(※ノベライズ『ブラック・ラグーン シェイターネ・バーディ』沿い)






「お帰りなさいませ、旦那さま」

待ち焦がれたと満身で伝えながら、なまえが駆け寄ってきた。
驕奢きょうしゃほしいままにする熱河電影公司イツホウディンインゴンシ大廈の最上階、一級の調度品のみで構成された居室へ予定より大幅に遅れて帰還したのは、その主人だった。

もうじき夜明けという時分にもかかわらず、恭しく出迎えたなまえは一分の隙もない白いワンピースドレス姿だ。
平素と変わらず完璧に化粧を施したかんばせをいくらか心憂い色に染めながら、飼い主を視認するや否や、ぱっと駆け寄ってきた。
足取りは辛うじて品を損なわない程度だ。
足早に飛び込んできたなまえをチャンは悠々と抱き留めた。
今生ただひとりの主人の腕のなか、やわらかな肢体がようやく息ができるとでもばかりに波打った。

打算も奸計もなく一心に捧げられる至情ごと張は抱き留め、灰が落ちないよう口の端のジタンを指先で遠ざけた。
飼い鳥の黒髪へ顔をうずめると、香る白百合に肺腑を満たされた。
ようやく一息ついた・・・・・心地だった。

「ああ――まったく、とんだ“歓迎会”だった。この麗しの悪都から遠く離れた海上で、化石じみたSVDドラグノフに7.62ラシアンをブチ込まれるなんざ……アムステルダムの奴らからは聞いてなかったからな」
「……きっと、あちらも驚いたことでしょうね」

男の語り口は平生通りの軽妙洒脱っぷりを露いささかも損なってはいない。
ただし伊達男の代名詞ですらある主が、直截に慨嘆がいたんをこぼすなど滅多にない。
珍しいこともあるものだといっそ感慨深くさえ思いながら、なまえは心密かに溜め息をついた。

西欧組織から所有権をアサインメントされた外洋タンカー船、ザルツマン号。
五万トンとタンカーとしては小規模な部類ではあるものの、制約なく大洋を航行できるパナマックスは、船長や乗員もそのまま三合会トライアドへ移籍する形で譲渡された。
表向きロアナプラを素通りする航路だったため街へは寄港させず、顔見せのため張がヘリで乗船する次第だった。
しかしそのスケジュールは大きく狂わされることになった。
張の命を狙う暗殺者たちによって――それも、ラグーン商会の魚雷艇で乗りつけた狼藉者共の襲撃によってだ。

層楼の天辺、ペントハウスにて月のない夜空を見上げながら、飼い主の還御を従順に待っていたなまえは疲労の色をちらとも見せることなく、ただし拗ねたように張の体へすがりついた。

「連絡を受けて、わたし、気が気ではありませんでした。なまえの知らないところで、旦那さまが天帝双龍ティンダイションロンを御手に取るなんて――」

眠気を訴えぐずる幼な子のような仕草で張へ纏わりついたまま、なまえは主を仰いだ。
ちいさな白い手が、仕立ての良い上等な黒いスーツを、きゅっといじらしく握り締めていた。
濡れた瞳は、雄ならばことごとく陥落せしめるだろうほどに甘く、うつくしい。

「そのお姿を見られないなんて、本当にもったいない……ああ、口惜しくて」
「心配していたのはそこだけか」

張は口の端で笑った。
船上で襲撃を受け、実際に部下四名を失ったにもかかわらずの囀りは短慮極まりなかったが、いまこの場に余人が誰ひとりいなかったために許された。

肩をすくめて笑う張に、なまえが返したのは「他になんの心配をしろとおっしゃるの?」という穏やかな笑みだった。
彼女は知っている・・・・・のだ。
主人がそこらのつまらぬ刺客の凶弾に倒れるはずがないということを。
もあらばあれ、万事が恙無つつがなし、たとい顔見知りの部下が幾人犠牲になろうともなまえにとって他のすべては瑣末だった。

