終焉 | ナノ




「お゛っ……」

殴られた時みたいな声が出た。手に山ほど抱えているファイルを一体どうしたものか、あと教令院に泊まり込んで三日目なんですけどこんなクタクタの姿で御前に出て大丈夫なのかとか、現実逃避そのものの思考が頭の中を駆け巡る。

大賢者の陰謀が暴かれてからこちら、陰謀に加担しなかったナフィス師とイスカンデル師を除く賢者が全て罷免され、教令院は未曾有の大混乱に陥っている。セノの助言に従って賢者カジェにそれとなく楯突いて閑職に飛ばされていたわたしでさえ、左遷先から引っ張り出されてハルヴァタットの後始末に奔走しているくらいなのだから。
もちろん大賢者の失脚劇の脚本家と目されている先輩は、そんなことはどこ吹く風で自分の書記官としてのごく常識的な仕事量+αしかこなさないので、必然、わたしのようなものにお鉢が回ってくるのだ。つまりは貧乏くじである。

「オ……ア……ア……」
「どうした」

壊れかけの遺跡守衛のような声を出すわたしに、セノが不思議そうに問いかけてくる。いや、だって。
部屋にいた全員が同じように固まっていたのだが、わたしより早く再起動に成功した後輩がわたしの手からサッとファイルを取り上げて、それに釣られて全員奥の部屋に引っ込んだ。あいつら、逃げやがったな。

賢者カジェ。威張りくさった年寄りで、皮肉屋で、ちょっとわかりにくい優しさの持ち主で、ゆるやかに衰退していく知論派をどうにかして救いたいとずっと足掻いていた人だった。哀れな賢者が一体どうして、ずっと奉じてきたはずの彼らの神を裏切るような真似をしたのか、わたしにはわからない。だから、先輩をはじめ賢者カジェに加担することのなかった我々は、理解から始めなくてはならない。
封じることも忌み嫌うこともできるが、それは知論派のやり方ではなかった。我々は文字の上に世界を見る。言葉こそ、文字こそ、見えないものを可視化し、理解するための最も良きものだとわたし達は信じている。
けれど、それでも、ああ歴代の賢者たちよ、何ゆえあなた達はこんなにも若く輝くあなた達の神の存在を、ただ喜ぶことができなかったのですか。

「そう畏れないで。話には聞いているわ。砂の物語を浚う、岩神の徒ね」
「……は、」

習慣とは恐ろしいもので、わたしは無意識のうちに片手で拳を作り、それをもう片方の掌に押し当てて石造りの床の上に跪いた。拱手したまま、深々と頭を下げる。果たして、岩王帝君に拝謁する際の礼が草神様への礼として適格なのかわたしにはわからない。
七神像はもちろん何度も見たし、スラサタンナ聖処におわす神はそういうお姿なのだと聞いてはいたのだが、いざ目の前に顕現された神を見ると思考など吹っ飛んでしまうものだ。

「ふふ、ありがとう。私を敬ってくれて」
「草神様はハルヴァタットを視察されたいと仰せだ。案内を頼めるか」

拱手した手にほわんと温かいものが触れた。柔らかくて乾いている。まるで植物の嫩芽のような、命そのもののような何か。

「セ……大マハマトラ様……」
「お、おい、どうした」

促されて顔を上げたわたしを見たセノがギョッと目を見張る。セノとわたしは友達だが、今は仕事場なのでいつものように話をするというわけにもいかない。わたしは一介の教令官(しかもこの前まで左遷されていた)で、セノは大マハマトラなのだから。
でもわたしは今、セノのその抱きついたら色んなものが刺さって怪我をしそうな衣装ごと彼の体を抱き締めたかった。そうして傷が無いか一つひとつ確認して、髪を梳いて、美味しいものを食べさせて、頭のてっぺんから足の爪先まで、余すことなく労ってやりたかった。神を救うために奔走した全ての人を、そうして讃えてやりたかった。

拭っても拭っても涙が出てくるので、わたしはそのうち諦めてボロボロに泣いたまま改めて草神様の前に跪いた。

「賢者カジェを諌めることができず、心より申し訳なく思います。そして、あなた様がご無事で、生きていてくださって、本当によかった」

神を失う、ということは、本当に恐ろしく、悲しく、虚しいものだから。
草神様は柔らかく渦を巻くお髪を揺らし、月明かりに大輪のサウマラタ蓮が綻ぶように美しく微笑みになったのだった。



