終焉 | ナノ




「……何をしているんだ」
「やあ、セノ。久しぶりですね」

借家の玄関に巨大な鉢を置き、棍棒と呼んでも差し支えないすりこぎで中身を親の仇のように潰している様は、確かに大マハマトラですら首を傾げてしまう姿だろう。石畳のそこかしこに赤黒い液体が飛び散っているし、もちろんわたしの手指もどろどろに汚れている。

「神を喚ぼうかと思いまして」
「審判が必要か?」
「未遂なんで許してください」

セノがため息を吐きながら片手に持った紙袋を框に置き、濡れ布巾で手を拭うと予備に用意してあったすりこぎを取り上げる。そのまま鉢の向かいにあぐらをかくと、慣れた様子で中身を潰し始めた。

「多少力は要るが、すり潰すよりは持ち上げて落とすようにした方がいい」
「……慣れてますね」
「こういうのは子供の仕事だったからな」

ずちゃ、ずちゃと粘性の音を立てて、見る間に鉢の中の果実が姿を失っていく。
これはかつて上風蝕地で栽培されていたブドウの、遠い子孫たちである。酸味が多くて身も小さく、色も黒いうえに皮が厚いのでそのまま食べるのには適さないが、干してドライフルーツにしたりこうしてワインにするのには最適な品種だ。
草神様の加護により甘くて瑞々しい加工せずともそのまま食べられる果物が豊富であったスメールでは、既に栽培する者もないこの原種は失われている。現代に残っているのはその特徴を色濃く受け継いだ改良種だけで、主にワインの原材料としてモンドでのみ栽培されている。長年モンドのワイナリーと交渉を続け、先日ようやく輸入することができたのだった。

「駄獣の乳をバターにしたり、赤念の実を潰したり、砂漠では子供にも色々と仕事がある。そもそもこの道具もアアル村で手に入れたものだろう」

セノがこつ、と指先ですりこぎの焼印を叩く。その通り、砂漠の遺跡に描かれた壁画とよく似たものをわざわざ探し回って手に入れた品だ。

「先月、三十人団との合同で大規模な遺跡探検調査があったじゃないですか」
「マハマトラを三人同行させた件だな」
「その中で、ジュラバド……いや、ジュラバド王国以前のものと思われる壁画が見つかりまして。どうやら祭司の墳墓らしいんですが、そこにこれが」

布巾で指を拭い、框に置いた書類挟みから一葉の写真を取り出す。少なくとも千年以上は経っているはずだが、鉱物質の絵の具で描かれた壁画は往時の鮮明さを保っていた。
墳墓の主人の名は、砂の中に失われている。絢爛な壁画や埋葬品から、彼が祭祀に関わる者であったこと、そして神に相対することができる身分であったことがわかるだけだ。
壁に描かれていたのは、豊かなブドウ畑とワイン造りに勤しむ人々、そしてアンフォラを掲げる赤衣の人物だった。

「砂漠地帯がかつて緑豊かな土地であった、というのは研究者の間では定説なんですが、では水源がどこから来ていたのかというのはまだ議論の真っ最中なんですよね。ある者は花神の権能で水を無限に生んでいたと言うし、ヤザダハ池と同じようにフォンテーヌを源流とする巨大な河があり、オアシスはその名残りなのだと言う者もいる……」
「ブドウは比較的乾燥した土地で育つものだろう。現に雨林では絶滅している」
「その通り。ですから、墓の主の背景が見えてこないのです。花神も、アフマルも、草神様も健在であった緑豊かなスメールの辺境で、なぜ彼はブドウを育てていたのか……身分の高い人物であったことは間違いないんです。副葬品は豪華で、墳墓の状態も良好でした。彼は敬意をもって埋葬され、その生前の高貴さと行いによってナブ・マリカッタの宮殿近くに永遠に眠ることを許された」

リズミカルにブドウを潰していたセノがすりこぎを別の容器に置き、圧搾用の鉢の中へ中身を開けた。これは片口の大きな容器で、上に粗い織り目の袋が広げてある。この袋いっぱいになるまで潰したブドウを開け、袋を閉じて更に上から圧し、果汁だけを別の容器に移すのだ。

「酒は、……特に、今の雨林のような気候であった花神の国におけるワインは、とても特別な飲み物だったと思いませんか?きっと最上の捧げ物だったんだとわたしは思うんです。しかしそれは、ナタに隣接する乾燥したアフマルの土地、更にその辺境でしか上質なものは作れなかった。彼は……墓の主人は、酷い仕打ちだと思ったでしょうか。それとも、光栄なことだと信じ切っていたのか」
「いつも思うんだが、お前の考えは独特だな」
「セノがそれを言う?」

水洗いしたブドウを新しく鉢に入れ、わたしがぎこちなく潰す間にセノが袋を搾り、果汁を素焼きの瓶の中へ注ぎ入れる。この瓶もデシェレト時代のアンフォラの特徴を受け継いだものを探して買ってきたのだ。

「お前は、歴史の中に人を見る。悪いことではないが、ただそれが、本当に必要かは考えものだ」
「徒労だと思いますか」
「お前が因論派だったら言わないさ。人の書き記したものの中に真実を探すのは、苦痛じゃないか」

