるように重ねられてしまえば、尚のことだった。
張はなまえの黒髪をくしゃりと掻き乱し、てのひらでその丸い頬を撫でた。
頬紅などなくとも内側からぽっと上気したように色付く頬は、飼い主のてのひらを従順に受けとめた。
面映ゆそうに笑みを浮かべたなまえは、張の手に自分の手を重ねた。
男のてのひらの温度を確かめるように、そっと頬ずりした。
乾いた大きな手はところどころ皮膚が硬くなり、節くれ立っていた。
銃を扱う男の手だ。
この手によって何十、何百もの有象無象が黄泉路に至ったはずだが、そのことに対してなまえが恐怖を覚えたことはついぞなかった。
その皮膚ごと慈しむようにちいさな手が添えられた。
まるで主人のためだけにつくられた供物のようになまえの唇は甘やかにほころんでいた。
実以て痛痒を感じないやわらかな笑みは、本当に暗闇に沈んでいるのかと怪しみたくなるほどだ。
今生、自分だけに向けられる微笑を眺めながら、張はいつものように飄逸な仕草で肩をすくめた。
「一週間程度で包帯は取って良いんだと。それまではここで大人しくしといてくれ。女手が必要なら階下から寄越す」
「ご迷惑をおかけします。こんな見苦しいところをあなたにお見せするのは本意ではないけれど……どうか、お暇なときにでも構ってやってください」
本も読めないのでは手持ち無沙汰で、となまえが苦笑した。
平生から外出したがる小鳥のことだ。
視覚以外、特に損なったところのない身でただぼんやりと寝台に横たわっているだけというのは、なるほど苦痛だろう。
「ああ――、“土産”はなにが良い、なまえ」
「礼尚往来……目には目を、とはいいますが、この状態では難しいですね」
発端となった情報屋の残り一名は未だ逃走中である。
暗々裏「報復」を催促する主に、なまえはのんびりとした笑みだけを返した。
重ね添わせていたてのひらを離し、張は胸ポケットに引っ掛けていたサングラスを手に取った。
かちゃっと鳴る音に、なまえが淑やかに微笑んだ。
「いってらっしゃいませ、旦那さま。お見送りもせず申し訳ございません」
返答代わりに最後にもう一度だけつややかな黒髪をすき、張は腰掛けていたベッドから立ち上がった。
4
戛然とした革靴が遠ざかり、閉扉の音が後を追った。
途端にしんと静まり返った閨房でなまえはひっそり息を漏らした。
彼女の吐息に返事をするのは耳の痛くなるような静寂ばかりだった。
「だんなさま……」
吐息まじりにぽつりとこぼれた呟きは着地点を見出せずぼんやりと宙に浮いた。
曖昧に浮遊したそれをつかむように、なまえは硬く握り締めていた手をようやく解いた。
そうして握っていましめていなければ、立ち去る背へ手を伸ばしてしまいそうだったのだ。
そんなことはなまえにはできなかった。
手を伸ばし、追いすがって、そして――どうするというのか。
「ひとりにしないで」「そばにいて」と淪落の女のようにすがる?
「怖かった」「痛かった」と道理も弁えない子のように泣き喚く?
