終焉 | ナノ

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宿直の部下たちに帰宅することを告げ、マハマトラの事務室を後にする。
数年前に大賢者たちの陰謀を暴き、再び教令院、そしてスメールの実質的な主導者として草神様を迎え入れてから、マハマトラの仕事環境も随分と改善された。一番の改革はシフト制が導入されたことだろう。もちろん愚かな学者たちが引き起こすトンチキな事件やスメールを脅かす悪党どもの暗躍は時も場所も選ばないが、以前のように一人のマハマトラだけが出ずっぱりで事件を追うような指令は殆ど無くなったと言っていい。

教令院に繋がる坂を降りて、ふと立ち止まる。ここの所不規則に執務室に泊まり込むことが多かったので、自宅には保存食以外の食料を置いていない。グランドバザールに立ち寄って食材を買ってもいいが、実のところ少々疲れてもいるので今から料理をするのは億劫だ。
ランバド酒場のテイクアウトだな。そう結論付けて、更に坂を下った。



「やーあ!大マハマトラ様じゃないかあ!」
「カーヴェ、大声を出すな」

入ってすぐの席で、酔っ払いに絡まれた。セノの肩に手を回しながら、カーヴェが素っ頓狂な声を上げる。それを嗜めるのは椅子に腰掛けたままのアルハイゼンだ。あの事件の後、知論派の賢者になってほしいという要請も、大賢者になって教令院を纏めてくれという悲鳴も全て一蹴した男は今も変わらず書記官の身分のままマイペースにスメールを闊歩している。カーヴェもカーヴェで天才的な設計技術を持ちながら、クシャレワーとも距離を置いて独自の芸術を極めることに邁進しているらしい。一年ほど前にカーヴェが借金を全て返し終え、同時にルームシェアも解消したと聞いたが、二人で酒を飲むくらいはまだ付き合いがあるらしい。
セノの基準に照らし合わせれば彼らは仲の良い友人なのではないかと思うのだが、本人たちは至って真面目に互いを嫌いな奴だと言うので正直セノは困惑している。いつだったかティナリにその疑問をぶつけたことがあったが、セノにはまだ難しいかもね、と言って苦笑されただけだった。セノは仲の良い相手とは懇意にしたいと思うし、嫌いな相手とは極力関わりを持ちたくないと思っている。

「もう仕事は終わったのか?時間があるなら寄っていけよ。な、それがいい!」
「いや……」

疲れているし帰りたい。言いかけたところを強引に席まで引き摺られ、あれよという間に給仕がグラスとカトラリーを持ってくる。既にテーブルにある皿は空に近かったので、カーヴェが大雑把に残っていた料理を一つの皿に纏めながら給仕に次々と新たな注文をし始めた。アルハイゼンがその合間に自分が食べたい料理をちょくちょく注文する。もうここまで来れば一頻り食べて飲むまで離してはくれないだろう。セノは諦めてテーブルの端で所在なげにしていた満杯の水差しから自分のグラスに水を注いだ。

「こんな良い日には飲むしかない!君も水なんか飲んでないでこれを飲め。オルモス港から仕入れた璃月の酒だ。かなりイケる」
「おい」

カーヴェがセノの手からグラスを引ったくり、新しいグラスになみなみと酒を注いで寄こす。セノは大マハマトラとして勤務時間外にもあまりアルコールを摂取しないようにしているのだが、酔っ払いはそんなことにはお構いなしだ。セノはとりあえず水のグラスも確保してから、薄い飴色をした酒に軽く口を付けた。

「はは、スメールの平和を守る大マハマトラ様にかんぱーい!」
「昔、後輩の論文を手伝う代わりにひと瓶譲り受けたことがあったんだ」
「あれはこいつの百年ものの古酒だったんだろう?いやあ絶品だったな」
「君に飲んで良いと言った覚えはなかったが」
「何だよ、もう昔の話だろう。そういえば、その子帰ってくるんだってな」

良かったな、とカーヴェに言われ、ああと思い至る。そういえば彼女はアルハイゼンの直接の後輩だった。彼女がダリオッシュとして遊学に出てから、もう三年になる。もちろん大マハマトラとしてダリオッシュたちの動向は大まかに把握していたが、自宅にも友人としてセノ宛に遊学を終えスメールに帰る旨の手紙が届いていた。セノはそれを、コレイが編んでプレゼントしてくれた蔓細工の箱の中に他の手紙と同じように大切に仕舞ったのだ。季節ごとに旅先から送られてくる手紙は、忙しないセノの日常の中にささやかな彩りを添えてくれる。

