戯れ

「あっ、だめ……旦那さまは、動いてはだめです」
「もう良いだろ、なまえ。十分待ってやったじゃねえか」
「あと少しだけ、なまえにお付き合いください、ね、おねがい、だんなさま……」

彪如苑ビウユユンはノックしようと腕を上げた姿勢のまま、ドアの前で立ち尽くしていた。
熱河電影公司イツホウディンインゴンシビルの天辺で、ボスたちがなにをやらかそうと彼らの勝手だし、こちらに累が及ばない限りまったくもって知ったことではなかったが、しかしいま彼の腕には書類が山のように積まれていた。
表向きのケーブルテレビ配給会社、映画産業関連にはじまり、裏の蛇密航やら帯貨(※香港、澳門マカオおよび大陸間で禁止されている禁制品の流通)やらの本業に至るまで、両方の雑事が立て込んでいるのだ。
さわらぬ神に祟りなし、簡明直截、ぶっちゃけたところ山積する仕事がなければ、気持ち良く一八〇度ターンをキメてさっさと階下へ降りていたに違いなかった。

現実逃避がてらどうしたものかといたずらに熟考するも、残念ながら眼前の仕事は減ってくれやしない。
深々と溜め息を吐き、仕方なくノックした――頼むから入室を跳ね除けてくれないだろうかと念ずることも、仕事中そうそうあるまいと遠い目をしながら。
上司たちの興じる戯れの渦中へ飛び込まずに済むなら、どんな取引にも喜んで応じただろう。
女主人の明るい「どうぞ」という声に促され、彼は渋々社長室へ入った。

「……なにやってンのか、尋ねてもいいですかね」
「え? ああ、旦那さまの爪が伸びていらっしゃって。ふふ、片手間にお手入れさせていただいているの」

我が世の春とばかりにゆるみきった顔でなまえが囀った。
繊手せんしゅにはガラスの爪やすりがあった。
いつものようにぴったりと隣へはべり、主人の左手を恭しく手に取っている彼女は、男の爪にネイルファイルをすべらせていた。
どうやら喋々喃々と上機嫌な飼い鳥に付き合い、左手を預けたまま張は右手で書類を扱っていたらしい。
ソファ越しに振り向いた香港三合会トライアドナンバー四の男は、仏頂面の部下が持つ書類を見るなりげんなりと唇を歪めた。

「おいおい彪、まさかソレ」
「お察しの通り追加です、大哥」
「小鳥に片手取られてなけりゃあ、とっくに逃げてるぞ」
「大姐、ありがとうございます」

彪は肩をすくめてなまえへ軽く頭を下げた。
なまえも芝居がかった仕草で「どういたしまして」と礼を返すが、機嫌の良さそうな笑い声は堪えきれていない。

「お役に立てて嬉しいわ、彪」
「まーったく、書類仕事ってのは、どこの職種だろうと面倒なことに変わりゃしねえ」
「ああん、もう、動かないで、旦那さま」
「爪くらい適当に爪切りでやりゃあ良いだろ。なんだそのケア用品の量は」

張の言う通り、なまえの手元にはエメリーボードやアクリルファイルのネイルファイルから、数種のネイルオイルまで散らばっていた。
さすがにそのすべてを駆使するわけではないだろうが、しその場合は鬱陶しさに振りほどいて前言にたがわず逃走していたかもしれない。
そっけない飼い主のセリフに、なまえは愛らしく唇をとがらせた。
むっとした表情のまま、張の左手を、きゅっと握り締めた。

「あんまり無体なことばかりおっしゃっていると、マニキュアまで塗ってしまいますからね。御身の爪が可愛らしいピンク色になってしまうのは、本意ではないでしょう?」
「やれやれ、金糸雀カナリアが脅迫に手を染めるとは」