***



「帝君が身罷られたと報せが入ったのは、シティから離れてすぐの頃です」

椅子も机も山ほどの書類や資料やファイルや本や、とにかく重くて厚くて動かしにくいもので覆われていたため、セノが部屋の隅から探してきた廃棄用の木箱の上に草神様と二人で腰掛けている。膝の上で組んだわたしの手の上にその小さな手を乗せて、草神様はじっとわたしの話を聞いていた。

「七星が……天権様が、迎仙儀式の最中に、帝君が何者かによって弑されたと……これからは神のない璃月になるのだと、そう仰ったと……生家からの手紙にはそう書いてありました。それで、何だかよくわからない古代の化け物が出てきて、ものすごく雨が降って、孤雲閣が爆発したとか、群玉閣が落ちたとか、もう何がなんだか」

すぐにでも璃月に帰りたかったが、それはできなかった。教令院は何だかおかしくなっているし、セノも姿を消した。賢者からは詳細はよくわからないが絶対に真っ当な仕事じゃない書類の改竄に缶詰知識の制作に裏ルートを含めた砂漠地帯のマッピングとか、あと怪しい資金洗浄の手伝いなんかの打診までやってきて、その全てを蹴ったら普通にキャラバン宿駅に飛ばされた。
正反対の方向にあるキャラバン宿駅から璃月にこっそりと戻るのは至難の業だ。そしてわたしには常に宿駅に駐屯するエルマイト旅団の見張りが付いていた。多分カジェ様はわたしが仕事を断るとはあまり思っていなかったに違いない。確かにわたしは他のことにはひどく従順だった。直接の先輩が賢者たちに協力するような姿勢を見せていたのもあっただろう。まあ実際は協力なんか一切していなかったわけだが。
大賢者たちは一体先輩の何を見ていたのだろう。彼が天上天下唯我独尊、己の思うままに突き進む気の狂った暴走駄獣であることはキノシシがリシュボラン虎を食べないのと同じくらい常識なのに。

「大マハマトラの言葉が無ければ、わたしは、もしかしたら賢者たちに協力していたかもしれません。わたしは璃月の人間で、生まれた時から一年に一度答えてくださる神がいて、それを疑わなかったから……」
「もしもの話をしても仕方がないが、お前はそれでも草神様を害するような計画には加担しなかったと思う」
「あなたはここで、誰よりも神を失った人々の嘆きを読み解いてきたものね」
「草神様ぁ……うう、」

泣かないで、と言って草神様が小さな指でわたしの涙を拭ってくれる。不敬なのではとか畏れ多いとか色々思うところはあるが、その裁量は草神様がなさる事だ。草神様は深くスメールの人々に寄り添うことを望んでおられるのだろう。
大賢者たちが一体何をしようとしていたのか、実のところ詳細は曖昧だ。草神様が教令院を再び統治すると宣言されて、マハマトラたちが一番初めにした事が今回の事件に関する資料の回収だった。六罪犯しまくりのトップクラスに危険な研究資料であることは間違いないので、我々学者も規定に従いカジェの研究室を封鎖し、それ以降の判断は全てセノに一任した。わたし達が今大慌てで精査しているのはその禁忌の研究に触れる資料が外部に流出したような形跡があるかないか、それだけである。

「アルハイゼンがあなたを私に推薦してくれたの。性格的に、ハルヴァタットで最も公平性があると言っていたわ」
「先輩が……?熱でも出したんですか……?」
「俺も同意した」
「え、照れる……」

先輩がわたしに好意的な評価をする時は必ず何か裏があるが、セノはその点全くもってストレートかつフラットなので素直に嬉しい。元から人数が少ないハルヴァタットの学者は、その上層の大部分が賢者カジェと一緒に計画に加担して教令院を去ったので、内部の人間であるわたしからですら誰それが賢者に適任だとか迂闊に言えないのが現状だった。そもそも知論派は先輩を筆頭にあまり社会生活に向かない人間が集まっているのでも有名な学派だ。こんな難解な問題も、もしかしたら草神様なら解決できるかもしれないし。

ん、という微かな吐息と共に、ごく自然に草神様がわたしの方へ手を伸ばしたので、わたしもまるで何万年も前から決まっていたことのように草神様の小さな体を抱え上げてしまった。セノがもの凄く唖然とした顔をしていたので、たった今わたしが一体何をしでかしてしまったのか、それが雷に打たれたかのように頭の中を駆け巡る。え、神って抱っこしていいの?

