終焉 | ナノ




大きい人だな、というのが第一印象だった。
ピシッと糊の効いたよれの一つもないシャツはクリーニングの腕もそうだが元の仕立てが最高級品なのだろう。完璧に採寸された膝の立ったスラックス、つま先がピカピカに磨き上げられた革靴は皺一つ見当たらず、上から下までテーラードのオーダーメイドなのが見て取れる。
オールドスタイルのノーブル。それも極上の。このヘルサレムズ・ロットどころか街ができる以前のニューヨークにだってこんなとびきりの貴種はいなかっただろう。そもそもアメリカは貴族のいない国だ。上流階級や大富豪と呼ばれる人たちは存在しても、血筋の高貴さというのは望んで得られるものではない。だから青い血には価値があり、価値ある者には相応の振る舞いが求められる。

その点、この客には王族にも匹敵する存在の圧というものがあった。巨躯や顔付き、衣装はもちろんだが、特筆すべきはその所作である。これだけの巨漢であれば、もちろんのこと体重も常人とは比較にならない。しかし男はこのごちゃついた店内で、一切の物音を立てなかった。腕の良いシューメイカーがピンホールすら無い上等の革で仕上げたであろう靴の底に張られたスチールが床に当たる、控えめなコツン、という音が無ければおそらくわたしは男の来店にあと数分は気が付かなかったはずだ。
巨漢が歩く時に音を立てず、優雅でゆったりとした振る舞いを身に付けている場合、それは鋼のような筋肉をもつしなやかな虎に似た肉体の、たいへんに教養ある人間だということだ。そんな貴種がこのヘルサレムズ・ロットに何の用だろう。わざわざ観光に来る物好きも少なくはないが、しかし。

「失礼、私はクラウス・V・ラインヘルツという者です」
「あ、はあ、いらっしゃい……」

V。やはり貴族だ。
わたしはそっと作業机の下のスイッチを押し、店の外に光化学迷彩を張った。外からはこの店の中はいつも通りわたしが一人で作業をしているように見えるだろう。
男は十分強そうに見えるが、見た目で何事も判断できないのがこの街である。

「こちらを見て頂きたい」
「うおっ!これはまた見事な……」

男のこれまた大きな手のひらの中にあったのはスイスの有名な時計メーカーのアンティーク懐中時計だった。カタログのいちばん手前に載るような、当時のハイエンドモデルだ。金無垢の蓋にオリエンタルな貝の文字盤、細緻な透かしの入った秒針とさりげなく埋め込まれたダイヤモンド。そのどれを取っても最高級とわかる品だ。しかもとても状態がいい。
大切に使われてきたうえに定期的にメーカーの一流職人のオーバーホールが入っていなければこの美しさは保てまい。伝統を重んじる裕福な人間でなければ所有することの許されない高級時計だ。しかし。

「……何か、何だかよくわからないものがくっついてますね。紫……粘性の……塩気のある……血?」
「新型魔獣の血です」

苦悶の声が勝手に喉の奥から溢れてくる。確かにコイツはどんなに一流の時計職人だとしてもHL外の人間の手には余る。それどころか良心ある人間なら街の外に持ち出すのさえ憚られる代物だ。
堕落王フェムトを名乗る怪人が日夜世界を終わらせるためにせっせと作っては街に放った魔獣の体液が染み付いた時計だなんて。

「ですが……」
「承知の上です」

言い淀むわたしにラインヘルツ氏が鷹揚に頷く。老舗の時計メーカーは、自社以外でオーバーホールされた時計を基本的に二度と開けようとはしない。それはメーカーのプライドであり、客のマナーでもある。時計の存在が一種のステイタスであった時代からノーブルと職人たちとの間で交わされた約束事だからだ。まあ、今どきメーカーの方はそんな事は言っていられないだろうが、おそらくラインヘルツ氏は違うだろう。
貴族という生き物はメンツと誇りを何より重んじる。

それに、おそらく彼はこのマニア垂涎の、市場に出せば目玉の飛び出るような価格が付くかもしれない時計と取るに足らないウォッチメイカーの安全を比べた時に迷いなく後者を選び取れる人間なのだ。