嘆かわしいと言わんばかりにわざとらしく片眉を上げてみせた飼い主に、なまえは相好を崩して彼の爪先へそっと唇を落とした。

「いい加減、降参してくださいませんか、旦那さま」


陶然

「……お外、今日も暑そうですね」
「わざわざ出て確かめるまでもねえな。こんな日に往来を歩くのは底抜けのバカか、ばつとかいう化け物くらいのもんだろうさ」
「……ね、旦那さま」

街を見下ろすガラス窓に手を着いたまま、旦那さまを振り返った。
それほど物言いたげな顔でもしていたかしら。
わたしの考えていることなんてとっくにお見通しでいらっしゃったのか、旦那さまは紫煙まじりに溜め息をついた。

「なまえ。聞き分けのない真似は、」
「まだなにも申していないでしょう?」

むっと口を曲げた。
ネクタイをゆるめてソファにゆったりと腰掛けていらっしゃる旦那さまは、それはもう鬱陶しそうな眼差しをサングラス越しにわたしへ寄越した。

このところわたしが外へ出ていないことは、許可をくださらない飼い主さまご本人がようくご存知のはずだった。
もしもこの街に住んでいながら、ロアナプラのだるような熱風や漂う腐臭を、恋しく思う日が来てしまったらどうしよう。
つい唇がとがってしまう。
お外の空気を吸うことがそれほど罪深いことかしら。

そのままじっと睨めっこをしていると――ああ、サングラス越しではなくてその目を直接見上げていたい――、とうとう根負けしてくださったのか。
旦那さまは咥えていた煙草を、灰皿へ乱雑に落とした。

「はあ……ほら、なまえ、来い」
「っ、旦那さま!」

広げられたその腕のなかへ飛び込んだ。
濃いジタンの香りと旦那さまの熱に包まれて、おのずからうっとりと目が潤んでしまう。
だって仕方のないことだ、旦那さまの腕のなかより幸福な場所をわたしは他に知らないのだから。
外出したいのはまぎれもなく本心だったけれど、旦那さまがこうして抱き締めてくださるのなら、他のことなんて些細なことに感じられてしまう。
お膝の上に乗って犬のように喜んですがっていると、やれやれとでも言いたげに旦那さまが息をついた。

「……なあなまえ、俺に相手させたいだけで、まさか別段そこまで外出したかったわけじゃねえ、ってこたあないよな」
「ふふ、まさか……」

ああ、どうしよう、説得力に欠けるかもしれない。
自分でも驚いてしまうほど嬉しそうな声になってしまった。
旦那さまの首元へ額を預けて、ぐずるようにごろごろと戯れ甘えていると、ますます思考がとろけていってしまう。

「でも……旦那さまにふれていただいているときが、ふふ、なまえは一等幸せですよ」

他のひとには到底見せられないほどゆるんだ表情で仰ぐと、とうとう旦那さまは大仰に嘆息した。
呆れたように息を吐いていらっしゃるけれど、これほど至近距離で見上げていれば、サングラス越しとはいえ――その目が機嫌良く細められているなんて簡単にわかってしまうんですからね。


BELIEVE THE DAY OF JUDGMENT IS CLOSE AT HAND

(※「Greenback Jane PT.1」沿い)


顔面蒼白な「三合会の金糸雀カナリア」なんぞ初めてお目にかかる。
物珍しさにエダは口笛を吹いた。
横に立つヨランダをちらりと窺えば、海賊じみたアイパッチの反対側、残された隻眼がそれはそれは愉快そうな弧を描いていた。
どうやらこの場に哀れな小鳥の味方はいないらしいとエダは冷静に判断した。

「おンやまあ、小鳥としたことが。なまえ、アンタ一体、どうするつもりだい」
「……シスター……」

呻いたなまえの顔には「ヤバイ逃げたい」とはっきり書かれていた。
この場において、暗澹たる小鳥の顔色の理由を知らないのは事の発端、すなわちジャネット・バーイーだけだった。