「……もちろん、部下の皆のことはわたしも心を痛めています。即時、遺体の回収は無理だと判断いたしましたので……一応、形式上の葬儀、不祝儀等、事後の手配も既に済ませました。補充は旦那さまのご裁定待ちです」
「いい子だ」

一片氷心の眼差しで見上げてくるなまえへ、よみするように張は口付けをひとつ落としてやった。
それはそれは幸福そうに目を潤ませて、小鳥は主の唇を甘受した。

飼い鳥のとろけんばかりの笑みをサングラス越しに眺めながら、張は喉の奥で、くっと笑った。
彼も知っている・・・・・のだ。
なにをか言わんや、信仰あるいは盲信と呼ぶにしくはない、なまえのその思想を。

眼下にロアナプラの夜景を一望する瀟洒な居室、その中央のソファに座し、二、三、電話をかけた。
主の隣へ同じく腰掛けたなまえは、通話の合間、張が手渡した吸いさしのジタンを灰皿へ落とした。
電話の内容はどれも今回の襲撃事件――特にブーゲンビリア貿易所属の「ニフリート号」に関するものだということは、隣で静かにはべる彼女にも呑み込めた。

張が通話を終え、携帯電話を拝受しようとなまえが手を差し出した折も折、まるで見計らったかのように黒服のひとりが謝罪しながら入室してきたかと思えば、随分と慌てた様子で御諚ごじょうを仰いできた。
なまえが胸中「今回は落ち着くまでどれくらいかかるのかしら」とかこつ間にも、無謬むびゅうの白紙扇が取る采配に過不及などありべからざることであり、張維新チャンウァイサンはジタンブルーの箱に手を伸ばしながら、指示と留意事項をいみじくも告げていった。
彼が短いフィルターを咥えると、すぐさまなまえが火をともした。
途端に葉巻とまがうばかりの薫香が立ちのぼった。
足早に退去した部下を視線だけで見送りつつ、張は奉ぜられる豪奢な夜景へ鷹揚に紫煙を吹きつけた。

「やれやれ。ここ最近は悪徳の都なりにそこそこ平和だったんだが……荒れるかもしれん」
「この街が平穏無事なことがいままであったのか、疑問ですけれど。そう思えるほど酷い嵐かもしれないと?」

聡明な黒い瞳がまたたいて見上げてくる。
張は肯定の代わりに、ニィ、と口角を歪めてやった。

「俺を襲ってきた奴らの背後にロシア人共がチラつくと来りゃあ……歓迎しろってのが無理な話だろうさ。この街の人間にとっちゃあ、尚更な」

罪業という概念から最も遠く、かつ罪業そのものたる、腐臭と泥濘によって醸造されたロアナプラ。
街の勢力版図の最たるところを占める香港三合会トライアドへ、それもトップの命を直接狙う気概のある者が存在するなんぞ――畢竟、火種がどう爆ぜようと非力な小鳥が及ぶべくもない。
従順に主の言を受けとめていたなまえは薄く嘆息でもって返答とし、思い出したようにおもむろに「ああ、そういえば、」と頬に片手を当てた。

「旦那さま、いかがいたしましょう。小鳥ったら、明日、リップオフ教会へ伺うお約束をシスターとしていました」

すこしく気遣わしげになまえは首を傾げた。
自衛の手段や武器すら持たない愛玩物ペットが、いま飼い主から離れるのは得策ではないとなまえ本人も理解していた。
全き主のことだ、飼い鳥が外出するとなれば抜かりなく護衛ベビーシッターを付けるだろう。
しかしそのために人員を割く、取りも直さずどこか別所が手薄になることは避けねばなるまい。
常日頃から層楼の天辺に仕舞い込まれた「三合会の金糸雀カナリア」を暗殺者たちが狙うのは、そのディフィカルティレベルから確率は低いだろう。
しかし、当人がのこのこ熱帯の奈落へ降下してくるのなら話は別だ。
思案顔でなまえは飼い主を仰いだ。