「承りましょう。正規メーカー保証には及びませんが、当店の永久保証をお約束しますよ」

ぱちん、と片目を瞑ると、ラインヘルツ氏はほっと目元を緩めた。

契約書やお客様情報の記入ページが挟まったバインダーとペンをラインヘルツ氏に渡し、作業台のライトを付けて店でいちばん綺麗な伏せ瓶を引き寄せた。ビロード張りのトレイの上に蓋やガラス板を丁寧に置き、手早く時計を解体していく。
HL広しと言えど、確かにこのレベルのオーバーホールができる職人は限られているだろう。ニューヨーク時代には腕のいい職人も組合も存在していたが、ここがHLになってからはその殆どが街を去るかこの世を去った。元々安価なクォーツ時計やスマートフォンの普及に肩身の狭い思いをしていたのだ。70年代のシカゴより危険な街になってしまったHLから逃げ出したいと思っても無理はない。

異界生物の毛で作った筆を慎重に薬液に浸し、粘性の血液に垂らしていく。ショワッ、という微かな音を立てて緑色の煙が立ち上る。どうやら除去は可能みたいだ。血液自体が酸性だったりすると厄介なのだが、どうやらネバネバしているだけで組成自体はそこまで変わらないらしい。

「急激に栄養素を取り込み、分裂して増殖する魔獣の血液です」
「ウワッ!」

びっくりしすぎて声が出た。わたしの反応を見たラインヘルツ氏もまた驚いた顔をしている。
というかまだいらっしゃったんか。うちの店はドアベルも何もついてないので、客がいるのかいないのか判別が付きにくいのだ。

「し、失礼、その、お帰りになったものかと」
「いえ、こちらこそ急に話しかけて申し訳ない。あまりに流れるように作業に入られたものだから、少々見惚れていました」

このヘルサレムズ・ロットではついぞ見かけることのない紳士的な対応に背中がむず痒くなってくる。

「ああ、ニュースでそんなことを言ってましたね……ということは、栄養……ああ、なるほど」
「お察しの通りです」

人間からできた栄養素ってことね。クソッタレ。
内心で舌を打ちながら漂白のためにオキシドールを取り出す。金属部品はともかく、貝は少し表面を研磨しなくてはならないだろう。腐蝕のスピードが段違いだからだ。
このイカレた街で暮らしていても、中身は三年前と変わらない人権と平和と平等を愛する一般市民だ。人が死ねば心が痛むし、理不尽と暴力には怒りを覚える。わたしは犠牲になった人々に暫し祈りを捧げ、しかし仕事を全うするためにすぐに作業机に向き合った。

「手を止めて申し訳ないが、少々お尋ねしても?」
「ぎゃっ!」

この感じさっきもあったなと思いながら顔を上げると、またまた驚いた顔のラインヘルツ氏が視界に映る。まだいたんかあなた。ちらりと作業机に据え付けてある時計を見ると、先程のやり取りから二十分ほど経っていた。その間彼は居心地が良いとは言えない丸椅子にちょこんと腰掛けてじっと息を殺していたというのだろうか。

「……あの、オーバーホール完了後のお渡しはひと月後でして……」
「存じています。契約書を読みましたから」
「ええと……お帰りになっても大丈夫ですよ……」

ラインヘルツ氏は目だけで微笑む。人を従わせることに慣れている人間の仕草だった。80年代のロサンゼルスより汚いこの街に何でこんな底抜けの貴種が存在しているんだ。見られていると気が散るんですがとも言えず、わたしは恭しく首を垂れる他にない。

「失礼ながら、お一人でこの店を?」
「は?あ、ええ、そうです。元は祖父の店ですが、わたしが引き継ぎました。崩落前のことですから、そうですね、五年ほどになりますか」
「なるほど。評判の通り、腕の良い方なのだと感心していました」

頷きながらラインヘルツ氏が手放しで褒めてくれるのでものすごく照れる。重ねて彼が口を開こうとした瞬間に、彼の胸ポケットからピリリ、という着信音が聞こえた。失礼、と断りを入れ、ラインヘルツ氏が椅子を立って店の扉近くへ身を寄せる。
狭い店だが中に所狭しと物が置いてあるため、そこそこ音を遮断する。彼もそれをわかって席を立ったのだろう。つまり、あまり他人に聞かせたくない電話だということだ。