いずれも愚昧な空想だった。
なにしろ誇り高き金糸雀は、ただでさえ無様な為体、これ以上の惨めな真似をさらすなど、矜持が許さなかった。
なにより恐ろしかった。
もとよりなんの役にも立たない小鳥一羽、もしも主から不要だと、鬱陶しいとでも断じられようものならと、至極つまらない想像をするだけで呼吸すら為違える。
てのひらをきつく握り締め、また開いた。
指先で顔の輪郭を自らなぞって、恐る恐る確かめた。
なにを確かめるというのかと自問して、なまえはうっすらと自嘲した。
そこに残る張の熱を探すように細い指がわなないた。
つい先程まで彼がふれてくれていた頬は、あたたかく、生きている喜びを得られたというのに、いまのなまえは、自分が果たして本当に生きているのか、過たず呼吸できているのか、しっかりとした自覚を持てずにいた。
目の奥が熱く痛んだ。
眼前で固く握り締めている自分のてのひらすら、いまの彼女には見えなかった。
咫尺を弁ぜぬ暗闇のなか、なまえはひとりだ。
5
「――大姐、失礼します」
「どうぞ。梁かしら?」
暗い閨で、白い包帯を手にした女主人が首を傾げた。
その目は閉じられていた。
「そうです、梁です。お呼びですか」
「ええ、包帯を巻き直してちょうだいね」
ベッドの縁に腰かけたまま、なまえは部下の女へ微笑みかけた。
化粧けのない唇がゆるやかに弧を描いていた。
なまえが身に着けているのは、白いナイトドレスだった。
飾りはなく簡素なもので、すとんと流れるような裾はくるぶし辺りまでと長い。
白い寝間着は、小鳥の白い顔貌と相まって、薄暗い寝室にぼうと浮かび上がるかのようだった。
それは幽鬼じみた実体のなさと、得体の知れぬモノに対する漠然とした怖気を見る者に与えた。
入室の許可を得た梁はほんの一瞬だけ足を止めかけた。
しかしすぐに何事もなかったかのように「失礼します」とベッドに歩み寄った。
狼狽などおくびにも出さず、包帯を受け取った。
通常、熱河電影公司ビルのグランドフロアで受付嬢として勤務している彼女だが、無論ただの「受付嬢」ではない。
その制服の下にはショルダーホルスターとシングルカラムマガジンの自動式拳銃が隠れていることをなまえは知っていた。
いまは視認できないのは言うまでもなかったが。
「ああ、梁、いま何時頃かしら」
「いまは……七時を過ぎたところです、大姐。夜の」
欲望、欺罔、乱行、罪科で濾過されたロアナプラの黄昏どき、しかしこの層楼の天辺にはさんざめく喧騒は遠い。
梁の簡潔な返答に、なまえは「そう、」と溜め息まじりに呟いた。
「こうして尋ねないと、時間もわからなくて不便だけれど……物の場所や距離感はわりと覚えているものね」
感慨深そうに「さっきひとりでシャワーは浴びられたわ」とひとりで頷いた。
ペントハウスの浴室もなまえのために暗く保たれていた。
包帯を解くこと、衣服の着脱、入浴は自身でできたものの、再度覆いを身に着けるのはどうにも困難だったらしい。
ひとり入浴を済ませたというなまえに、梁は呆れ声でぼやいた。
「……呼んでもらえれば手伝いましたが」
「ふふ、お風呂まで世話してもらうのは、なんだか恥ずかしくって」
肩をすくめて苦笑するなまえの黒髪は念入りにタオルドライしたらしいが、確かにしっとりと湿っていた。
「大姐、ドライヤーは?」
「大丈夫よ。もうほとんど乾いているし……。ドライヤーの場所はわかっても、まさかコンセントの差し口が見付けられないなんて、ね、“盲点”だったわ」
盲目なだけにね、と軽やかになまえが笑うものだから、梁は頬を引き攣らせるしかなかった。
笑ったものか、はたまた諌めたものか、どうにも判断しかねる微妙な冗談は、さすがお似合いというべきか、ボスが口にするジョークレベルで扱いづらい。