「教会にはまた日を改めて、とお断りの連絡をいたしましょうか」
「いや、たまの外出まで許可しないわけにはいかねえだろうよ。あの婆に要らん勘繰りを入れられちゃあ堪らんしな。おまけに、なまえ、」

悠然とジタンをくゆらしながら、張はさも弱ったとばかりに肩をすくめた。

「あまつさえ、お前のせいで、このところ俺が随分と狭量な男扱いされちまってんのは業腹なんだぜ。なまえ」

ふっとサングラス越しに流し目をくれてやって、男は煙まじりに嘯いた。
縷々るるたる香煙こうえんで夜景が白く霞んだ。
その行為ひとつとっても「気障」ではなく「粋」だと見る者すべてを感嘆せしめるのだから、敬慕くあたわざる「雅兄闊歩ウォーキン・デュード」の名はなんと言い得て妙なのだろう。

惚れ惚れしながらなまえは相好を崩した。
細く息をつけば、吐息が爛れんばかりに熱を孕んでいることを自覚した。
肺の奥底から煙を吐くその仕草が、張維新チャンウァイサンほど様になる男をなまえは他に知らない。

「あらあら。でも、まったくの根無し言ではないはずですよ、旦那さま……」

くすくす笑いながら、なまえは白い手を伸ばした。
慰撫するように白磁の手が男の頬にそっとふれる。
今世、彼だけに、そして彼女だけに許された肌だ。

「ねえ、旦那さま。このあともお忙しい?」
「いんや、差し当たってやらなきゃならんことは帰路で終わらせてきた。詰め込まれた魚雷艇の乗り心地が……まあ、すこぶる快適だったもんでな」
「ふふ、良かった。なまえは寂しく独り寝せずに済みます」

課業、雑事は山積みだった。
数ある私邸へふたり揃って戻るわけにもいかないだろう、今夜は――そろそろ東の端が白みつつあるが――このままペントハウスでとこに就くことになりそうだ。
伸ばしていた手をゆっくり下ろして、なまえは張の太い首にふれた。
肌の下の脈動をついばむように撫で、次いで、きっちりと締められた黒いネクタイを繊細な指先で引っ掻いた。
至極甘ったれた仕草で、なまえは小首を傾げた。

「旦那さま、ね、なまえをバスルームまで連れて行ってくださいませんか」
「鉛玉ブチ込まれてようやく帰ってきた飼い主を、これ以上鞭打つってか?」
「だって……できるだけ御身のおそばにいたいんだもの。おっしゃることを、わたし、なんでも・・・・お聞きいたします。それでも?」
「ふん、そりゃあ良い……ただな、なまえ。軽々しく“なんでも”なんざ口にするなよ。委細構わず、どんな災厄が降ってくるかわかったもんじゃねえ」
「ご存知でしょう。あなたにだけです、旦那さま」

一心に向けられる媚笑はとろけるよう、声は滴る蜜を音にしたかのようだった。
おのれの黒いネクタイを爪先でなぞる女の白い手はガラス細工めいて繊細だ。
やれやれとでも言いたげに薄靄混じりの吐息をこぼした男は、その細腕をぐっと握り引いた。
「きゃ、」とあえかな悲鳴があがった。
きゅっと絞られたウエストからふんわり広がる淑やかな裾が、夢のようにうつくしく翻る。
そのまま抱き上げてやった張は、なまえの望み通り、軽い足取りでペントハウスの上階へ脚を向けた。
幸福そうな女の笑い声が、黎明近くの展望を臨む大きな窓ガラスに反響した。

横抱きにされたまま、なまえは張の胸元へ顔を埋めた。
むせ返りそうなほど濃い黒煙草に混ざる、かすかな潮風と硝煙の香り、そして張維新チャンウァイサンの体の熱を感じながら、なまえは白々明けのなかうっとりと目を閉じた。






