終焉 | ナノ





「おかえり」
「は………………??」

誰この人。
顎が外れそうなほどぽかんと口を開けて、目の前の男を見上げる。わたしより頭二つ分はでかい、おそらく百九十センチ近い身長、がっしりした肩幅にみっちりと筋肉がついていて、胸板なんか女のわたしより胸囲がありそうだ。全体的に露出の多い砂漠風の衣装に、記憶に馴染んだ白と赤の色彩は微かな面影を訴えかけてくるものの、圧倒的にサイズが違う。
人間というものはたった三年でこんなに縦にも横にも伸びるものなのか。というか、この、壁のようにでかい美丈夫は本当にセノなのか?

じり、と後退りするわたしに、美丈夫がこてんと首を傾げる。とろりと蕩けるように細められた目が雄弁に感情を伝えてくるのが恐ろしい。熟した夕暮れの実の色の、こぼれ落ちそうなほどに大きかった瞳はいつだってどこか冴え冴えと凍えていたのに。

「おかえり」

美丈夫がもう一度同じ台詞を吐いた。聞こえなかったわけじゃない。セノの声は、……声はもう残念ながら記憶に曖昧だ。仕方がない。わたしはこのスメールを、もう三年もの間離れていたのだから。
美丈夫の肩の上で軽く結ばれた髪がさらりと風に揺れる。シティに吹く風の匂いは、変わりが無いように思う。肥沃な黒土の匂いを含んだ水、ランバド酒場から漂う香辛料と肉の焼ける匂い、聖樹から降り注ぐ光までも懐かしい匂いで満ちている。
わたしは無意識に、船着場からトレジャーストリートに登る坂に視線を向けた。シティの入り口、ランバド酒場、冒険者協会に繋がるシティの主要路だ。いつだってわたし達はここを歩いて、笑い、話し、そして。

セノ。



わたしは身を翻し、右手の道を全速力で走って逃げた。幸いにも旅慣れたわたしの荷物は少なく、走るのにもあまり不都合は無い。ダリオッシュとして遊学に出ることが決まった時、借家を引き払い、研究資料の類いはハルヴァタットに全て預けて出たので行く当ては殆ど無いのだが、わたしはとにかくあの美丈夫から逃げ出したかった。
必死の形相で走るわたしを、行き交う人々が驚いたように見ている。逃げる?隠れる?いや、あの美丈夫が本当にセノであるにしろ無いにしろ、こんな失礼な態度を取られたら追いかけても来るまいと思うのだが。でも。

「なぜ逃げる」
「ぎゃあ!」

視界の端に見慣れたような見慣れないような、曖昧な悪夢みたいな顔がニュッと映り込んだ。走るの早っ。あとでかい、怖い。
わたしはイタチのように身を翻し、柵に手をかけてメインストリートから路地裏に滑り込んだ。高低差の激しいスメールシティでは、身軽に動ければ道を大胆にショートカットすることも可能だ。
急に現れた人間に占い屋の二匹の猫が驚いて飛び上がる。ごめんな、でもこちらにも事情があるんだ。

冒険者協会の建物の横を走り抜け、壁を伝って鍛冶屋の方へ逃げる。神の目も持たない女の一人旅は結構危険なので、こういう技術も体力も自然と身に付いた。冒険者に混じって日銭を稼ぐこともあったので、崖登りもお手のものだ。
速度を保ったまま雑貨屋の前を通り、鍛冶屋の裏手、グランドバザールの入り口横に体を滑り込ませた。表通りからは死角になった場所で息を吐くと、全身の毛穴からどっと汗が吹き出す。こんなの、絶雲の間でベビーヴィシャップに追いかけられた時以来だ。
ぜえはあと息を整えながら、素早く辺りを見回す。どうしよう、一度シティから出ることを考えた方が良いだろうか。それとも教令院へ?シティにいた頃一番交流があった先輩はまだ書記官をしていると聞いた。執務室も変わってはいないだろうから、事情を話して匿ってもらおうか。