わたしは素知らぬ顔で手元に視線を落とし、リューズの溝に詰まった汚れをブラシで掻き取る。リューズは摩耗の早い部品だが、金の色が全く同じなので製造当初の部品なのは間違いない。これほどまでに大切にされていた時計が魔獣の血でびちゃびちゃになるまで事件の渦中におり、見たところ無傷で生き延びたとびきりのノーブル。一体何者なんだラインヘルツ氏。この街に貴族は相応しくないが、ラインヘルツ氏は素晴らしくこの街らしい存在にも思える。

「申し訳ない。急用が入ってしまいまして、私は行かなければ」
「え、全然お構いなく!お急ぎでしたら終了後すぐにお電話させて頂いてもいいですけど……」
「それには及びません」

ラインヘルツ氏が微笑むのと同時にどこか遠くでドォン、という爆発音が聞こえた。カタカタと余韻のように壁の鳩時計の振り子が妙な揺れ方をする。
HLでは日常茶飯事の、テロか強盗か無差別殺人か或いは痴情の縺れか何か。

「騒がしいですね。お気を付けて」
「……ええ!」

妙に力強い返事をしてラインヘルツ氏は店から去っていった。本当に一体何だったんだあの人。薄暗い店の中に残された柔らかな赤い残像を振り切り、わたしはまた可哀想な時計を救うべく作業机に向き合うことにした。



***



「すまない、これなんだが」
「またですかクラウス!」

大きな体を限界まで縮めるようにしてクラウスがわたしにハンカチに乗せられた可哀想な万年筆を差し出す。軸が真ん中でバッキリと割れており、中からひしゃげたコンバーターが覗いていた。幸いにもニブ周辺は無事らしい。

このヘルサレムズ・ロットで時計だけを修理して生きるのは難しい。わたしがあらゆるオールドスタイルの生活用精密機器、例えば万年筆や宝飾品や眼鏡などを修理できると知ったラインヘルツ氏ことクラウスは今まで街の外には修理に出せず、しかし捨てることもできない由緒ある品々を全てうちに持ち込むことにしたらしい。
異界の瘴気を吸った革ベルトだとか、異界人のマッドサイエンティストの皮膚が貼り付いたカフスボタンだとか、確かに誰だって困り果ててしまうような代物、しかもそれが全て一流メーカーのオーダーメイドだったりするようなものだから尚更どうにもできずに放置されていたのだろう。

「怪我はしてませんか?この前のテロ事件のやつですよね」
「私は無事だ。心配してくれてありがとう」

ニコッと出会った頃よりは大分遠慮のない笑顔を向けられる。客の詮索はしないのが良い修理屋の条件だ。わたしの中でのクラウスは"日々HLで起こる大事件の渦中に居合わせるとてつもなく頑丈で運のいい育ちの良い貴族"だ。ついでに金払いが良い、も付くが、それはクラウス本人の資質とはあまり関係が無いので省いている。まあクラウスの性格は金銭的余裕に培われた部分が完全に無いわけではなさそうだが。

「ええと、異界植物の異常成長事件でしたっけ。これも?」
「その通り。植物の胞子を浴びてしまってね」

死傷者数も結構出てたはず。作業机に座ったままクラウスの頭のてっぺんから見えるギリギリである膝頭までを眺め回すが、どうやら本当に怪我はしていないようだ。控えめな靴底のスチールの音も健在なので見えないところに怪我をしているということも無さそうである。

ガチャガチャと棚を漁り、奥の方から異界製の溶剤を取り出す。植物の油にはよく効くやつだ。

「軸を削り直す?それとも継ぎますか?」
「この状態から継げるだろうか?」
「異界製の接着剤ってすごいんですよ。欠片が揃ってないと何かで埋めなきゃいけないんで、モザイクみたいにはなりますけど」