「やれやれ、こっちは朝イチで不行儀な連絡を寄越されるもんと覚悟してたンだが……よく飼い主が許したねェ。昨日今日でおいそれと外を出歩くなんざ、金糸雀カナリアにしちゃあ随分と不心得だ」
「あら、シスター。なんのことです?」

おっとりと首を傾げて、なまえはヨランダに微笑みかけた。
花弁のように繊細なティーカップに、香り高いディルマの紅茶がたっぷりと注がれている。
品良い所作で一口嚥下して、なまえはロイヤル・アルバートの花柄を名残惜しげに見下ろした。
心密かに嘆息がこぼれてしまった――漂う芳香をのんびり楽しむ余裕はなさそうだと。

小高い丘の上に十字架を掲げるチャペルは、通称「暴力教会」。
あに図らんや、どんな手を使ったのか聞くだに恐ろしいが、正式にヴァチカンにも登記されているという神の家はロアナプラでの武器流通を一手に担っている。
幸いにも「三合会の金糸雀カナリア」がその世話になったことは皆無とはいえ、しかしなまえがおとなう機会は一再ならずあった。
その一室、ほぼ応接室として機能している部屋で静座するのは、大シスターと小鳥のふたりだけだ。

ヨランダの言う「昨日今日」が、張維新チャンウァイサン暗殺未遂事件直後のいま現在を指しているのは明白だった。
張の予想では、暗殺者たちはこのロアナプラに潜伏しているらしいが、そもそもザルツマン号での襲撃事件は徹底した箝口令を敷いているはずだ。
一体どこから底が割れたのやら。
仮に尋ねたとしても口を割るとは到底思えない相手に、さすが老獪な大シスターだとなまえが恐れ入っていると、上等なディルマのリーフティーを嚥下したヨランダがニヤリと隻眼をたわませた。

「まだ半可通程度のクチさね、箝口令の具合もイイ線行ってんだ。いまのところ余所には漏れてないだろうねぇ」
「……情報もあなたの商品でしたね、シスター・ヨランダ。ですがわたしはあなたのお客様にはなれません。ご存知でしょう、小鳥はお支払いする対価をなにも持っていないんだもの。一般に、タダより高いものはないともいいますしね」
「そう高々と囀るんじゃあないよ。まだ蒸溜も済んじゃいないんだ。こりゃアただの“茶話”だよ」

ヨランダはシスターの称呼に相応しい、柔和な笑みで嘯いた。
片目を覆う剣呑なアイパッチがなかったならば「慈悲深げ」と形容しても相違ない表情である。
老尼僧にそこまで念入りに前置かれてしまってはおいそれと引き下がることは敵うまい、クセや渋みのすくないメダ・ワッテの香りを楽しみながら、なまえは「謹んで伺いましょう、その茶話」と肩をすくめた。

「小鳥のお気に召すかどうかはわからないがねェ……。あんたの飼い主のタンカー船、あれを襲った奴らンなかに、“アフガン還りの戦争狂い”が一匹、まぎれ込んでたらしいんだよ」
「――それは、……困りましたね」

口元へ運んでいたなまえのティーカップがぴたりと静止した。
時間にしてほんの一、二秒だったが、しかし違和感を与えるには十分すぎたらしい。
頭巾ウィンプルに縁取られた顔がにんまりとシワを深くした。
隻眼の描く弧は、さながら地獄の炎、ナパームにいぶされた黒煙と轟音が、血で重く湿った砂塵を吹き飛ばす幻影を見るかのようだった。