「なんなの、その顔? あんた、この世の終わりってくらい辛気臭い顔してんじゃないわよ」
「……ミス・チョコレート。厄災の元凶であるあなたにはわからないでしょうね。だけどわたしにとっては“この世の終わりの次に困ったこと”なのよ……」

なんのことかと顔をしかめているジェーンは、ヌエヴォ・ラレド・カルテルの追っ手から辛くも逃げ出し、ついさっき半殺しの憂き目に遭いかけた自分よりもずっと悲愴な面差しをしているなまえが余程気に食わないようだった。
いぶかしげに睨まれたなまえは、しかし子細に及ばず、丁寧に説明してやる余裕などなかった。

まったく、不運という他ない。
例の如くシスター・ヨランダとの「お茶会」のため、なまえはリップオフ教会を訪れていた。
クーラーが故障していた礼拝堂と違い、応接室の空調は問題なかった。
しかし長閑な茶話の最中、折悪しく聞こえてきたのはおびただしい量の銃声だった。
銃声なんぞ、尋常一様、魔窟においてイスラム圏のアザーン程度のものであり、一々気に留める方が奇矯だろう。
とはいえここ「暴力教会」へ鉛玉を撃ち込む恐れ知らずはそう多くはない。

「やァれやれ、小鳥の貴重な“お出かけ”だってのにすまないねェ」と重い腰を上げ礼拝堂へと赴いたヨランダに、なまえは「シスターも大変ですね」と苦笑を返すしかなかった。
側杖そばづえを食っては堪らないと、なまえは奥まったところに控えていた。
しかし煮え立つような叫喚の狭間、あに図らんや、なんとも不幸なことに、不信心者の放った銃弾の一発が裡面りめんに佇んでいた彼女の脇を掠めて漆喰の壁にキスをした。
結果、なまえの黒髪の一房を損なってしまったのだ。

手入れの行き届いたつややかな黒髪は、ごく一部分とはいえ無残に焦げて短くなっていた。
なんとか辛うじて評価できるポイントを探すなら、し吐き出された空薬莢で殴りつけようものなら手ずからひとひとり死に至らしめらるだろう乱痴気騒ぎにもかかわらず、然許しかばかりむせるような濃い硝煙のにおいや汚れを別にすれば、流血を伴う損耗がなかったくらいだろうか。
教会入り口、開口部のアーチの下で、心底困りきった表情のままなまえは手を頬へ当てた。

「帰宅しなきゃ……いえ、でも、このまま戻るのは……。――ねえ、レヴィ、」
「やめときなァ、なまえ。お前に手を貸す奴がここにいると思ってンのか? 張の旦那に睨まれてまでよ。ハッ、おめでたいにも程があるぜ、そこのインド女よりな」
「いっそ気持ちが良いほど薄情ね……」

なまえは悄然として項垂れた。
なんとなれば「金糸雀カナリア」は張維新チャンウァイサンの「所有物」である。
それを害することは、たとい当のなまえであろうとも許されない――そこになまえ本人の意思など関係なく、理非もない。
彼女にとって他のなにより優先される不文律、「全き主の所有物を勝手に損ねてはならない」。
思慮深い小鳥は、だからこそ顔を青褪めさせた。

「……この世に神様なんていないことが証明されたとお思いになりません? シスター・ヨランダ」
「罰当たりなこと抜かすンじゃあないよ、不信心だねぇ。まあ……金糸雀カナリア、アンタが“ここ”でそんなありさまになりやがったとあっちゃア、こっちが睨まれないとも限らない。泥を被ってやンのもやぶさかじゃアないんだが……」

いかにも慈悲深げにヨランダが嘯いた。
なまえは大して期待していない胡乱な眼差しを、老獪極まる大シスターへ向けた。

「ま、アンタのためにお祈りのひとつでもやってやるさ」
「……まあ、心強い。あなたの神様が、“地獄に落ちろ”と吐く女でもお救いくださると良いんだけれど」

口汚い言葉をストレートにこぼす金糸雀カナリアなんぞ、このロアナプラにおける降雪レベルで稀有なものだ。
片眉を上げて物珍しさにまたも口笛を吹いたエダに、なまえはじっとりと恨めしそうな目を向けた。
いつもの白い日傘を手に「わたしはこれで失礼しようかしら。それでは皆さま、ご機嫌よう……」と待ち受けていた黒い車へ乗り込んでいった。
それはもう重たい足取りだった。