ごほんっと咳払いした梁は、可能ならばその黒髪にすらふれぬようにと、慎重に包帯を巻き始めた。
いくらなまえ本人からの命といえど、受付嬢如きがおいそれとその身にふれたくはない。
部下の指先の緊張を感じ取ったのか。、なまえはちいさく、ふふっと笑い声を漏らした。
「そんなに神経質にならなくても大丈夫よ、梁」
「しかし、大姐……」
包帯を巻く手は止めないまま梁は言いよどんだ。
梁のみならず、この街に蔓延る有象無象ならば、あまねく「三合会の金糸雀」にはふれるべからずという厄介な不文律を知っていた。
まさか今更当人に説くべくもないが、我が身はなにより惜しい。
躊躇する梁に、女主人は笑いまじりに「あのね、」と昔話を披露してやることにした。
「昔々、まだロアナプラにやって来る前のことよ。あなた、返還前の……“大陸”側の組織との争いを知っていて? 仲裁してくださった叔父輩(※年配の仲介者)のお顔を立てた講和の場に、わたし、旦那さまのお供をしていたの。そのとき、相手方と握手する機会があって……その指輪の内側に針が仕込まれていたなんて、その針に毒薬が塗ってあったなんて――ふふ、想像してごらんなさい。まるで一昔前のよくあるスパイ映画みたいでしょう?」
言葉尻には苦笑が滲んでいた。
懐古するなまえの口ぶりは、どこか遠いところを眺めているようにのんびりとした調子だった。
「先にふれたのが旦那さまではなかっただけ良かったとはいえ……まったく、“講和の場”が聞いて呆れるわね。幸い、処置もはやくて重症化せずに済んだけれど。それからしばらく握手するのを控えていたら、いつの間にか、わたしにふれてはいけないっていう噂が本国で浸透しちゃったの。元々、わたしもあまり他人との接触は好きではないし……旦那さまも面白がって否定なさらないし。それで、気付いたら定着してしまったのね」
だからそんなに怖がらなくても大丈夫なのよと諭すなまえに、「はあ……」と梁は曖昧に頷いた。
なまえの物騒な昔話が事実なら、確かにそこまで過敏になる必要はないだろう。
むしろかたくなに辞謝し続けるのは失礼に当たる。
とはいえ本人の言があれど、やはり悪名高い金糸雀との接触を避けたいことに変わりはなかった。
いくらか緊張は和らいだらしいが、相変わらず非常に慎重な手付きに、なまえは余儀ないことと密かに笑った。
「――他にご用はありますか、大姐」
包帯をしっかりと巻き終え、梁はなまえを覗き込んだ。
大廈の天辺、なかんずく奥まった深窓たる小鳥の寝室は、決して頻繁に足を踏み入れたい場所ではない。
用件は纏めて済ましてしまおうと考えてのことだろう。
なまえは「そうね……」とゆるやかに首を傾げ、おもむろに最上の家具調度ばかりで纏められた私室を見回した。
「ああ、割れ物や背の高い物品は片付けておいてくれる? ぶつかって落としでもしたら困ってしまうもの」
肩をすくめて「壊しちゃうのも怪我するのも嫌だし」と呟く女主人に、梁は慇懃に「わかりました」と頷いた。
元々具足の多くない部屋とはいえ、キャビネットに鎮座しているガラスのカラフェやデキャンタ、繊細な調度品の数々を用を成さない塵芥に貶めたくないのは意見が一致するところだ。
「――そういえば聞きましたか、大姐。先日、大姐がお怪我した……暴力教会での一件。元凶のあのインド人、バンカ・ブリトゥン経由で逃げ果せたそうです」
「ああ、ミス・“ブラックハット”。彼女には、残念ながらお返しし損ねちゃった……。ふふ、あのときは本当に困ったわ」
「それが、ウチの取引先のヤツらが喋ってるのを小耳に挟んだんですが……ラグーンのメカニックと昵懇にしてるとかで」