「あなたの腕、とても逞しいのね」
「へ、へあ……」

それは、まあ。マハマトラ式機能回復訓練を経てキャラバン宿駅で朝から晩まで行商人とエルマイト旅団の軋轢を解決したりキノコンを退治したり空腹の駄獣を宥めたり、それはもう肉体を酷使する日々を送ってきたので、それは、まあ。

「ふふ。セノ、そんなに怒らないで」
「いえ……」

セノは怒っているわけではない。言うなれば、イタズラをした子供二人がどちらがどれだけ悪いのかわからず叱りあぐねている母親みたいな顔をしていた。まあそんなことは草神様も百も承知だろう。揶揄われたのがわかって、セノがますます微妙な顔をする。

「でででは、ご案内させて頂きます」
「よろしくお願いするわ」



***



ハルヴァタットに突如舞い降りた草神様に学者たちが目を白黒させている間、わたしとセノは常に一歩下がった位置から彼女と学者たちの語らいを眺めていた。
今現在ハルヴァタットに残っているのは二通りの学者たちだ。賢者から謎のプロジェクトへの勧誘を受けたものの、内容を一切明かさないその姿勢を怪しんで与しなかった者。そして様々な理由で賢者から勧誘を受けなかった者だ。賢者が彼らを勧誘しなかった理由は大体察することができる。研究内容がプロジェクトと何ら関わりが無かったのが一つ、勧誘をしたかったが本人の人間性に信頼が置けなかったのが二つ、そして勧誘をかけるほど優れた頭を持っていなかったのが三つ。

わたしはその中から賢者を突っぱねた人間と研究がプロジェクトと全く関係なく、且つ人間性に問題がない学者の研究室を選んで草神様を案内して回ることにした。もちろん人間性に問題があっても優秀で有能な人間は存在するが、その本人が変人代表の先輩みたいに例えどんなに思考回路が狂っていたとしても過不足なく道徳と正義と倫理を備えていなくては、草神様の今回の視察の目的には不適格だろう。残念ながらそういう人間は雨林のキノコみたいにどこにでも生えているわけではないのだ。

「お前は、やはり察しがいい」
「褒めてくれるんですか、セノ」
「ああ。俺はお前を認めている。お前が永住権を持たないのが悔やまれると思うくらいにはな」

つまりそれはわたしに賢者を目指せということか。
テイワットではこの前までの稲妻における鎖国令などの特例を除き、七国間での人間の移動は基本的に制限されていない。しかしこと教令院において、そして賢者の地位において、外国人というのは歓迎されざるファクターなのだ。
街行く者にスメール最大の産業が何かと人が問えば、それは"頭脳の養殖"だと皮肉混じりに答えるだろう。国土の半分を砂に覆われ、フォンテーヌを源流としてオルモス港まで流れる川沿いでなければ人の住めないスメールには外貨を稼ぐ余裕がない。
クラクサナリデビ様の恩寵のお陰で作物の収穫自体は安定しているのだが、高低差が激しいスメールでは穀物の大量生産が難しく、果樹やキノコは腐りやすいので加工してからでなければ輸出ができない為コストがかかる。モンドの酒のようにそれだけで外貨が稼げる加工品が存在しないし、何より政治の中枢を担う大賢者が商売人ではないのであまりこの分野に積極的ではない。
故に、スメール最大の交易品は"人"なのだ。
知恵と知識、そして技術。高度な教育を受けた人間はそれ自体に価値がある。賢者たちが長い間アーカーシャの外国人の利用を制限してきたのも、留学生を広く受け入れているのも、留学生を受け入れながら一定の権限を与えずにいるのもその為だった。永住権という名のスメールから頭脳流出を防ぐための誓約をしなければ、外国人は賢者になることはできない。

「永住権ね……こちら側はともかく、あちらがねえ……」

多分、今のスメールで申請すれば永住権はすんなり取れるような気がするのだが、問題は璃月側だ。璃月は、たまに住んでいる人間でさえ嫌気が差すくらいガッチガチの契約の国である。わたしの籍を璃月から引っこ抜くのに、もしかしたら三年くらいは余裕でかかるかもしれないと思うとどうしても手が止まる。そもそもスメールに永住したいのか、自分の中でまだ答えが出ていなかった。