とりあえず一箇所に止まるのは危険だ。柵を乗り越えて冒険者協会の屋根に降りようとした瞬間、なんだかよくわからないものに腹を掴まれた。
それは言うなれば巨大な手のような何かで、質感はつるりとしていて硬く、滑らかな石を削り出して作った古代の像のように怜悧に整っているような感じがする。しかしその一種異様な存在感に反して、わたしの腹を掴んだ何かには大きな犬のように分厚い温もりがあった。

ギュオンという空気を裂く音が耳元で響く。風スライムの風圧で飛ばされた時のように体から胃だけが置き去りにされるような感覚があり、その後すぐに硬くて温かくてすべすべした何かに万力のような力でギリギリと全身を締め上げられた。感覚のオーバードーズだ。全てが触覚で支配された一連の出来事の中で、辛うじて視覚に訴えかけるものがあった。乳首だ。
きめ細かな肌に少し陥没気味の乳頭は、まあこんなに発達した胸筋にくっ付いていたら埋もれたくもなるだろう。色は柔らかな煉瓦色をして、微かに震えているのは、多分この胸板の持ち主の心臓が早鐘を打っているからだ。現にばっくんばっくんと大きな鼓動の音が響いてくる。

「何をしている……!」
「え、あ、すみません……」

震える低い声は何だか泣きそうだった。いや、別に自暴自棄になって飛び降りようとかしていたわけではなくて……。とりあえず腕、腕の力を緩めてほしい。あまりに絞められすぎて上からも下からも何かが出てしまいそうだ。内臓とか、悲鳴とかそういうものが。

「金輪際高いところに登るな」
「えっ」
「お前は落ちる」

確かにわたしは高所からよく落ちる。そしてそれを知っている人間もまた限られている。やはりこの美丈夫はセノなのだろうか。いや、まあ、セノなんだろう。このスメールで、彼以外にこんなにもわたしに深く立ち入ってくる存在はいないはずだった。

「き、教令院もかなり高いところにあるんですけど……」
「……それもそうだな。高所に行ってもいいが、縁には近付かないようにしろ」

ああ、今のはすごくセノっぽかった。わりと我を通すところとか、でも懐に入れた相手には甘くて融通を効かせてしまうところとか、自分が納得したことには素直に振る舞うところとか。
過不足なく、わたしの愛したセノだった。

「あの、逃げてすみません。ちょっとだけびっくりしてしまって」
「?」

セノはようやくわたしを拘束する力を緩め、それでもがっしりと肩を掴んだまま少し屈んでわたしの顔を覗き込んだ。もともと精悍な顔立ちだったが、丸みが抜けて鋭さが増した。つまりは更にカッコ良くなった。

「威圧してしまったか。それは……すまなかった」
「いやいや。しかし、大きくなりましたね、セノ」

時の大賢者が失脚し、スメールを草神様が再び統治するようになってからこの国は大きな変化を遂げた。砂漠地帯に知識と教育が齎され、制限の多かった外国からの留学生の待遇も改善された。
潤沢とは決して言えないが、申請すれば研究の精度に見合った資金もきちんと援助されるようになったし、砂漠地帯への立ち入りの禁止も緩和された。賢者に毎度の如く跳ね除けられていたダリオッシュとしての遊学申請も、無事に通ってしまったのだ。
フォンテーヌの隣接地帯からぐるりと砂漠を回ってナタへ向かう旅は、散り散りになってしまった砂漠の物語を集めたいと願うわたしにとって、ほとんど悲願とも言える旅だった。スメールにおける、研究成果以外の一切合財を処分してから旅立ったのは、ダリオッシュの死亡率の高さに加えて、おそらく帰った時にはこの国がわたしの知るスメールでは既に無いだろうと確信していたからだ。

この国が故郷ならば耐えられただろう。
どうしたってわたしの血は故国のもので、例え過ごした時間より離れていた時間の方が長くなったとしても、そこに同胞の住む限りわたしは蓮の一葉一輪が地下茎で繋がっているようにまた璃月の中へと戻ってゆける筈だった。
けれど、ここは、私の国ではない。