「まあ、ベニーと? あらあら……それじゃあ先々、彼女とはまた会えるかもしれないのね。この街で」
「また面倒なことにならなきゃいいですけど」
かすかにガラスや陶器のふれ合う涼やかな音を背景に、他愛ない会話は連々と続き、ようやく告げられた「終わりました、大姐」という梁の呼声は、躊躇いを多分に含んでいた。
おずおずと話しかけられた女はおっとりと微笑んだ。
「ご苦労さま、梁。片付けもだけれど、お話相手になってくれて助かったわ。下へ降りて結構よ。ふふ、暇で仕方なくって。……これからどうしようかな、手持ち無沙汰だし……ピアノでも弾こうかな。んん、でも弾けるかしら」
「……あの、大姐、」
「なあに?」
相も変わらず白布に覆われておうとつがすくないのっぺらぼうじみた顔貌を向けられ、尻込みしたように部下は口ごもった。
「えーと……大哥に伝えますか。あー、その、大姐が……お暇だと」
平素よりも格段に口数多く囀る小鳥になにかしら思うところがあったのか。
不興を買うのではととつおいつ言いよどむ梁に、思わずなまえは口元をほころばせ、所見を褒めるように白い両手を軽く重ね合わせた。
「ふふ。梁、あなた、やさしいのね。ありがとう。――でも結構よ。これ以上、旦那さまの御手をわずらわせるようなことを重ねるなんて、わたし……わたしを許せないもの。ね?」
微笑みは、奉じられる通り名に相応の温雅さだった。
しかしながら決然とした語調、冴え冴えと響く囀りは、にべなく他人に命令することに慣れた者の命に他ならない。
いわんや下部構成員のひとりが、これ以上なにか言い募ることができるだろうか。
「……それじゃあ、失礼します」
「ええ、ご苦労さま。業務以外のことをさせてしまったわね」
結局、梁はただ一礼を返すと、そそくさと女主人の城から退出した。
6
寝室からひとり脱出したなまえは、ぺたぺたと手探りでピアノが置いてある談話室まで辿り着いた。
重々気を配ってはいたものの、途中、壁に足をぶつけてしまった。
痕になっていないと良いけれどと恨めしく思いながら、彼女はちいさく溜め息を吐いた。
セミコンサートの真っ黒な鍵盤蓋を開け、キーカバーを丁寧に折りたたみながら前屋根を開けたものかすこし悩み、結局やめにした。
前屋根を閉じたままの音は少々こもっていてあまり好みではなかったが、贅沢を言っていられる身でもない。
もしも誤って手を滑らせ、重たい前屋根や大屋根でも倒してしまえば、ことによっては骨折もしかねない。
折角、視力以外の損耗は免れたのだから、このようなことで身を傷付けるなど愚の骨頂以外のなにものでもなかった。
なまえはいつにも増して慎重な動作で椅子へ腰掛けた。
確かめるように硬い鍵盤を指先でなぞった。
ピアノの場所までなんとか辿り着くことはできたが、さてどうしようかと逡巡した。
目が見えないいま、技巧を凝らしたものを弾くのは困難だ。
ゆっくりした曲が良いかと考え、先程梁が夜だと言っていたために夜想曲を選んだ。
ノクターンというとなまえの頭にショパンの夜想曲第二番がまず浮かんだ。
しかしうつくしく穏やかな旋律の右手とは裏腹に、ベースとなる左手の動きは離れた音、跳躍ばかりで占められていた。
普段ならともかく、手元を直接確認できないいま、なまえのちいさな手ではいくら易しい曲とはいえ大きな跳躍をそれ相応の教練もなしに弾くのは難しいだろう。
結局、比較的動きのすくないドビュッシーの『月の光』を選び、平生よりテンポを落として弾き始めた。
はじめから終わりまでほぼピアニッシモを指示されたこの曲は、甘く切ないメロディがうつくしく、正しく月の光のようだ。
――そういえばロアナプラで月を眺めたことはなかったな。
指を止めることなくなまえは心中呟いた。
