終焉 | ナノ




「なぁーんでここの連体修飾形は動詞にかかってるんですかね?!」
「誤用の可能性もあるが……二文ほど同じ用法を見つけた。節ごと修飾している可能性もあるな」
「誰かこの用法について言及してませんか?!できればダステア以上の寄稿文で!!」
「馬鹿げたことを。君がこの碑文の第一発見者なんだ」
「あーっ!!!」

がりがりと頭を掻きむしるわたしを、先輩が水に浸かったトリックフラワー(炎)を哀れむような目で見ている。今回の研究調査の結果についての簡易草稿を提出するように、という通達が、何の手違いか入院しているビマリスタンではなく借家に届いていたのだ。一度入院生活の初めの方に人を頼んで着替えなどの日用品全般と郵便を取ってきてもらったのだが、その後に郵便受けに突っ込まれたものらしかった。期限はなんと今日から数えて七日後、消印から見れば半月は猶予があったらしいが今はもう後の祭りというやつだ。
教令院のガイドでは、学者による新規発見があった場合この草稿の提出をもって研究続行の意思ありと判断され、一定の期間、研究資料の独占が認可されることになっている。草稿があまりにお粗末であったり、そもそも提出されなかったりすれば死ぬような思いをして手に入れてきた資料がどこの駄獣の骨とも知れぬ学者の手に渡ってしまうのだ。絶対に許せないね。

わたしは最終兵器としてこの審査会で一度も草稿を落としたことがないという先輩を、璃月の秘蔵古酒(岩王帝君のお墨付き)で一本釣りし、何とか提出を間に合わせようとしている真っ最中なのだった。

「え?じゃあここが誤用だったら前の文全体が誤訳ってことになりません?」
「なるだろうな。そしてこの行の文も再考ということになる」
「おかしい……!!もしかして周辺の土器とは制作年代が違うのか?!『キングデシェレト古字活用(改訂七版)』でカバーできない年代だとしたら……?!」
「それ以外に考えられるとすれば……」
「方言、外国人、流行語……!!どれだよ……っ!!!」

既に原稿は訂正と修正で真っ赤に染まっている。学者の常とはいえ、こうなってくると直接過去に飛んで碑文を書いた人間の胸ぐらを掴んで問い質したくなってくるものだ。

メモに使っている安くて大量に手に入る目の粗い紙に、ペン先が引っかかって見事に折れた。元々鉄製の使い捨てのペン先なので、折れても何ら不思議はないのだが同時にわたしのやる気もポッキリ折れてしまった。インクでシワシワになったメモの山の中に顔を埋めて唸るわたしに、先輩がペン先を補充するついでに夕食を摂ってくるから少し休憩にしようと告げてくる。さすがに先輩も疲れたことだろう。何せ朝の七時から始めて、今はもう日も傾き始めるような時間帯だ。いくら期限が迫っているとはいえ、脳みそがオーバーヒートを起こしてしまう。

酒……いや酒はダメだ。アルコールは骨の治りに影響するらしい。せめてコーヒー……いや、カフェインも薬と飲み合わせが悪いみたいだ。もう可哀想な脳みそに与えられるものが糖分しかない。おお、裏切られた僕の脳みそよ。

「これは……一体何が起こったんだ」
「糖分!!」

いや糖分じゃない。ナツメヤシキャンディを持ったセノだ。
甘い匂いのするカゴを持ったセノが、床に散らばったメモを踏まないように慎重に歩いてくる。机の上に堆く積まれた巻紙や、キノシシ革の装丁の分厚い本など病室に置いてあるものとしては異様だろう。

「ああ〜セノ様〜!素晴らしいお見舞い品センスですね。はしたないのは重々承知なんですが一つ口に放り込んでもらえませんか。エネルギー切れで倒れそうです」
「それは構わないが」

セノがカゴからナツメヤシキャンディを摘み上げ、わたしの口に押し込む。ヌガーのねっとりとした口触りから吸収された糖分がシワシワに萎んだ脳に潤いを与えていくようだ。粘る糖分を舐め取り、現れたざく切りのデーツとドライナッツを噛み締めた。豊かな香味と油分が錆びた関節に染み渡っていくのを感じながら、欲望のままにわたしはぱかりと口を開いた。間髪入れずにセノの指が口元に次のかけらを持ってくる。鳥のヒナにでもなった気分だ。最高である。

「こら、指を食べるな」
「塩分……」
「……この」

ピン、と指先で唇を弾かれる。ちょっと塩味が効いてて美味しかったので。今はもう脳みそも情緒も瞑彩鳥クラスに縮んでいるので恐ろしいものなど何もないのだ。
無心にナツメヤシキャンディを噛むわたしの口に次々とかけらを放り込みながら、セノが机の上に積まれたメモを取り上げた。砂漠の物語の翻訳は、今現在教令院で最も興味を持たれない……というか、下に見られている学問の一つだ。今の大賢者が芸術の振興に否定的な明論派のアザール様であることに加えて、今日までその殆どを口伝やおとぎ話として伝えられてきた歴史は当時の遺跡や遺物がなければ真実としてすら認識されていない。

「セノは、スメールの外に出たことはありますか?」
「あるよ。あまり遠く離れたことは無いが」

目線だけで勧めた椅子にセノが腰掛け、ゴソゴソと机の上を漁って次の翻訳メモを探す。トゥライトゥーラの辺りの歴史は面白いよねえ。わかるわかる。

「わたしが璃月を離れてスメールにやって来た頃は、まだ層岩巨淵が稼働していたので、わたしはガンダルヴァー村のルートを通ってここに来たんです」
「船を除けば璃月からの最短ルートだな」