受け取ったハンカチの上からピンセットでパーツを摘み上げ、ざっと復元してみせる。五箇所ほど別の材を継ぎ足さねばならないようだ。こういう場合、下手に似たような素材を継ぎ足すよりは全く別のものを継いでしまった方がデザイン感が出る。

「ちょっとお値段張りますけど、エボナイトじゃなくて貴金属とか、あと貴石を磨いて嵌め込んでみるとかね。どうせ壊れてしまったものですし、この街の外にも持ち出せないなら遊んでみてもいいのでは?」

クラウスが自分の服装を自ら選んでいるのかはわからないが、見る限りでは中々に洒落者だ。いつもカッチリとしたスリーピースではあるが、タイの選び方やカフスの色などは遊び心満載で、本人の体格も相俟って紳士雑誌のグラビアも飾れそうである。

わたしの提案にクラウスは少し悩むような顔付きをした。まあこの万年筆もかなりの年代物、しかもヴィンテージだ。世界に百本しか存在しなかったプレミア物である。
しかし、クラウスが考えているのはそんなことではないのだろう。

「少し……私には派手すぎないだろうか」

はにかみながらそっと告げられた言葉に腰を折って悶絶したくなる。大丈夫、絶対似合うよ。
わたしは早速材料がしまってある棚を開け、クラウスの前にトレイを置いて似合いそうな金属や宝石を次々と並べていく。オーソドックスな黒い軸なので、クラウスのいつもの服装と合わせて髪色に似た落ち着いた赤や、瞳の緑に合わせた色石を当ててみる。

「こういう小さい石を薄い板のように磨いて嵌め込むんですよ。そうすると光が当たって綺麗でしょう。ガラスでも良いんですけど、せっかくならね」
「この石は?」
「ああ、スモーキークォーツですよ。茶色の水晶。ちょっとシックな感じになりますね」

敢えて地味な色を選んだのかと思ったが、クラウスは真剣にクォーツを吟味している。色の薄いものから濃いものまでそこそこの数があるが、何かお目当ての色味でもあるのだろうか。

「ああ、これが一番似ている」
「似てる?」
「君の瞳の色……に、……」

言ってしまってから、クラウスが片手で口を覆った。わたしは赤くなっているであろう自分の顔が居た堪れず、そっとクラウスから視線を外す。
落ち着け、これはお得意の紳士仕草というやつだ。

「ほ、宝石に例えられたのは初めてだなあ……」
「これを。これを入れてほしい」
「えっ?!」

マジ?今瞳の色に似てるって言われた石を?クラウスの万年筆(おそらく愛用品)に?
唖然としてクラウスを見ると、ほんのりと頬を染めて微笑んでいた。上品なのか大胆なのかよくわからないアプローチだ。いや、アプローチなのか?わたしの勘違いだと相当に恥ずかしいぞ。

クラウスの大きな指が小さな小さな宝石をスッと摘み上げ、万年筆が乗ったトレイに置く。黒い軸と、ほとんど色の変わらないような濃い茶色のスモーキークォーツ。

「私はこれが、気に入ってしまった」

おおジーザス。不在の神を嘆くようにわたしは天を仰いだ。
あまりの嬉しさに、少しだけ泣いてしまいそうだったからだ。



***



「あ、」
「こんにちは、レディ。わりと何でも直してくれるって聞いたんだけど、どうかな?」

クラウスだ、と思って顔を上げたのだが、ドアを開けて入ってきたのは見覚えのないブルネットの男性だった。長身にスーツがよく似合っている。左頬に入る傷跡は剣呑な雰囲気だが、このHLではスパイス程度のことだ。
見知らぬ客は文字盤が粉々になった腕時計を手のひらの中で揺らしている。

「承りますよ。あの……もしかしてラインヘルツさんのご紹介?」
「……いやあ、何でわかったんだい」

何でだろう。直感、と言えばそれまでだが、大抵の物事には理由があるものだ。つまり、クラウスと男性の共通点みたいなものをわたしは瞬時に嗅ぎ取ったのだろう。
この店に来る客は大抵が他の客からの紹介でやって来る。それ自体は全く珍しいことじゃない。男性の身なりに見合う客も、何人か頭に浮かべることもできる。わたしは何を嗅ぎ取ったのだろう。……嗅いだ?