他人へ移植した臓器が確かに身体の中にあるのに拒絶反応を起こすように、きっとこの国はわたしを拒み、わたしもまた変わってしまったスメールを拒むだろう。いや、最早わたしが変化を受け入れられないほどに歳を重ねたということなのかもしれないが、それでもその痛みを、故郷と思えばきっと耐えられるものを、きっとわたしはこの国では受け止めきれないだろうと思っていた。

だから逃げてしまったのだ。
セノは、わたしの知る限りこの国で最も揺らぎない存在だった。金属質の岩塊のように、風雨にも削がれず、地動にも揺らぐことなく、彼は彼のままこの国にあるのだろうと信じていた。他の誰でもない、セノだけが。
懐かしいわたしの友。鋼の意志と信念の人。どんなにスメールが変わっても、彼がいればわたしもまた、あの頃の自分に戻り、あの頃の日常に戻れるのだと、恥ずかしげもなくわたしは信じ込んでいた。

「はは……昔は同じ目線だったのになあ」
「正直、伸び始めた頃は大変だった」

それはそうだろう。身長も変われば腕の長さも変わる。特にセノが扱う長柄武器なら尚更間合いを取るのが大変そうだ。
他愛無い話をしながら、そっとセノの手を肩から引き離そうと試みる。いつまでも恥ずかしい感傷に浸ってはいられない。わたしはまたこの新しいスメールで、一から何もかもを始めていかなければならないのだから。

ならないのだが。

「あの、セノさん……?その、肩をですね」
「行く宛はあるのか」
「え?いや、帰還届を出したらしばらくはハルヴァタットで寝泊まりしようかと思ってますけど……」

セノの手は指が食い込みもしないが簡単に引き剥がせもしない絶妙な強さでわたしの肩を掴んでいる。これもマハマトラの拘束術か何かなのか。
各学院には、研究で泊まり込む学生のために研究室の他にそれなりに設備の整った仮眠室が据えてあることが殆どだ。申請すれば一週間くらいは寝泊まりができるし、その間に借家を探し直そうと思っていたのだが。
熟れ過ぎた夕暮れの実みたいなセノの瞳がぎゅっと細められる。

「俺の家に来ないか」
「は?!」
「カーヴェに、外堀を埋めろとアドバイスをされたんだが、そこまで婉曲にする必要は俺たちには無いと思ったんだ」
「待って待って、理解が追い付きません。前置き、前置きの説明をお願いします!」
「前置きか。七日前にランバド酒場でアルハイゼンとカーヴェと酒を飲んだんだが」
「大分ぶっ飛んだ前置きだった」
「お前は恋人候補として異性にも同性にも人気があると聞いた。昔お前の性的指向は異性愛だと聞いていたから同性はとりあえず除外しても良いと思ったんだが、この間に変化はあったか?」

セノの言葉に、わたしは雷キノコンを齧ったリシュボラン虎のような顔をしてしまう。
実のところ、わたしが教令院で学者たちから一定の支持を得ているのは事実だ。しかしそれは彼ら彼女らがわたしに生涯の伴侶や一時的に親愛を分け合うパートナーとして魅力を感じているからではなく、幼児が優しい学校の先生に懐くような、そういった一種の憧憬を孕んだ依存というか、ともかく恋愛的な意味での人気では全く無い。

話はわたしと先輩の学生時代に遡る。その頃わたしは知論派のハーバッドが開催する古代テイワット文字の変遷をキングデシェレト史からの歴史的なアプローチで研究しているゼミに所属しており、そしてそのゼミは内容的にあまりに人気が無かったために所属する学生が二人しかいなかった。つまりわたしと先輩である。
先輩はその頃から教令院において鬼才として抜群の知名度を誇っており、ついでに今と全く変わらぬ傍若無人さを備えていた。ハーバッド達でさえ舌を巻く頭の良さに加えて、均整の取れた長身と鍛えられた肉体、それにあの美貌だ。春の早朝の陽の光みたいな銀の髪に不可思議な色の瞳、腹の底に響く低い声も。ああいう人間に認められたい、友誼を結びたい、あまつさえ征服し同化したいと願う輩はあの頃から引も切らなかったが、先輩はその尽くを研ぎ立てのシャムシールの一撃よりスッパリと両断していった。
先輩の通った後には、その頭脳や、思考や、精神や、容姿や、自信や……つまり自己を肯定する何もかもを踏み躙るがごとく粉々にされた人々の屍が累々と横たわっていた。しかし彼らは物理的に死んだわけではなかったので、辛うじて精神が息を吹き返した後にその粉々にされた心を再び燃やすためせっせと憎悪と怒りとを薪として放り込んだのだ。
そもそも教令院にいるような連中はプライドの高いエリートであることが多い。彼らは先輩にもう一度己の智で挑むほど挫折に強くなかった。そういう時、人は大抵暴力の存在を思い出す。