あの頃はまだ層岩巨淵から産出された鉱石を直接スメールシティまで運ぶキャラバンすら運航していたのだ。一酸化炭素中毒を防ぐために石珀を利用した明かりが灯された隧道を抜け、この地に足を踏み入れた時。空気の匂いが変わり、取り巻く音が消えて、陽光さえも全く違う色になってしまったあの時。わたしはたった十かそこらの子供だったが、それでもあの瞬間わたしは深く理解したのだ。ああ、わたしはわたしの神の加護を失ったのだ、と。

「帝君は旧く強い神で、わたしの住んでいたところは璃月の中でも特に仙人の気配の濃いところでしたから、岩神の執政権の及ばない土地に初めて足を踏み入れたわたしはとみにそう思ったのかもしれません。けれど、あの時の、失ってしまった、という強烈な体験は今も忘れられない」

セノはメモに目を落としたまま、微かに頷いた。

「璃月の民は未だかつて神を喪ったことがない……。わたしには、マハールッカデヴァータを嘆く人たちの気持ちも、キングデシェレトを待ち望む人たちの気持ちも、心から理解することはできないのかもしれない」
「お前は、神を失った人の心を知りたいのか」
「……多分?……いや、違うかも。わたしは、神を失って……問いかけや、祈りに応えない神の、その恐ろしい沈黙に相対して、それでも神を信じ続けることができるのか……人は、神が愛したその、人の善性を、営みを、自分自身を信じて死んでゆけるのか、死ねるのだとして、人の中の何が一体そうさせるのか……それが、知りたいのかもしれません」

砂漠の国は滅びた。
神は去り、千年の間、人は栄華を極め盛衰を繰り返し、王は暴虐の限りを尽くして、そして全て砂に消えてしまった。今はもう何も残っていない。ただ神の墓碑、それだけが砂海の真ん中で沈黙している。

「歴史は繰り返すよ」

セノが柔らかくそう言い放ち、次のメモを手に取った。では、今現在神を奉じながら軽んじる教令院の、その尖兵としてあるあなたが、最も知の神の権能に近く、最も遠いあなたが、最初に犠牲になる。

「その時が来たら、お前は自分自身を信じろ。六罪を忘れず、道を違えず、己の身を守れ」
「自分の……自分だけでいいんですか……」
「うん。お前の身だけでいい」

ぐちゃぐちゃのメモを読みながら、何でもないようにセノは言う。自分が傷付くことなど、最初から何とも思っていないかのように。それが当たり前の事だとでも言うように。
彼の、その献身は、わたしには献身と呼ぶ他ないその罪を裁き、咎を科す事への狂執は、一体どこから来るのだろう。罪はある。ここに輪転する。人が生まれ、人が生き、互いに互いを傷つけ合う限り、そこには無限に罪が生まれる。人は生まれた時から罪を負う。罪を生むかもしれない者としての拭えない枷を負う。故に神は言うのだ。我が人を統べる故、善く生きよと。

人に罪ある時、それを裁くのは神だ。

「あなたじゃない」
「……何がだ?」

思わず溢れた声に、セノが小首を傾げる。指先に次のナツメヤシキャンディを摘んだまま、きょとんとわたしを見ている。

「……すみません、失言です」
「よくわからないが、許すよ」

セノの言葉に、わたしは更に体から力を抜いた。気分は死にかけの水スライムだ。

神は有能だが、万能ではない。彼らは人などより遥かに高度な知性と強い魔力を持った尊い存在ではあるが、ただそれだけだ。あの岩王帝君ですら犯した過ちが存在する。花神は消え、砂の王は滅び、スメールの執権を握ったはずの草神様もまた潰えた。

「人は人を律して……生きていくんですね……」
「うん?それは、そうだな」

セノの行いの正しさに眩暈がしそうだ。
裁定者は非情でなくてはならず、裁定は常に情に添わねばならない。神ですら判断を誤るその狭間で傷付くのはセノだ。

「余程応えているみたいだな」
「そうかもしれません……余計なことを考えてる気がする」

セノが身を乗り出し、左手でわたしの目元を撫でた。そのまま星が夜を覆うように、ゆっくりと熱い手のひらが瞼に触れる。セノは武官だから、身体の代謝が良いのだろう。

「セノ……」
「この連体修飾は特定の名詞ではなく文全体を指している。つまり『偉大な・驚異の』は文中の特定の事象の説明ではなくこの石碑が記された事実を修飾しているんだ」
「…………何だって?!」
「古い砂漠の口語だ。これを記した者は文語に慣れていなかったようだな」
「ということはつまり、文語を習うことができるほど身分の高い人間ではなかったか」
「それにしては文字に乱れが無い。かなり高い教養を得ているように思えるが」
「つまり、つまり……」

わたしはがばりと伏せていた机から身を起こし、巻紙を引き寄せて猛然と碑文を再翻訳し始めた。折れたペン先がガリガリと紙の表面を毟るが知ったことじゃない。
その後先輩が戻ってくるまでわたしは翻訳を続け、『キングデシェレト古字活用(改訂五版)』に口語についてのコラムが掲載されていたのを発見するに至り、当のコラムの筆者は既に亡くなっていたもののその残された研究資料から無事に石碑研究についての草稿を書き上げることができた。ついでに研究資金も支給された。
当のセノはわたしが翻訳に夢中になっている間に野良猫のように消えてしまい、カゴに残っていたナツメヤシキャンディも当然のように先輩に食われたが、その全ては一編の論文となって知恵の殿堂に永遠に保管されている。




(原神 221129)



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