「……血?」
「ち?」

男性が首を傾げる。中年の男性がするには可愛らしい仕草だが、視線はかなり鋭かった。

「いや、何だか同じ匂いがするなって。もしかしてお仕事が一緒ですか?オフィスの匂いとかかな」
「なるほど」

鼻が良いみたいだね、と言いながら男性が差し出したトレイに腕時計を置く。これはまたぐちゃぐちゃになったものだ。
わたしは背中に冷や汗が垂れるのを感じながら慎重にトレイを引き戻した。多分、二人の共通点は血の匂いだ。毎月嫌でも嗅がされるあの血塊と内臓の匂いとは別の、動脈から流れる血の匂い。ごくごく薄っすらと、いつもクラウスの右手から漂っているあの匂いと、同じ匂いがこの男性からはする。
クラウスはいつも上品なコロンを付けているし、この男性もおそらく有名ブランドのナンバーフレグランスを使っているので、この店の中で二人ともに会っていなければ気がつくこともなかったはずの匂いだった。

「カバーと秒針は交換、もちろんガラスも。ムーブメントの部品もいくつか、あーゼンマイもダメですね。え?何だこれ……何でこんな摩耗してんの?製造年と摩耗の程度が合わないんだが……??あの、直すより買った方がお安いと思いますけど、どうしますか?修理自体は可能ですが……」
「思い入れがあるやつでね。なるべく元の通りにしてほしい。頼むよ」

顧客用のバインダーを差し出すと、ニッコリと感じの良い笑みを向けられる。この人、多分表社会の人じゃない。
商売柄、この店のニューヨーク時代の常連には裏社会の人も多かった。もちろんこんな店に時計を修理に持ち込むのは三下のチンピラやゴロツキではない。この男性からは、そういった客たちと同じ気配がする。

「クラウス、と。そう呼ばせてもらってます。彼からの紹介でしたら、誠心誠意修理させて頂きますよ」
「そいつはありがたいね」

ここでわたしは合格ですか?とか聞いてしまえるほど肝の太い人間ではない。下品ではない程度の愛想笑いを浮かべながら、男性から記入済みのバインダーを受け取る。スティーブン・A・スターフェイズ。おそらく偽名ではない。顧客情報を管理している金庫のレベルを最低でもあと四つ上げようと思いながら書類から目を上げると、既にスターフェイズ氏は店から去った後だった。
対照的だからこそウマが合うのかもしれん。それ以上余計なことを考えないように、わたしはぐちゃぐちゃになった時計に向き合ったのだった。



***



「クラウス?」
「あ、いや、すまない」

わたしのコートの裾をクラウスの大きな手が控えめに掴んでいる。一見して出かけようとした母親を引き留める幼児の図なのだが、わたしはクラウスの母親ではないし、クラウスはわたしより三十センチ以上も背が高い成人男性だ。
意味がわからず首を傾げるわたしに、冷や汗を飛ばしながらクラウスが顔を顰める。

「どこに行くのかね」
「うえっ?え、外のグローサリーですけど……すぐそこの……」

ニューヨーク時代もそこそこ治安のいい地域にあった我が店は、ここがヘルサレムズ・ロットになっても昼間に出歩く分にはそこまで危険ではない。異界人の親子連れが多い地域なので、それなりに異界的防備が為されているのだ。我々のような何の改造もない素のヒューマーはそのおこぼれに預かって安穏と生きているというわけである。

精密機械の修理はとても神経を使う仕事なので、休憩は長めに、そしてしっかりと英気を養うことにしている。休憩のお供には濃いめに抽出したコーヒーにマシュマロを浮かべてココアパウダーをまぶした飲み物に、ロータスビスケットを二つ必ず添えることにしているのだが、昨日でビスケットを切らしていたのを思い出した。
ついでに集中も切れたし、運動がてら買いに行こうとしたところに今日も今日とてわけのわからん異界の薬物が染み付いたタイピンの修理を依頼しに来たクラウスとかち合ったというわけだ。
タイピンを預かり、費用の概算を出した後にさて買い物、と席を立ったところで冒頭に戻る。