「そう、困ったもんさ・・・・・・。いまのところ、うちはあんたンとこと仲良くさせてもらってんだからねェ。今朝一番、ラグーンのダッチ坊やがブーゲンビリア貿易の門をくぐったが、収穫はそう大きくはないだろう。今回の件、あの火傷顔フライフェイスの筋書きなんざこっちもハナっから思っちゃアいないが、油脂弾臭いアフガンツィまで絡んでくるとなると、そこらの便所でひり出されるもんより鼻が曲がるッてもんさね。なんせ、ソレがあんたンとこの飼い主に、化石まがいの狙撃銃で風穴のひとつでも開けてごらんよ。ふふん、さて、あの女狐がどう落とし前を付けるか――見ものじゃアないかい?」

老尼僧の嘲弄の笑みに、やおらなまえはカップをソーサーに戻して居住まいを正した。
地獄の釜の底をさらっても尚足りぬ、危殆なる情報を「教会」がどこから仕入れたのかなまえには知り及ぶべくもない。
しかしヨランダの言は度が過ぎていた。
怜悧狡猾な大シスターを真正面に据え、口元に笑みを形づくった。

「まるでご覧になったような舌端ぜったんですよ、シスター。わたし、怖くなってしまいます……。それとも小鳥一羽をそそのかして、なにか悪巧みでもお考えになっていて?」

香港三合会トライアド暴力教会リップオフ、現下の協調関係は憂いなし、しかしこうも情報を把捉されているとなると、襲撃事件との関係を勘繰るのもまた理路というものだ。
黒く長い睫毛の下からなまえが不安そうに老尼僧を見上げた。
しかし悪名高き「三合会の金糸雀カナリア」の疑念と媚態を、ヨランダは一笑に付した。

「やめときな、なまえ。二度も繰り返させるんじゃないよ。言ったろう、ウチは“半可通程度のクチ”だってね」
「もちろん、わたしはあなたを信じています、シスター」

形として残りにくい情報や、隠匿しやすい薬物といったものと違い、銃火器をはじめ武器類は大なり小なり目に付く・・・・ものだ。
本当にホテル・モスクワが――バラライカが関与していないとして、暴力教会を通さずロアナプラでSVDドラグノフなり AK カラシニコフなりを取る愚か者が出たとなれば、早晩必ず三合会タイ支部ボスの耳へ入るだろう。
如才なくなまえは微笑みかけた。

「ともあれ……本当に困ったことですね。“Have you ever seen the rain?”――“あの雨”を見た者がこのロアナプラにこれ以上増えることを、あのひとはきっとお喜びにならないでしょうから」
「ふふん、お前さんではなく、かね?」
「なにをおっしゃっているの、シスター……。アンリアリスティックなアフガンツィがひとりこの街に増えたからといって、一体わたしになんの関係が?」
「さぁて。ただねぇ、金糸雀カナリア。あんたのいまの顔には見覚えがあるよ。ありゃあいつだったかねェ……歳を取ると記憶が曖昧でねぇ、確か、九十年代の始めだったか……」
シスター・・・・

ふいに落とされた女の声は、冴え冴えと響いた。
ぞっとするほど静かな声音だった。
しかし言いさしたヨランダを、一瞬とはいえ閉口せしめるには事足りた。

能面に似た完璧な微笑が、女の顔に張りついていた。
ぞわりと総毛立つほど凄絶、苛辣からつさの集束した笑みは、有無を言わさず、見る者すべてにおぞましい嫌忌の情を生じさせるようだ。
しこの場に事情を知らぬ余人がいたならば、薄氷を踏むような空気に耐えられず、無様に脚をすくませていたに違いない。

しかしながら相対するひとつだけ残された老獪な目は、白妙の鳴鳥を眺めてそれはそれは愉快げに光るばかりだった。

「ターゲットマークのド真ん中撃ち抜いたからってェ、そう小鳥がおっかない顔をするんじゃないよ。やれやれ、躾がなってないね」
「……ふふ、お耳が痛いわ、シスター・ヨランダ。興味深い茶話をありがとうございました……。おっしゃる通り、わたし、不心得が過ぎていたようです」

