終焉 | ナノ





その生き物は老いていた。

遙か昔に主人を失い、破滅の中で慈しむべき朋輩と守るべき民とを失った。主人が齎した死に至る汚穢がとめどなく湧き続け、どれほど自身の知恵を振り絞っても、それを止めることはできなかった。
怨嗟と悲鳴と嗚咽と、死を前にした民たちの怒りと嘆きに漏れ出る喘鳴がその生き物の心を蝕む。民の声は狂い果てた主人には届かない。主人はただ、その両目から深淵の穢れを涙のように流し、美しい花園で踊る舞姫の夢を見ている。
その生き物は知っていた。主人は強く、まるで奇跡のような力を持つが、しかし賢明な生き物は気付いている。主人もまた選択を誤る存在なのだと。罪を犯し、道を違え、終わらぬ罪禍をその身で償うべき存在なのだ。

その生き物は、額突く自身の祭司たちへ、己の神の最後の意思を伝えることにした。古き盟約に基づき、真なる神にしてこの世界そのもの、凡ゆる全てを記録する樹の美しき枝を、この地に招くように、と。
灰黒色の鱗を背負った祭司たちが啜り泣きながら生き物の身体を切り分け、神殿の礎とするために去っていくのを一人、また一人と見送りながら、その生き物は初めて安堵の息を溢した。災厄は終わる。王の過ちも、自身の罪も、これでこの地より雪がれる。審判の時は訪れ、そうしてこの霊廟には風に舞う砂の音に似た静寂のみが満ちるだろう。

たとえ最後に主人が何を選ぶのだとしても、その生き物は主人に従うだけだ。賢明なる生き物は知っている。主人は偉大なる王、人を愛さずにはいられない神。理の定めた神の座に昇ることが叶わなくとも、主人はたしかにこの国の、彼らの愛おしき君主だった。


ーーしかし混沌は湧き続ける。

自らの血と肉をもって、苦痛でもって、あの忌まわしき知識を封じていた生き物のもとに、熱風の中から人々の嘆きが届く。あれから何年が過ぎた。あれから何人が死んだ。
悍ましい鱗に全身を覆われ、呪いと嘆きの中で、主人の、そして雨林の王の民が何人死んだ。
罪禍は終わらない。
まだ恨むか、まだ憎むか、まだ呪うのか。わが王を、わが民を。愚かな過ちだった。傲慢と過信とが生んだ罪だった。だから裁きは、主人が心から愛したものに下ったのだ。しかし、しかし。

このような贖罪は、到底受け入れられるものではない。



怒りは狂気と並んで進み、後悔が必ずその踵を踏み付ける。
わたしは混乱したまま掛布を捲って跳ね起き、無意識のうちにぎゅっと縮こめていた身体をさらに強く抱き寄せる。なんだ、何なんだ今の。薄紫の靄のかかった夢か?いや、わたしの中から現れるには強すぎる感情だ。"視た"のか?でも、何を。

「どうした」

暗闇の中から静かに届く声に目をやり、悲鳴も上げられずに凍りつく。スメール特有のステンドグラスを通した薄緑色の微かな月明かりの中、横になったままのセノが炯々と獣のように目を光らせてこちらを見ていた。
何の感情も読み取れない、まるで古代の神像のような目。一糸纏わぬ裸身に、それ自体が淡く光るような白い髪。わたしは未だ震える手を伸ばして、セノの腕に触れた。身体を捻った拍子に下腹が軽く痛んだのは、眠る前に散々そこを突かれたからだ。痛みを感じるのなら、少なくともわたしの意識と身体は機能している。

「参ったな。お前も"ある"方の体質か」

セノが何も困っていないような声音でそう言い、わたしの指先を握る。三代前の母方に方士がいたとか、陰気が強い一族なのだとか昔親族の集まりの与太話として聞いた記憶が脳裏を駆け巡るが、真偽などどうでもいいことだ。

「なにか、なにか、処理しきれないものを見ました」
「うん。まあ、性交のせいだろう」
「ですよね……」

セノの手を握り返し、ごそごそと掛布の中に戻る。鮮明な記憶では決してなかった。大半は怒りと嘆き、そして後悔で曇り、それ以上に解釈するなとわたしの頭が警鐘を鳴らしている。あれはこの世に属さぬ知識の話。マハールッカデヴァータが定めた根源の六罪は、おそらく全てあの知識に辿り着く。
身体の奥から震えが来るみたいだ。知らなければ良かった、なんて陳腐な言い回しを、こんなに恐ろしいと思う日が来るだなんて。