「……ゴルゴタの丘を登る背中ってェのもあんな感じなンかね」
「当たらずとも遠からずってとこさねェ、エダ」
「なんなのよアンタら! あの女も、髪がちょっと切れたくらいで……」
「ウッセ眼鏡。この街に来て浅いテメェは知ったこっちゃねーだろうが、サスペリアも真っ青なそりゃあ怖ーい仕置きが待ってンだよ、あの女には」


(※その後)
「そういやレヴィ、最近、なまえさんと会ったか?」
「あ? なまえ? いや見てねーけど。なんか用でもあンのかよ、ロック」
「そういうわけじゃない……けど、いろんなところで耳に入ってくるんだよ。この頃、なまえさんを見かけないって。なんだかんだ彼女と関わってる人間も多いだろ、この辺は」
「あー……旦那に監禁でもされてんじゃねえの」
「なんだ、穏やかじゃないな」
「ヘッ、この間、あーの眼鏡インド女が持ち込みやがったクソを踏まされたのさ、金糸雀カナリアは」
「ミス・バーイーが? なまえさんと関わりはないはずだろ、どうして……」
「知ってっかァ、ロック。馬の後脚は人間ひとりくらい吹っ飛ばすのはワケねえんだよ。ちなみに頭蓋骨くらいなら粉砕できるらしいぜ」
「は?」
「馬に蹴られたかねェなら、余計なことに首突っ込まねえで黙っとけってこった、スィリー」


随に

(※「高嶺の花」より前の時系列)


「ええと、ボリスさん。どうしてここのлは発音しないんでしょうか」
「ああ……子音が連続すると、発音しない語があるんです。これは例外なので、単語ごとに慣れるしかないですね」
「……なるほど、“здравствуйтеこんにちは”で、вの文字を発音しないのと同じ……ということ?」
Правильноその通り、理解がはやくて助かります」

ロシア語の教本を手にしかつめらしく頷く「三合会の金糸雀カナリア」と、その横で実直な面持ちで受け答えする「ホテル・モスクワ頭目の副官」という、身長も体格も性別も人種もちぐはぐな彼らの後ろ姿を、数瞬ばかり興味深そうに眺めていたバラライカはおもむろに微笑を口の端に刻んだ。

「――小鳥は随分と勉強熱心なのね」
「ミス・バラライカ! ご用件はよろしいんですか?」
「ええ、待たせたわね」
「とんでもない、有意義な時間でした」

ブーゲンビリア貿易会社の社長執務室前の廊下で、なまえはにっこりと笑んだ。
急遽「モスクワ」絡みの連絡を受けていたバラライカを待つため、茶会に呼ばれたなまえは室外で待機していたのだ。

バラライカの軽口めいた指示により、なまえを忠実な副官とふたりにしていたのは、もしかしたら生じかねない無用ないさかいを避けるためで、貿易会社の看板を掲げる「モスクワ」事務所のなかを、かの金糸雀カナリアが無作法にあちらこちらほっつき歩くような愚か者ではないと重々承知の上でのことだ。
わざわざ弁明するまでもなくなまえもその辺りは呑み込んでいるだろう。
比類なく信任厚い部下とはいえ、か弱い小鳥一羽の話し相手にはいささか無骨に過ぎただろうが、なかなかどうして彼らのおしゃべりは弾んでいたらしい。

「ロシア語は難しいですね。独学では限界があって、ボリスさんにはお世話になっていたんです。……いままでにも何度か」
「でもなまえ、あなた、私には一度も教えを乞うたことはないわよね」
「ホテル・モスクワ頭目の御手をこんな私事でわずらわせるのは気後れしてしまって」
「あら、私の部下はき使って構わないと?」
「……意地悪をおっしゃらないでください、ミス・バラライカ」