香り高いディルマはガラスポットにまだいくらか残っていたが、しかしなまえはワンピースの白裾を丁寧に押さえつつ立ち上がった。

「おやおや、これは悪いことをした。ご機嫌でも害したかい?」
「とんでもない。お話をお聞きして、シスターのおっしゃる通り、やはり鳥籠に閉じこもっている方が良いと遅ればせながら理解しただけですよ。あなたのご忠告に従って、お暇させていただきます」

立て掛けていた白い日傘をなまえが手に取った。
また紅茶を一口啜ったヨランダは「精々気を付けな」と口角を上げた。

「今日の紅茶はどうだったかい、なまえ」
「いつもながら、とても美味しかったです。さすがシスター・ヨランダ……茶話はともかくね」

あくまで慇懃な物腰のまま、なまえは白百合の香りと共にドアに手をかけた。
いま得た情報はあくまで「茶話」、生き馬の目を抜くかの老媼ろうおうの言を借りるならば「まだ蒸溜も済んじゃいない」ものだ。
とまれ、かくながら安閑と茶会に勤しんでいるべくもない。
鳴鳥にあるまじきり言でも無様に吐きかねないとあっては、尚のことだった。

――九三年十一月・・・・・・
口の端に浮かんだ笑みを揺るがせることなく、戸口に立ったなまえはおもむろにヨランダを顧みた。

「ねえ、シスター。もちろん、ディルマも好きですが……よろしければ、わたし、次はマリアージュフレールを頂戴したいです」
「お前さんはクセが強いのが、よっぽど舌に合うんだねェ」

柔和な表情でのんびり嘯くシスターに、なまえはとうとうなにも告げることなくきびすを返した。

あくまでおっとりとした容止で、ただしいまにも舌打ちせんばかりの様相のなまえが戸口に現われ、待機していた黒服数名は戸惑いにより閉口した。
とはいえ「お待たせ、帰りましょう」と完璧な笑みを――まったく温度の感じられない不祥ふしょう極まりないなものだったが――こしらえた女主人へ、不在の飼い主以外、教会内でなにがあったのかストレートに問える者はいなかった。

帰路、車内はじっとりとした沈黙に包まれていた。
不用意に突こうものなら、飛び出すのは蛇程度では済むまいと察するにはあまりある居心地の悪さだ。
それこそ彼らのボスでもあるまいし、常になくご機嫌を損ねているらしいなまえへ不調法に声をかける者は誰ひとりとしていなかった。
息が詰まる沈黙は熱河電影公司イツホウディンインゴンシビルへ到着まで続くかと思われたが、しかし予想に反して膿むような静寂はやにわに破られた。
沈黙を生じさせていた元凶、当のなまえによってだ。
車に乗り込んで以来、一言も口をきかなかったなまえが、出し抜けに「あら?」と声を漏らしたのだ。

「ねえ、ここですこし止めてくれる?」
「は? 突然なにを……」

女主人のお願い、すなわちそれを装った命令に対する部下の反問は、途中で立ち消えた。
大人しく後部座席に座っていたなまえが、無慈悲にも「お願い、すぐに戻るから」と重ねたためだ。

旦那さまには内緒ね、と途方もなく無謀なことを囀りながら、彼女は路地に下り立った。
途端に纏わりつく熱風と湿気に目をすがめ、なまえは薄暗い路地裏へ足を踏み入れた。






沸騰しかけていた彼の脳髄へ降ってきたのは、鈴を転がすような澄声だった。

「あなた、大丈夫? ……わたしの声は聞こえる?」

時候は、暑季から雨季へ差しかかろうという頃だった。
東南アジアの中央に位置するタイは、温度は三〇度、湿度は八〇%を超える日も増えてくる。
過酷な修行の数々を乗り越えてきた彼といえど、ここロアナプラの生まれてこの方一度たりとも経験したことのない湿気を帯びた蒸し暑さには、さすがに滅入ってしまっていた。