「摩耗しているんだ。気にするな」
「気には……なりますけど、う、……はい」
「……ふは、いい子だ」

そこで初めてセノが凡そ人らしい顔で笑った。おやつのおかわりを諦めた子供をねぎらう父親のような顔で、手を伸ばしてわたしの頬を撫でる。

それでもわたしは知っている。
わたしの業は、砂の中に埋もれた物語を浚うことだ。時間が精神を摩耗させ、その魂に忘却と変質をもたらすことは古い物語を読み解く者であれば多少は理解していることだった。稲妻の神はその変容を厭い、万古不易の国を求めたのだから。
たとえそれが、この世で最も知恵があり、高潔な魂と固き忠誠、大いなる愛を持った神だとて、時間の前では腐り果てた死骸になる。

恨みを呑み、怒りを抱き、悔悟と己の無力さに打ちのめされた魂だ。力ある者の末期がこの世にどんな憂いをもたらすのかを、散々に紐解いて来たではないか。烈風吹き荒ぶ古塔、南天門に眠る龍、岩の槍に貫かれた海魔、断ち切られた蛇神、狂い果てた砂の王も。

何か、言い知れぬ不安を感じて更に強くセノの手を握る。薔薇の魔女と大マハマトラを世に送り出した賢者の研究室の噂話は、教令院で一定の地位を築いた者の間では、真偽はともかくとして有名な話ではある。荒唐無稽な噂もあるが、火のないところに煙が立たないのも教令院では常識だった。

「痛くはないんですか。こう……気分が悪くなるとか」
「今はな」

セノが繋いだ手を微かに揺らす。
わたしは遠い昔に聞いた璃月のお伽話を思い出していた。璃月には守護者がいる。各地に建てられた岩の巨像、槍を持ち炯々と光る目で凡ゆる魔を退けるその仙道の名を夜叉という。彼らは岩王帝君に敗れ虚しくも散っていった魔神たちの怨み、その亡骸から湧き出る世界への憎悪が璃月の平和を乱すことのないように戦い続けている。ずっとずっと、二千年もの間、片時も休むことなく。

彼らは皆、負った業に耐え切れず、狂い果てて死んでいった。
仙道でさえ死に至るその穢れが、人の身に負えるものだろうか。

「そんな顔をしないでくれ。お前と出会うずっと前のことだし……それに、俺はこの力を案外便利に使っているんだ」

ふわ、とセノの指先から幻のように紫色の光が立ち昇った。この世のものではないもの。人の理の外にあるもの。美しく、悲しい、何者かの命の光。

「これから俺は姿を隠す。できるならハルヴァタットから距離を置け。教令院の中枢にも関わるな。身に危険を感じたら、ティナリの所かオルモス港に行くんだ」
「……」
「少しでも異様な報せが届いたら、その時は即座に璃月に帰れ。二度と、スメールには戻るな」

セノの瞳は、紫色の明かりを照り返して鈍く輝いている。
浚えと言うのか。何もかも終わった後の世界で、わたしが今までやってきたように、あなたの物語を一つ一つ拾い上げろと。
もう、失われてしまった、二度と戻らぬ時の、一つの餞のように。わたしにあなたを掬えと言うのか。

セノが手を伸ばし、わたしの目元を指の甲で拭った。いつのまにか滲んだ涙がセノの指先で瞳と同じくらい柔らかに光っている。

「こんなことをティナリに言うと、キノコの菌床にされてしまうから容易には言えないんだが」
「わたしに言ったらキングデシェレト古字解説の間に挟んで押し花にしてやるからな」

間髪入れないわたしの罵倒にセノがくすくすと笑う。

「お前たちが、怒ってくれるのが嬉しい。俺は丈夫だし、大抵の怪我はすぐ治るし、三日三晩砂漠を歩き続けたって平気なんだが、でも、お前たちはすぐそうやって怒って、悲しんで、心配してくれるから」

わたしはモゾモゾとシーツの中を不恰好に掻き分け、できるだけ乱暴にセノの頭を胸元に引き寄せた。ステキな押し花にしてやるからな。
わたしの胸に抱かれたまま、セノはくすくすと笑い続けている。わたしは枕に涙を吸わせながら、いつまでもいつまでも、その幸福な子供のような美しい笑い声を聞き続けていた。



(原神 230427)



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