困ったように眉を下げるなまえを伴って、バラライカが執務室へ入った。
「冗談よ」と笑いながら彼女は瀟洒なソファに腰掛けた。

「今日は茶菓子代わりに、教範――いや教科書ウチェーブニクを広げましょうか。軍曹、教師役を譲ってもらえるかね?」
「滅相もない、喜んで任を辞退します」
「ありがとうございます、ボリスさん。とってもわかりやすかったです」
「大尉はスパルタですからどうぞ励むように」
Понятно了解です、ふふ」


(※その後、「連絡会」の帰りがけにて)
「ああ、ミスター・張。お宅の小鳥に次の“勉強会”はいつにするか聞いといてもらえるかしら」
「……なんの話だ、ミス・バラライカ」
「あら、聞いてない? 最近あの子、ウチでロシア語の勉強してるのよ。良い生徒よ。飲み込みもはやいし。舌っ足らずなつたないロシア語が、あんなに愛らしいものだなんて初めて知ったわ」
「……やれやれ、授業料を支払うべきかな」
「フフ、結構。はした金をせびりに来たわけじゃあないんでね」


ぜんぶくすりのせい

(※タイトル通り)
(※深く考えてはいけない)
(※「常日頃から好感度カンストとはいえ、ストレートに“好き”って言うのは逆に無理な夢主可愛いのでは!?」というとち狂ったツイートが発端)


「……小鳥が薬に手を出すたあな。それも、“本音しか話せなくなる薬”だと? なんだこれ正気か」
「正気ではないでしょう、そういうネタだから仕方ないのであって、わたしのせいではありません。本当に嫌だわ。自白剤の一種かしら」
「その割にほとんど変わらねえなあ、お前。つまらん」
「ふふ、それだけ日頃からなまえが素直ということでしょう?」
「その時点で充分、胡散臭いぜ……まあ、折角だから俺のことどう思ってるかだけでも聞いておくかな、なまえ?」
「好き好き大好きお慕いしております、旦那さま、ずっとおそばにいさせて」
「……」
「……」
「……なまえ」
「忘れてください! なにこれ卑怯ですよ旦那さま!」
「はっはっは、前言撤回だ、いやー俄然面白くなってきた」
「なにも面白くありません! あと大きなお口で笑うあなたがかわいい!」
「お前には負けるぜ、なまえ」
「っ……!」


(※その後)
「……なんで大姐は、自分で口を塞いでるんですか」
「素直な小鳥は囀りたくねえご気分なんだと」
「は……?」
「な? なまえ」
「彪、部屋から出て行って、いますぐ!」
「おっと、悪名高い“穢れなき処女”とやらが随分と手厳しいこって」
「意地悪なさらないでください、旦那さま」
「……なあ、ところでなまえ、いまなに考えてる?」
「抱きしめて、他のひとなんて見ないで、ああ、旦那さまは本当に素敵……ッ、ああもう! この薬、いつ効果が切れるんですか!」
「そーかそーか。というわけで彪、俺となまえは部屋にこもるから、急ぎのやつ以外、連絡も寄越してくれるなよ」
「はあそうですか。ごゆっくり」
「なげやりにも程があるでしょう、彪」


White-Armed

(※「Greenback Jane PT.2」ネタ)


汚らしい廃ビルの一角に立ち込めた臭気は、塵芥ちりあくた窮途末路きゅうとまつろたる人間も行き着く暗渠あんきょの末そのものだった。
湿気を孕んだ不快な空気がべったりと肌に纏わりついた。
発注元が逮捕されたか、あるいは一足先に三途の川を渡ってしまったか、建築途中で放置されたビルや工場もどき・・・はここロアナプラではさして珍しいものではなく、格好の「秘密のやりとり」場所のひとつだった。