ザルツマン号での襲撃を為違しちがえた暗殺メンバーは、人数を大きく減らしたものの、当初の予定通りロアナプラに潜伏していた。
彼――シャドーファルコンは、スタンたちメイン・パーティとは別に、ラグーン号の航行能力を一時的にせよ奪う作戦を担っていた。
本命を仕留め損ねるという失敗は遺憾ではあるものの、その場合、ロアナプラにて作戦が続行されるのも計画の内だった。
たまさか密々身を潜めていたラグーン号が街へ入渠にゅうきょしたのは幸運だったといえる。
ファルコンを始め招請しょうせいされていた面々は、クライアントからロアナプラでの隠伏先として部屋を提供されていた。
しかし宛がわれたきらびやかなホテルの一室を、忍の道に殉ずる彼は良しとはせず、これも修練のひとつと、身に馴染んだ漆黒のキモノはおろか、頭部を覆う覆面や顔当てすら外さぬまま、真性マゾヒストもびっくりな重装備で人気のない路地で佇んでいた。

そんな彼に浴びせられたのが、先程の涼しげな声音である。
顔面を隠す覆いの下で密かにファルコンは動揺していた。
ぐったりと項垂れていたとはいえ、間然するところなく気配を隠していたはずだ。
にもかかわらず一見してなんの害もなさそうな女にまさか見破られようとは。
だが、女の背後――路地の出口、大通りに面したところでは殺気とまではゆかぬものの、「気」を極めしシャドーファルコンには隠し通すことはあたわぬ気配が、ふたつ、否、三つ息を潜めて待機していた。
護衛か、あるいは女を餌にしてこちらを釣り上げる算段か。
隙なくファルコンが女の出方を窺っていると、そっと眼前へ差し出されたのは、なんてことはない一本のペットボトルだった。

「もしあなたが……ガーデンオーナメントか、極度の寒がりではないのなら、この暑さのなか、そんな格好をしていては体調を崩してしまうわ」

苦笑しながら、女が「どうぞ」と細腕を差し伸ばした。
彼女の纏うワンピースは目の覚めるような純白で、生温かい風が吹くたび膝丈の裾がふんわり揺れた。
水はすこぶる冷えているらしく、ボトルの表面は結露してたっぷりと汗をかいていた。
透明な水面がたぷんと波打った。

どうやらペットボトルは未開封の新品のようだった。
しかしながらどんな劇物が仕込まれているのかわかったものではない。
細工を施し、未開封に見せかけている可能性は大いにある。
あるいは、そもそも製造ラインに手を出すことが可能ならば、“それ専用”の商品が存在していてもおかしくはない。
ここロアナプラに逗留してそう長くはないシャドーファルコンといえど、この街で不用意に他人からなにかを受け取ることがどれだけ愚かか、とうに熟知していた。

「……」
「……ふふ、その警戒心はこれからも忘れずにいてちょうだいね」

ファルコンの疑念を汲み取ったのだろうか、女は穏やかに苦笑した。
ちいさな手がきゅっとキャップをひねった。
なにをするつもりかと微動だにしないまま、ただし相手の出方次第では即座にその手、あるいは首を刎ねるのもやむなしとファルコンが身構えていると、女は焦れったくなるほどゆっくりとした所作で開栓して飲み口に唇をつけた。

こくりと一口飲む。
ほんのすこし嵩を減らしたペットボトルを、女は満足げな笑みを浮かべて再度手渡してきた。
桃色の唇が冷たい雫でうっすら濡れていた。
ついファルコンは受け取ってしまう。

その際、図らずも互いの視線がかち合ってしまった。
黒装束の奥に潜んでいるのが間抜けなほどうつくしい碧眼と気付いたなまえは、ぱちくりと目をまたたかせた。
しかしそんな素振りはちらとも見せることはなく、幼な子に言い含めるようにやさしく小首を傾げた。