手を止めてそう呟くセノの瞳は優しかった。
この世のどこにも、真実などありはしないと知っているのだろう。

「人は、一生主観の檻から出られませんからね」
「そうだな」

学問は、なべて疑念から始まるものだ。どうして空は青いのか、なぜリンゴは下に落ちるのか、人間の生きる意味とは、空があり地があり人があり神があり、その全ては一体どうしてなのか。愛とは何か。死とは、生とは。この世の何もかもを知りたがった原初の愚か者が、唯一わたし達の祖先。血ではなく、疑問という業で繋がる一族こそ、学者という生き物だ。そして正解は常に客観のレンズの中にある。しかし、そのレンズを覗き込む我々の目は、永遠に主観に曇らされてもいるのだ。
一生逃れることのできない頑丈な自我という鉄格子の檻は、容易に正解を歪曲する。文章はその最たるものなのだ。

「神を奉じ、しかしその神からは離れ、神の恩寵の最たる水辺からも遠ざけられた男。神のために苗を植え、水を撒き、獣を追い、虫を除き、病に怯え、果実を潰して酒を造る……」
「それが仕事だと言ってしまえばそれまでですけどね」
「使命や宿業とも言い換えられるな」

だが。
しかし、真にそんなものが存在するだろうか。

セノが搾り終えた袋を開け、中から皮や種を取り出す。モンドのワイナリーでは果皮と種を一緒に発酵させるが、壁画には袋が描かれていたし、現在砂漠地帯で作られている果実酒も果汁だけを使うので搾りかすは取り出すことにする。おそらくは果汁だけを使うことで発酵しすぎることを防いでいたのだろう。

「これはどうする?」
「鉢の中に戻しておいてください。後で生論派のダステアが取りに来る手筈になっているんです」

スメール原種のブドウとあって種子の研究をしたいらしい。赤黒い液体が滴る頭骨大の大きさのものが入った袋を持つセノ、少し恐いなと思いながら最後のアンフォラに蓋をする。このスメールの気候なら七日ほどあれば発酵は充分だろう。

「一説によれば、酒精による酩酊状態は、シャーマンが神と交流するためのトランス状態に似ていると言います。これはパラハァムによる世界樹との交信とはまた別で、意識を神、或いは世界樹へ飛ばすのではなく、神や霊を喚び出すような……まあつまり降霊ですね」

このテイワットに於いて、神とは七神とその眷属、そして魔神戦争に敗れて死んでいった者たちを指す言葉だ。

「降霊……或いは交霊かもしれませんが、墓の主は、神の治める国で、一体何と交感するための酒を造っていたのでしょう。花神は、美しきオアシスの女主人は、砂漠の王を狂わせてまで、一体何を求めて……」
「やめろ」

ピリ、と空気中に紫電が迸った。穏やかな午後の空気など、今はもうどこにもない。
のろのろと見上げたセノは、眩しい陽を背負い、護法の神のような怜悧さでもってわたしを見下ろしている。教令院の人間なら一度は聞いたことがある噂がある。大マハマトラになる者、大マハマトラになり得る者は、罪を識る者なのだと。この国で最も重い罪、根源の六罪の底を垣間見た者だけが罪を裁くことができる。他者を咎めることができるのは、一度も罪を犯したことのない者、神、そして凡ゆる罪悪を識る者だけだからだ。

「識っているんですか」
「俺自身が経験したことじゃない」
「……身を、滅ぼした?」
「ああ。肉も保てず、意識も消え、ただ妄執と狂念だけが残っている」

わたしはアンフォラに縋り付くようにしながら、歪な笑みを浮かべた。怒っているのに喜んでいる。悲しんでいるのに心が震えるほど安らかだ。相反する感情が怒涛のように押し寄せ、そして消えてゆく。罪の影法師のように立ち尽くすセノは、瞳に紫色の光を湛え、何か、かそけく幼いものを見るような顔をしている。

神はなぜ、人を愛するのだろう。
わたしのような、愚かで弱く、悍ましいものをどうして愛したりするのだろう。スメールの日差しは強く、太陽は煮え滾る溶金のように中天に輝いている。その何もかもを灼き尽くす光の前に立ち、影の中にわたしを庇うセノの姿は神にさえ似ているような気がした。
腕の中のアンフォラが心音に合わせて揺れ、中でとぷとぷと波が立つ。何万、何億もの微生物たちがこの中で生き、ただのブドウの果汁を神の喉を潤すワインへと変えてゆくのだ。肉眼では見えぬほど小さな無数の生き物たちが作り上げた千年の王国、その全てを滅ぼし、神に捧げる業が今わたしの腕の中にある。

「セノ。次の任務から戻ったら、これを一緒に飲みましょう」
「神に捧げなくていいのか?」

優しい声の問いかけに、わたしは頭を振る。既にこの酒を喜ぶ神は亡く、この酒を造る者もまた絶えた。
今ここにあるのは、その足跡を辿ろうとする者の的外れな感傷だけだ。滅びと、その弔いに代えて、それはせめてもの餞のように。

「捧げるのなら、それは今この時、神と人と、この世の秩序を守る者に。そして、何を失おうとも、しぶとく生き残り、営みを繋げてきた我々に」
「いい考えだ」

ニコッと笑って、セノがわたしの腕の中のアンフォラに触れる。
滑らかな陶器の肌を、セノの指先がなぞる。幾つもの傷跡が残る、歪な手だ。骨の折れた痕が節になり、槍ダコが手のひらの至る所にある。これはヒトの手。身の内に神霊を宿し、罪を識り、罰を下す。弛むことなき歩みを拓く、美しく歪んだ人の手だ。
セノの指先からは、甘く清冽なブドウの香りがしている。



(原神 230928)





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