いずれにせよいやしくも名高い「穢れなき処女」が直接足を運ぶ場所ではない。
さとい聴覚が細いヒールの鳴らすかつりという音を認めて、シェンホアは心密かに呟いた。
「A jewel in a dunghill.」――掃き溜めに鶴とはこのことか、と。

振り返れば、おっとりと歩み寄って来るのは果たしてなまえだった。
万が一彼女になんらかの損害が生じた場合、こちらに責が及ばないことだけを願いつつ、夜の魔都バビロンでも名うての女殺し屋は青みがかった長い黒髪を背に流した。

「わざわざ塔の天辺から降りてこずとも、処理は済みましたのに」
「手間取らせてしまったわね、シェンホア」

肯定も否定も、それどころか謝罪すらせず、なまえは有無を言わせない笑みだけを浮かべた。
シェンホアもそれ以上言い募ることはなくただ肩をすくめるだけに反応を留めた。

温雅おんがに言葉を交わす彼女たちの足元で、やにわに醜い呻き声があがった。
呻吟しんぎんの犯人は四肢を窮屈に折りたたんでトランクケースに詰められた男だった。
口には猿轡を噛まされ、身に着けているものといえば汚れたシャツと下着、そして靴下くらいの彼は、くぐもった喚き声を撒き散らしながらガタガタと体を揺すり、鏤塵吹影ろうじんすいえいのさまを体現するのに忙しいようだった。

「シェンホア、彼ったらね、木戸銭や場所代ではなくて、女性宛ての“花代”に手を付けてしまったのよ。……ねえ、あなた、どうしてこんなに愚かなことをしてしまったの?」

なまえはゆっくりと身を屈めて憂えた面持ちで男の顔を覗き込んだ。
鳥語花香とはけだしこのこと、囁き声は春に舞う花弁めいてうつくしく、玉響たまゆら、来し方行く末すべて忘我の境に入るような心地を与えた。

「“あのひと”の花代や遊興費は小鳥が管理しているの……。だからあなたの行為は、わたしの落ち度ということになってしまう」

打ちっぱなしのコンクリートの部屋には、腐食した金属や朽ちつつある汚泥のすえた臭いが立ち込めていた。
健やかなかんばせ血腥ちなまぐさい周囲の状況などまるで見えていないかのようだった。
場所が場所ならば、さながらプライベートビーチで紺碧の海を眺めているような澄み渡った声で滔々とうとうと、四肢を拘束された屠所としょの羊を教え諭した。

「わたしはね、ちっとも構わないの。あなたがお金を返してくれたら、それでおしまいって――“手打ち”にできたら良かったんだけれど。お金で解決できるなら、そうすれば良いと思わなくて? なにもあなたを傷付ける必要なんてないもの。……でも、あなたもこの街に住んでいるなら、“お顔を潰される”のを許してはいけないということもわかるわよね?」

なにがしの組織の翼下よっかにない彼も「三合会の金糸雀カナリア」のことは知っていた。
現代のソドムとゴモラでのうのうと明け暮らしているくせに大層なご身分だと、ある種のあざけりさえ込めて呼ばれる僭称せんしょうに、しかしいまは遮二無二しゃにむにすがるしかない。
突如として拘束されたかと思えばこんな廃ビルまで連れてこられ、これから一体なにが起こるのかと――否、思い当たる節ならば無論あれど――恟然きょうぜんと荒い呼吸を繰り返していた男は、いかにも悲しそうに囀る女に愚にも付かない救いを見出した――もしかしたらこのまま見逃してくれるのではないのか、と。
憂えた面持ちの小鳥を男は哀れっぽく歪んだ顔で見上げた。

「わたしは知らないの。そのお金があのひとの女性関係のものなのかどうか、それともまるっきり別の案件で、こんな益体もないおしゃべりそのもの・・・・が見当違いなのかどうかすらも。――……でも、そんなこと、ね、どうでも良いじゃない・・・・・・・・・・?」