「何か、あるんですか」

ピンと来て少し声を低くする。
クラウスはおそらく、あまり大っぴらにはできない職種の人間だ。こんな純朴な人間がマフィアだとは思えないので、どこかの国のエージェントか何かなのだろうが、そのクラウスが外に出てはいけないと言うのだからこの辺りで事件が起きる可能性は十分にある。

「そうではない。ただ、君が外に出るということを考えたことが無かったので、……少し驚いてしまった」
「はあ?」

もちろんこの世にいるスミスたちが年がら年中作業机に齧り付いているわけではない。それなりに飯を食うし出すものも出す。服も着れば風呂にも入る。アウトドア好きの修理工なんて珍しくもない。近所のグローサリーやマーケットに足を運ぶし、電車やバスで42番街に行ってハンバーガーも食べる。一体それが何だというんだ。

困惑するわたしに気付いたクラウスが冷や汗をかきながら中華拳法染みた動きでワタワタと手を振る。

「ふは、何流ですか」
「うむ、ブレングリード流だ」
「??」

ハテナを飛ばすわたしと冷や汗を飛ばすクラウスとで暫し見つめ合う。この人、こんなに純朴で天然で、このHLでちゃんとやっていけているんだろうか。

「一緒に行きますか、グローサリー」



「この辺りの店は42番街とはまた違った趣きで特殊でね。"外"を懐かしむっていうより、それしか食べ付けない人たちのための輸入食品屋なんですよ」
「ああ、なるほど。これは確かに」

人間はとにかく高性能な知覚と記憶力をもっているくせに、脳がそれを生かしきれずに眠らせておくしかないという不幸な生き物だ。老化が早く、感覚器官の衰えも激しい。

「思い出って言えば綺麗ですけど、一種の依存ですよね。俺はこれじゃなきゃダメなんだ、っていう」
「私にも覚えがある」
「クラウスにも?はは、じゃあ内側にいる我々は製造元が潰れないように精々祈るしかありませんね」

そしてもちろん売り上げにも貢献する。
見慣れたグローサリーの店内にはスイス製のハーブキャンディやコーラ味のグミ、脱脂粉乳のベタつきが舌に残るので有名なチョコレートやジャパンの駄菓子、そしてわたしのお目当てのロータスビスケットなど、多種多様な慣れ親しんだ味たちが並んでいる。どれほど異界の食事に馴染もうとも、三年の間では塗り替えることのできない思い出の食品たちだ。
ガサガサと無造作にビスケットの袋をバスケットに入れると、そのバスケットをそっとクラウスに取られた。そのまま待っていてくれるあたり流石紳士である。

「無駄な抵抗なのか、生き延びようとする意思なのかわかりませんが、でもこの味が無くなっても、わたし達は生きていかなきゃならないんでしょうね」
「そうだな。……ところで少し買いすぎでは?」
「はは。知っての通り確かに食料品くらいは買いに出ますけど、わたしはほとんど引き篭もりですよ。このくらいの買い溜めくらい余裕でします」

ただでさえ騒がしい街だ。どれだけ防護しても、多分この街の災厄が行き着くところまで行き着けば何の意味もなく死んでしまうのだろうし。

「心配しないで。傲慢に聞こえるかもしれませんけど、どれだけ弱く小さく儚くても、我々は何とかしぶとく生きてますよ」

力強く親指を立てると、クラウスがほんの少しだけ、猫背気味の肩を落として小さく微笑んだ。その後ろ、グローサリーのショーウィンドウの外を、強化スーツの外骨格らしきものが車を巻き込んで横殴りに吹っ飛んでゆく。クラウスがバスケットをわたしに持たせて駆け出すのと彼の携帯の着信音が鳴り響くのはほぼ同時だった。

「緊急退避!」

クラウスの声に従って衝撃で割れたウィンドウから人波に乗って走る。あ、万引き、と思ったが、後日グローサリーが再開した時に支払うことに決めて今は走るのに集中する。哀れな愛用品たちがまた主人と一緒に戦えるように直してやるという使命がわたしにはあるのだから。



(血界戦線 230430)



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