地に満ちるけばけばしいネオンサインのせいでロアナプラは毎夜明るい。
暴力的な日射しと湿気を厭ってか、白日の下が都合の悪い者たちが大部分を占めるせいか、真昼間よりも夕方から夜の方がひとの行き来が多い街だ。
眩い宵にわざわざ夜空を見上げる酔狂な者などそうおらず、それでなくとも盲いてから初めて天上の月や星たちを慕わしく感じるなんぞ、いくらなんでも感傷に過ぎるというものだ。
月のない夜、なまえはひっそりと苦笑した。
鍵盤を叩くのも、暗い寝台に横たわるのも、そう変わらないということだろうか。
視覚情報を絶たれた思考はとりとめもなく漂った。
次いで、そういえば、本邸で育てている植物たちは無事だろうかと思いを馳せた。
薔薇や檸檬に似た香りを持つゼラニウムたちは、丸みを帯びた愛らしいインパチェンスは、どうだろうか。
とりわけ目の覚めるような青いデルフィニウムは対暑性に弱いが――と、そこまで考えたところでミスをした。
はっと鍵盤から手を離してしまった。
指が離れてしまったため、いままでふれていたキーがどこだったのかわからなくなった。
続きの譜面はきちんと記憶していた。
ミスがなければそのまま弾き続けていただろう。
しかし弾いていたところへ戻るため、改めてひとつひとつふれて鍵盤を探すことをなまえはしなかった。
理由はわからなかった。
それ以上深く考えることを彼女は放棄した。
その後もピアノソナタ第十四番『月光』、シューベルトの『セレナード』、比較的容易な曲を選び、平素より極めて慎重に指を運んだ。
夜想曲は夜のための叙情的な楽曲だ。
ゆっくりとしたテンポ、起伏のすくないメロディ、繰り返されるテーマは当然ではあるものの、しかしそんな性格的小品ばかり弾いているとなんとなく気が滅入ってきた。
精彩のない顔で――幸か不幸か、誰にも見られることがないために彼女は取りつくろうことなく素直に表情を浮かべることができた――なまえは、キーカバーを元に戻して鍵盤蓋を閉じた。
憂いとも倦怠ともつかないぬるい微笑を浮かべたまま、さっさとピアノから離れた。
苦労して辿り着き、さして時間も経っていないというのに、ひとり閨房へ戻った。
7
遠くで怒号と銃声が響いている。
耳障りな喧騒を聞くともなしに聞いていた女は、やれやれと嘆息した。
こんなところまでわざわざ足を運んだのは香港へ一時帰国していた主を迎えるためであって、つまらない愚か者たちの後始末を観戦するためではないのだ。
朽ち果てていく過程を披露しようとでもいうのか、薄汚れた廃工場はいかにも不気味な雰囲気をかもし出していた。
黒塗りの車の脇で佇立したまま、暢気に「まだかしら」と息をついていた女はふいに眉をひそめた。
先程から遠方で聞こえていたはずの銃声が、にわかにこちらへ近付いてきていやしないだろうか?
窓として体を成していないガラスがびりびりと揺れた。
近くにいた黒服の顔がやや強張り、懐から銃を取り出した。
自衛のための武器も持たない女は、側杖を食っては堪らないと、さっさと大人しく黒い車へ乗り込もうとした。
その途端、ひび割れたような不快な金属音を立てて廃工場の錆びたドアが内側から蹴り破られた。
叫喚と共に出てきたのはひとりの男であり、男の灰色がかってくすんだ緑眼と彼女の黒い目がかち合った。
所々焦げてしまったシャツで拭う余裕すらないのだろう、顔は煤と泥とおびただしい量の汗でまだらに汚れていた。
すぐさま黒服たちが銃を構えたが、それよりも先に恐怖と憎悪に染まっていた男の顔が、一瞬にやりと引き攣った。
伸るか反るかの大一番、男は確かに唇を歪ませたのだ。
タダでは死んでやるものかと道連れを見付けた、純然たる悪意と禍々しい歓喜に。