しかし彼の一縷の希望は呆気なく打ち砕かれた。
必死に見上げてくる男へ、女は恐ろしく場違いなほどやわらかく笑いかけたのだ。

「あなたに想像できて? 恋い焦がれているひとが、他の女性にふれたかもしれない、ふれられたかもしれないのを看過する悲しみを? そして、それを管理するわたしの苦しみを?」

そこでようやく男はおのれの考えが途方もなく愚昧だったことに気付いた。
彼を見下ろす金糸雀カナリアの黒い双眸はじっとりと濁り、よどみ、陰惨に光っていた。
微笑はまるで固定されているかのようにちらとも揺るがなかった。
筆舌に尽くしがたいほど暗く光っている縹渺ひょうびょうとした黒い瞳ばかりなぜか目に付いた。
男は背筋をぞっと粟立たせた。
浮かんでいるのは微笑だ。
にもかかわらず、否、だからこそ疎ましく、忌わしい笑みだった。

「あなたに恨みはないわ。これっぽっちもね。だけどいまあなたとおしゃべりしている女はね、ふふ、飼い主に関わった女性のことを心底憎んでしまいそうになるの。……もう、本当に罪な御方よね? でも、そんな小鳥をあのひとはお望みにならないでしょうから――」

にい、と黒目が弧を描いた。

あなたが代わりに苦しんでちょうだいね・・・・・・・・・・・・・・・・・・

うつくしい声で紡がれる、破綻した理論は――否、それは理論と呼べるものでは到底なかった――整合性のない、ただ感情に任せたけ口なのだと語っていた。
およそまともとは思えない妄言をのんびりと語って聞かせる女に、男は信じられないものを見るような目で破滅を言祝ことほぐ赤い口唇を凝視した。

「――それじゃあ、シェンホア、よろしくね。要脚はいつもの口座に?」
「ええ、後はお任せを」

ぱっと顔を上げたなまえは、それまでしっかり沈黙を守っていたシェンホアへにっこりと愛らしい笑みを投げかけた。
女殺し屋が慇懃に礼を返すと、おもむろになまえは「ご苦労さま」と軽やかにきびすを返した。
あたかもいまのいままで熱心に語りかけていたのをきれいさっぱり面忘おもわすれしたかのように、足元に這う男へちらと視線を落とすこともなかった。

さながら影のように付き従っていた黒服数名がすぐに女主人の跡を追い、臭気の立ち込める部屋にはシェンホアと床に転がった男、ふたりだけが残された。
不明瞭に引き攣れた、ぐうっと男の醜い呻き声が冷たいコンクリートの床に鬱蒼とのたうった。
かすかな白百合の残り香が場違いなほど妙に慕わしかった。

「……アンタもバカね。敵に回すます相手、次から選ぶよ」

次あるならね、とシェンホアは呟いた。
そもそも三合会からの依頼では、この馬鹿な男を拘束し次第「掃除屋」のところへ運ぶ手筈だった。
しかしどこから話を聞きつけたのやら、ゆくりなく小鳥が「少し、彼にお会いしたいの」とくちばしをねじれてきたのだ。
行きがけの駄賃に請けたものの、まさか徒爾とじ極まる恨み事をぴいちくぱあちく直接垂れるためだったとは、一体誰が想像できただろうか。

シェンホアは嘆息をそっとこぼした。
自業自得とはいえ、あんなおっかない女に「万斛ばんこくの恨み、八つ当たりで死んでくれ」と呪われてしまった男には、毛一本くらいなら同情した。
とはいえ仕事は仕事だ。
こんな腐臭漂う廃ビルに長居したいはずもなく、正直なところ一刻もはやく帰宅してシャワーを浴びたかった。

さっさと男を処分するため「掃除屋」ソーヤーのところへ運ぼうと、シェンホアは男の詰め込まれたトランクケースの蓋を閉めた。


(2024.02.24 改題)

(2019.06.28)
- ナノ -