可哀想に、先輩にプライドを粉々にされたダステアは三日三晩ゼミの研究室に潜伏して先輩に一太刀浴びせる機会を待ち続けていたらしい。わがゼミはハーバッドを含めても三人しかいない上にフィールドワークの多いゼミであった。先輩は先月から璃月に行っているし、先生はもう半月も連絡が取れない。かく言うわたしも昨日まで砂漠にいたので、哀れなダステアは誰もいないゼミ室で一人神経をすり減らし続けていたのだ。
備え付けのコンロで、ナイフを握り締めたままのダステアに温かい紅茶を淹れて飲ませてやると、ダステアはポロポロと泣きながら先輩にされた仕打ちを滔々と喋り始めた。間あいだに憧れていたのに、とか騙された、とか、もう耳にタコができるくらい聞かされた表現とエピソードが挟まる。
わたしはもうその頃には先輩のあまりの傍若無人さにコイツ社交性をリシュボラン虎に食われたのではとか、前頭葉が煮込みすぎたカレーみたいにどろどろに溶けているんじゃないかとか思ってしまうほど虐げられていたので、正直ダステアの話は何を今更という感じだったのだが、さすがに目の前で刃傷沙汰になっては寝覚めが悪いので最後まで彼の話を聞いてやった。
とどのつまり、先輩と対等に付き合えるのは、そして先輩が対等に付き合おうと思う相手は全く分野の違う人間か本物の天才だけで、そのダステアやその他諸々の人間はそうじゃなかったというそれだけの話なのだ。わたしはダステアの話を最後まで聞き、ごく常識的で温かい言葉でもってそれを懇切丁寧に説いてやった。彼は一頻り泣いた後で紅茶を飲み干し、憑き物が落ちたような顔でナイフを置いて去っていった。そしてその後、彼はなぜかわたしに親しげに話しかけてくるようになったのだ。

そんな出来事が、学生時代に百回はあった。学者や学生はもちろんのこと、美人で有名な酒場の姉ちゃんとか、エルマイト旅団の有名なやり手の傭兵とか、金持ちの商人のおじさんとか、よくもまあそんなに方々で恨みを買えるものだと思うような人まで。まあ、それがわたしに人気があるという話の真実である。彼ら彼女らは優しいカウンセラーを慕っているのであって、別に恋愛的な意味でわたしを求めているわけじゃない。

「だからその、先輩たちの話は都市伝説というか、冗談みたいなものなんで」
「……いや、十分懸念すべき、参考になる話だった」

セノがわたしの肩を掴んだまま大真面目に頷く。というか、と言うかだ。

「セノ、外堀というのは一体」
「俺はお前が好きだ。遅くなったが七日前に自覚した。そしてこれまでの言動を検証したが、お前も、少なからず俺が好きなんじゃないかと思っている」

セノの瞳が今度こそどろりと溶けた。わたしは古い傷跡に指を突き込まれ、めちゃくちゃに掻き回されているような気分になりながらセノの手に自分の手を重ねる。

「大マハマトラに、隠し事はできませんね」

神霊の手ではないセノの腕に強く抱き締められ、頬が胸板に押し付けられる。先ほどのような抱き潰すような勢いはない抱擁の中で、壁のように硬い筋肉は分厚く温かく、その中で柔らかに鼓動が響いている。
セノの肩口で結われた髪が落ちて、さらりと耳元をくすぐる。彼の絹のような髪からは、乾いた砂と、榮域の土の匂いがした。



(原神 221114)




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