車のドアを開けかけた姿勢のまま、振り向き大きく目を見開いた女の前で、男が高々と片腕を挙げた。
彼は左手になにかを握っていた。
閃光と轟音、そして衝撃。
――はっと意識が浮上した。
目が覚めてもなお真っ暗闇の只中にいるのは、思いの外混乱を来すようだった。
自制心によってその混乱を無理やり抑え込み、なまえはベッドに横たわったまま深く息を吐いた。
悪夢ではなかった。
ただの事実のリフレインだ。
ほんの数日前に起こったことだった。
「っ、う……」
睡眠を取りすぎたためだろうか、頭の奥が軋るように痛んだ。
四肢が妙に重怠す、靄がかっている思考を振り払うようになまえは頭をゆるく振った。
まだ夢のなかにいるような心地がした。
窒息してしまいそうな静寂のなか、なまえは意図して呼吸を繰り返した。
息を吸い、吐いた。
意識しなければ、自分が過たず呼吸をしているのか、不安に駆られた。
静まり返った閨に、彼女の大袈裟な呼吸音だけが響いた。
ひとり、静寂を破ることがこれほど億劫なことだとは思わなかった。
秒針の音がわずらしくて連続秒針時計を選んでいたのを、このときほど恨めしく思ったことはなかった。
穏やかな静謐さなど程遠かった。
終夜輾転すれば否応なしに、じくじくと膿むように空気が停滞する心地がさた。
あたかもゆるやかに酸素の濃度が低下していくような錯覚は、重たい息苦しさをなまえが実際に覚えるほどだった。
いまが朝なのか、夜なのか、それすらわからない自分にほとほと嫌気が差した。
そのときかすかに慣れ親しんだ香りが鼻腔をくすぐった。
視覚を奪われたことにより嗅覚が鋭敏になっているのか。
彼女の身にも深く染みついた、煙草の香りだった。
「……だんなさま?」
こぼれ出た声音は思いの外心細そうな響きで、口にした当人ですら驚いてしまうほどだった。
あえかな細い声に、しかし返答はない。
なにかを探すようになまえは手をさまよわせ、すぐに力なく腕を下ろした。
シーツの衣擦れの音が大仰に響き、気怠げに投げ出された指先が、神経質に痙攣した。
ぎゅうっとてのひらを強く握り締めた。
手を伸ばして主を探し求める行為は、たった一歩でも後ずさったなら切り立った崖っぷちから真っ逆さまに落下してしまいそうな、ぞわぞわと足がすくんだ際の感覚に酷似していた。
「……夢と知りせば……」
ひとりぼんやりと口遊んだ。
口を衝いて出たのは古い詩の一節で、「夢で会えたのは、あのひとのことばかり思いながら眠りに落ちたからだろうか、夢のなかでこれが夢だと気付くことができたなら、目覚めなかったのに」となまえは悄然としてうつむいた。
悪名高き「金糸雀」が笑わせる。
永劫光を奪われたわけでもなく、白磁の肌を傷付けたわけでもない。
ただしばらく盲いた状態を強いられているというだけで、なにを気弱になっているのか。
年端も行かない幼な子のように心細い声を漏らしてしまったことに、誰よりも彼女自身が最も失望を覚えていた。
「……ふ、」
ひっそり自嘲気味に笑った。
緩慢な動作でなまえはシーツへ顔をうずめた。
8
寝台に横たわるさまは、昏々と眠りの淵に沈む茨姫もかくやあらん。
意識のないなまえを見下ろし、張維新は口の端から紫煙を吐き出した。
咥えた煙草はいつの間にか灰が長くなっていた。
色の失せた女の唇からは薄い呼吸音しか聞こえない。
眼窩に沿い、包帯がわずかに陰影を濃くしていた。
臥せった小鳥は殊更に華奢に見えた。
見間違いではなかっただろう、飼い鳥を見下ろす男の目がどこか恨めしげな色を湛えていたのは。
濃墨の髪が真っ白なシーツを這っていた。
精神的、肉体的、いずれの多大なストレスによるものか、彼女が手入れを怠っているのか、あるいは両方か、本来は大層うつくしいはずのなまえの黒髪はいまはつやを損ねていた。