「結婚でもするかぁ」
「ケッコン……?」

視界の端で研究室に必ず据えられている元素濃度測定装置が一瞬強烈な紫に輝いたような気がしたがおそらく見間違いだろう。

「セノも知ってると思うんですが、璃月の神である岩王帝君は、璃月の地を治めるにあたり、民と"世の塵を払い、民を守る"という契約を交わしました。その対価として、我々もまた帝君に対し生まれた時に誓約を交わすんです。璃月の民として生き、璃月に仇を成さない、という程度の軽いもので、まあ別に刑罰を食らうほどの強制力があるわけじゃないんですが」
「うん」

今はもう子供が生まれた時のおまじない程度のものだ。そもそも生まれた本人が自らの意思で交わす誓約ではないので、霊的な拘束力はほとんど無い。ただし、法的な拘束力はガッツリある。

「税収の問題でね……璃月人がその誓約を反故にして他国に永遠に住むには長くて煩雑な手続きが必要なんですよ……」

璃月七星は元々は商人のギルドだったという伝説もある。彼らはスメールの賢者たちとはまた違った意味で人間を資産だと考えているので、出来ることなら人間の流動は極力抑えたいと思っているのだろう。
なぜ璃月を離れるのか、離れてどこへ行くのか、今璃月に持っている財産はどうするのか、あれはこれはと何十項目も書類に認めた後、総務司の認可を待って更に細かく審査を受ける。スメールの永住権を得て賢者になります、なんて書いたら、更に追求が厳しくなるかもしれない。知識階級の価値を見誤るような人間は璃月七星の中には一人もいないので。

「ただ、そういう一切合財を両断できる魔法の呪文があるんですね」
「それが結婚か」
「その通りです。外国人と結婚して外国で暮らして子供作ります!って言うと、めちゃくちゃすんなり通るらしいんですよね」

いかな百戦錬磨の璃月役人といえど、これから結婚して嬉し恥ずかしの新婚生活を送ろうという人間に制度とはいえ「この後離婚して璃月に戻ってくる可能性はありますか?」なんて素面で聞けるものじゃない。

「それは……悪用されそうだな」
「おお」

さすが、目の付け所がマハマトラ。
問題になったのは貿易の利権を狙って璃月の永住権を得ようとする輩だ。大金で璃月に籍のある人間を買う者、結婚詐欺に走る者、ブローカー組織やら密入国やら、それはそれは大きな問題になった、らしい。まあ、過去の話である。
そんな無法を許す天権様ではないし、璃月は帝君が目に余ると仰せになればすぐさま塵の払われる国だったので。

「……セノ」
「何だ」
「今草神様と話している男はカジェの一番弟子で、重度のカフェイン中毒です。ズバイルシアターの公演が好きで、特に雨林の女性が砂漠の宮殿に嫁いで奮闘する歴史モノがお気に入りみたいですね。備品の扱いは丁寧なんですけど、自分の身なりなんかにはあまり頓着が無いみたいです。好意を抱いてる女性がいるらしいんですが、どうもエルマイト旅団の人みたいで、望み薄というのが下馬評です。概ね交友関係は良好ですが、ほら、あの後ろにいる壮年の男、あれだけがもの凄く彼を嫌ってます。すごい目付きでしょ」
「確かにな」

家族関係や学歴、カジェに逆らって拘束されていた経緯などは既に調査済みだろうから、教令官をやっていて得た情報をボソボソと聞こえるか聞こえないかの声でセノに伝える。草神様を目の前にして、傍目には無言で突っ立っているように見える教令官と大マハマトラを気にするような者もいない。

「でも、あの人も院内での評判は悪くないんです」
「了解した」

衆之を悪むも、というやつだ。
セノが前を見据えたまま頷く。鬼が出ても蛇が出ても、マハマトラ達が過不足なく裁いてくれることだろう。

「……もし、もしも、お前が迅速にスメールに帰化したいと思った時は、俺に相談してくれ。大賢者ほどの権限は俺には無いが、草神様に奏上するくらいのことはできる」
「んっ……ふふ、それ、めちゃくちゃ面白いですね」

多分草神様は二つ返事で親書を認めてくれるはずだ。それに大マハマトラも。偽造も捏造も死ぬほど難しい二つの書類が一人の人間のために書かれたと知ったら、七星の一人くらいは玉京から降りてきて下さるかもしれない。慌てふためく役人たちと一緒に。
くつくつと笑うわたしに、セノが胡乱げな目を向けてくる。こんなに信用してもらって、悪い気は全然しない。わたしは先輩とは違って仕事には熱意とやり甲斐を求めるタイプなので。

「セノ、もし必要なら三日後に人を寄越してください。教令院中の噂話をリストにしてまとめておきますから」



(原神 230122)



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