「差し上げます。捨てても構いません。でも、どうか無理はしないでね」
「……」
「それじゃあ、さようなら、“ニンジャ”さん」

無垢に微笑んで、女は――否、ファルコンの目にはまぎれもなく「聖女」とおぼしき後光が見えていた――くるりときびすを返した。
夜を思わせるつややかな黒髪がなびき、すぐに白い日傘がその背を隠した。
白百合の芳香と、濃い紫煙の移り香とを、ファルコンへ残して。

「あの御方は……」

飲みかけの冷たいボトルを手にしたまま、呆然とファルコンが呟いた。






「あらあら、ラグーンの皆さまがお口を滑らせてしまったのかしら……。でも、旦那さま、それは考えにくいことですよね?」

まるで栞を挟む前に誤って読みかけの本を閉じてしまったような困り顔で、なまえが呟いた。

落陽が街を、海を、朱に染める寸刻、層楼の天辺からの光景は息を呑むほど見事なものだったが、その主は見慣れた偉観いかんに頓着することなく、隣にはべる愛鳥の黒髪を指先ですいた。

「お前でもわかる道理だな。奴ら、首吊り縄の準備を始めるつもりかともよぎったが。――なによりタイミング・・・・・が引っかかる」

ザルツマン号での張維新チャンウァイサン襲撃事件において、ラグーン商会は「襲撃犯たちを輸送、かつ乗船のための陽動」という、一点の曇りもない完璧な関与をしていた。
迂闊にも襲撃犯の標的ターゲットについて知り及ばなかったといえど、片棒を担いでいたのはどう足掻こうとも事実である。
汚名を返上すべく街中を駆けずり回って与太者共の潜伏先を捜索していた彼らは、徹底した箝口令が敷かれていたにもかかわらず、軽率にも情報を漏らしてしまった可能性がある。
彼らの窮状は、首吊り縄をチラつかされているどころの話ではない。
既に輪は首に回っている。
後は踏み台を蹴り飛ばされれば、という段階にまで、ラグーン商会の進退はきわまっているのだ。
なまえの言う通り、重ねて失態の上塗りをしたとは考えにくかった。

「彼らを処断するのは簡単ですが……そうするおつもりはないんでしょう?」

確信を含んでさかしら口で問う鳴禽めいきんに、後図こうとに長けた男は「まあな」と嘯いた。
ソファにだらりとかけたその姿すら画になる偉丈夫を、なまえはうっとりと眺めた。

「ふふ、おやさしいこと」
「微塵も思ってねえことを、よくもまあぬけぬけ囀るな、お前は」

纏わりついてくる華奢な背へ腕を回しながら、張は、はっと笑った。
彼も、ラグーン商会が共犯グルだったとは端から思っていない。
信用だの信頼だのの話は差し置いて、第一、そんなことをして彼らが得られる利なんぞ皆無だからだ。
ならばその筋書きを書いた愚か者にこそ懲罰を与えて然るべきで、事情をさして知らない末端を叩いたところで、別の末端を差配されるだけなのは瞭然である。
必要なのは事実、そして必要な者へ必要なだけの責と罰だ。

「とりあえずは、シェンホアの報告如何いかんってとこか。相手は五、六人だからな――まあ、夜明けまでにはカタが付くだろうよ」
「まあ、なんてこと……」

なまえはそれはそれは悲しげに眉を下げてみせた。
やわらかな肢体が、白百合の香りが、惑溺わくできを誘うように男の身へ重ねられた。
しかしなまえにとって不幸なことに、彼女の媚態に唯一惑わされてくれないのがただひとりの主、張維新チャンウァイサンである。
すがりついてくる飼い鳥を片手でなしながら、くすぐるような揶揄まじりに張は「だから――なあ。なまえ、お預けだぞ?」と笑った。
なまえははなはだ不満そうに、むっと唇をとがらせた。
ぐずるように主人の首元へ頭を押しつけて「ひどいひと……」と呟いた。


(2019.05.19)
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