寝乱れたなまえの黒髪を一房、張は手に取った。
常ならば極上の手ざわりと共にさらりと指先から流れ落ちる黒髪は、しかしもつれ引っかかった。
わずかに開いたカーテンの隙間から夜が忍び込んでいた。
雪のように横たわるなまえは花瞼を開かない。
白い顔は、『レディ・ジェーン・グレイの処刑』のように顔の半分近くを隠す包帯のせいで、見る者へ人形じみた印象を強く与えた。
憂愁を含んで白布を眺める男の横顔は常住の洒脱さなどかなぐり捨て、幽鬼じみてさえいた。
一分の隙なく着込んだ黒いスーツは、夜より生まれ出でたかの如く暗く、なるほど、凶霊が纏うに相応しい。
「雅兄闊歩」の名をほしいままにする偉丈夫は、しかしいまにも呪詛を吐かんばかりの面持ちで紫煙を吐き出した。
芳醇な黒煙草の香りに掻き消されてしまいそうだったが、閨にはごくかすかに白百合と伽羅の微香が漂っていた。
なまえの香り、色、肌ざわりは、容易に死人を連想させた。
「……なまえ、」
おもむろに呟いた名前は夢寐の女には届かない。
唇の端で短くなっていた煙草を灰皿へ弾き、張は踵を返した。
9
数日ぶりに包帯がとかれ、層楼の天辺からロアナプラの街並みを鳥瞰するなまえの目は、黒々と光っていた。
主人たちと同じく、この街においてトレードマークとなって久しい白いワンピースを身に纏い、眩い油照りの魔都を愛でるように床から天井までを覆う大きな窓ガラスに手を付いた。
肉が落ちて形悪く細くなってしまった脚のため、彼女は平生よりふらふらと大廈内を歩き回っていた。
ふれ心地、抱き心地になにより重点を置き、メンテナンス、維持されていた肉体は、現在その具合を損ねていると認めざるをえない。
なまえは丁寧に薄化粧を施した顔をほんのわずかに憎々しげに歪めた。
飼い主の好みによって毛を切り揃えられる犬のように、彼女の身体は最上の状態を保っていたというのに。
いまは露出のすくないワンピースに隠されているものの、盲いている間にこしらえてしまったらしく、腕や足にはどこかでぶつけた痣や些細な切り傷が生じていた。
そのとき前触れなく私室の扉が開かれた。
誰何もノックもなしになまえの居室を訪れる者など、この世にただひとりしかいない。
ぱっと顔を輝かせ、なまえは広がる偉観に未練もなく振り向いた。
きゅっと絞られたウエストからふんわり広がる淑やかな裾が、夢のようにうつくしく翻った。
「旦那さま!」
「もう良いのか? 梁が心配してたぜ、小鳥が人肌恋しくて毛引きせんばかりってな」
ペントハウスの私室へ颯爽と現れたのは張維新、なまえのただひとりの飼い主だった。
黒いスーツの上着はいまは脱いでおり、ネクタイもゆるめられていた。
完璧に磨き上げられたコルテの革靴がかつりと床を踏み鳴らした。
主人を視認できる喜びに、なまえはこの上なく嬉しそうに頬をゆるめた。
「ええ、申し訳ございません、ご迷惑をおかけしました。不調も特にありません」
白百合に似た香りと共に張へ駆け寄った。
数日ぶりに主を拝することができる幸福を堪えきれないとばかりに声音は極上の甘露めいて甘く、語調は跳ねるようだった。
「それにしても、はじめにこの目に映すのはあなたのお姿だと嬉しかったのに……旦那さまったら、どちらにいらっしゃいましたの?」
なまえは不思議そうに首を傾げた。
おもむろに張がかけたサングラスを片手で外すと、「ん、ちょいと与太に付き合ってきたもんでな」と肩をすくめたのはほとんど同時だった。
隔てのない互いの黒い双眸が交わり、つと全き主が口の端を歪めた。
笑みというにはあまりにも禍々しい、そう、幽鬼が地獄の釜を開け放つ折節、きっとこんな顔をしているに相違ないと思わせる哄笑だった。
金糸雀が知り及んでいる、アフガン還りの戦争狂いやら女中の格好をした元FARCテロリストやら、地獄の眷属たちならばいざ知らず、見る者にぞわりと戦慄を感じさせるような陰惨な笑みを小鳥の前で浮かべるなどそうないことだった。
常になく剣呑な笑みに、なまえは不思議そうに首を傾げた。
「旦那さま?」
「やれやれ……お前のせいで、随分とシュミの悪いことをしちまった」
物腰はいつも通り軽妙洒脱、非の打ちどころがないほど紳士的ではあったが、しかし元来甘さを残す丸い双眸はいまは鋭利な凶器のように眇められ、口元にはジタンの代わりに、いかにも傲岸な微笑が浮かんでいた。
「なまえ。ほら、土産だ」
あの廃工場での騒動以降、情報屋たちの残り一匹は、この狭い街から単身で逃走していた。
直接被害を被ったなまえは、しかし別段、逃げ果せた鼠賊などにこれっぽっちも興味はなかった。
撃ちこぼしの生殺与奪権は三合会のものだ。
凡夫が場末の暗渠に浮かぼうが、切断された己の粗末なモノを口腔に詰められようが、それは小鳥には関係のないことだ。
しかしながら主より下賜された「土産」は――一揃いの眼球は。
「ああ、ああ――旦那さま!」
なまえは思わず恍惚の溜め息をついた。
肺腑を衝かれたとばかりに己が両手をきゅっと握った。
紅のひかれた愛らしい唇は、感極まりふるえてさえいた。
確かに先日「目には目を」と口にした。
しかし、いみじくも主が自分の言を寸分違わず叶えてくれるとは。
感に堪えないと頬を上気させた小鳥を前に、敬畏措くあたわざる男は羅刹じみた笑みを更に深めた。
殊更に芝居がかった所作で差し出されたのは銀色の皿だった。
乗っているのは一対の目玉である。
鏡面のように光を反射するシルバープレートは縁取りの彫刻が大層うつくしく、その中央に転がる誰かの眼球はそれぞれ貪婪にあらぬ方向を見ていた。
否、見ているというにはあまりにも――。
片方の目玉は粗雑な者が無理やりえぐり取ったのだろうか、角膜はぶよぶよに波打ち、一番外側の強膜、そして硝子体がいびつにひしゃげていた。
既に腐敗が始まっているらしく不快な臭いを放ちつつあった。
しかしシラクサの聖ルチアは視神経がぶらさがったままの醜悪な二顆のプレゼントを、初恋を知ったばかりの乙女もかくやとばかりにうっとりと見つめた。
「ああ、旦那さま……感謝の印に踊ってみせましょうか?」
白い包帯越しでもない、黒いサングラス越しでもない、隔てなく交わる互いの両眼に、なまえは幸甚の至りと瞳を潤ませた。
熟した果実からとろりと蜜が溢れ出でて滴り落ちるさまを彷彿とさせるとろけた笑みと声色は、見る者、聞く者すべてを堕落せしめるにはあまりあるほどだった。
なまえがこのような陶酔に耽る顔を見せるのも、ましてやそんな表情を形づくることすらをも、知り及んでいるのは自分だけだと熟知している飼い主は、その愉悦にぞくりと肌が粟立つのを感じた。
燻る情欲をいたずらにもてあましながら張維新は目を細めて嘯いた。
「ふ、それじゃあ順序が逆だろうよ。サロメ」
「ふふっ、それではヨハネではなく、あなたに口付けをお捧げしましょう、旦那さま!」
いまにも落涙せんばかりに水分を湛えた黒目をきらめかせ、なまえは張の腕の中へ飛び込んだ。
男は揺らぐことなく悠々と女の身を抱き留めた。
主の香り、熱、腕に包まれ、なまえはその細腕で力いっぱい、ぎゅうっと張の身へすがりついた。
極上の黒煙草と白百合の芳香が混じり、腐敗臭など呆気なく掻き消された。
今生、いまこのときが一等幸福なのだと言わんばかりにとろけた笑みで、なまえは主へ凱歌代わりの口付けを捧げた。
(2019.07.31)