「これで禁欲生活ともおさらばだな」
「は?」

カーヴェがニヤニヤと笑いながらセノの胸板をぱんと叩いた。セノはこの数年で二十センチ近く背が伸びた。今ではアルハイゼンやカーヴェより頭半分ほど背が高い。弛まぬ鍛錬により、その長身に見合った逞しい体躯をしているので、たまに数奇な人間に胸筋を触らせてくれと妄言を吐かれるほどだ。
そんなセノに低い声を出されて、カーヴェが微かにたじろいだような顔をする。

「うん?恋人なんだろ?違うのか?」
「……アルハイゼン」
「適度な性欲の発散は健全な生活に欠かせないものだ」
「あ?」

今度は明確に凄んでしまった。
トンチキな発言をしたアルハイゼンは、両手でグラスを抱えたままもぐもぐとカレーシュリムプの尻尾を舐っている。よく見れば、顔色こそいつも通りにスイートフラワーの花びらより白いものの、露出している肩口から二の腕にかけてがびっくりするほどに真っ赤だった。セノは素早くテーブルの端に目を走らせる。アルハイゼン、という札がかかったキープボトルは当然として、空の酒瓶が仲良く五本肩を並べて置かれている。お前たち一体どれだけ飲んだんだ。セノはそっと水の入ったグラスをアルハイゼンの方に押しやったが、アルハイゼンは頑なに酒の入ったグラスを掴んだまま、滔々と人生における性的接触の意義について全く普段と変わらないトーンで話し続けている。猥談、と言うには温度が低いし、何より生理学的な面から見て非常に興味深すぎる論説だ。現に後ろの席に座っている学生と思しきグループが拝聴の姿勢に入っている。

「こいつ、こう見えて結婚願望がある」
「何だって?!」

カーヴェの言葉に思わず大声を出してしまった。知恵の殿堂で駄獣とキノコンがルンバを踊っていると言われた方がまだ信憑性がある。

「君も知ってるかもな。アルハイゼンの両親はスメールじゃ名の知れた学者夫婦で、母親の方が性格はともかく性質がアルハイゼンにそっくりなんだ」

可哀想なことに、アルハイゼンの母親は無自覚な天才というやつだったらしい。おっとりしていて優しく、芯の強い人格者らしいのだが、とにかく賢すぎて人の神経を逆撫でする女性なのだそうだ。本人に悪気が無いので、それもまた人の劣等感を煽る。もはや人々は彼女を神のように崇拝するか、自分の意識から抹殺するしかない……というところまで行き着いた時にアルハイゼンの父親が現れた。彼もまた優秀な学者で、母親に輪をかけて人格者であったらしい。
彼は彼女と周囲の不和を丹念に解きほぐし、その賢さでもって彼女に世界との付き合い方を教え込んだ。二人はいつしか惹かれ合い、そうしてこの男が生まれてしまった。

「アルハイゼンは賢さを以て是とする家庭で、優秀な師二人のもとで何ひとつ否定されることなく、そして過不足なく善悪と正義と道徳と倫理とを学び、個別主義と自己肯定の申し子として育った」
「ああ……うん、ああ……」

もはや頷くことしかできない。この世の中に駄獣とルンバを踊ってくれるキノコンがいればいいな、と思いながらセノはグラスの中身を煽った。

「というか、何だ、君とあの子は恋人というわけじゃないのか」
「どうしてそんな話になっているんだ」
「ええ……それは、なあ?」
「大マハマトラがビマリスタンに入り浸っている、という話は一時期教令院のトップニュースだったからな」

生理学の発表会から戻ってきたアルハイゼンがカーヴェの言葉に頷く。

「……大怪我をした友人を見舞いに行くのは普通じゃないか?」
「未だかつて無かった事だったからな。しかも相手は女性だろう。現役の教令官だったし」
「俺は総合的な判断として恋人だと思っていたが」

そういえば検証はしていなかったな、と言ってアルハイゼンがまた酒を舐める。そんなもの検証されてたまるか。

「俺と彼女は恋人じゃない」
「……なーんだ。じゃあ、彼女が帰ってきたら大変かもなあ」
「どうしてだ」
「彼女は恋人として付き合う相手の候補としてそこそこ人気があるからだ。そして今、大マハマトラの恋人として噂になっていたという箔が付いた」
「は?」

真顔のままのアルハイゼンは解説もせずにタンドリーチキンに手をつけた。確かに友人として彼女の良いところはたくさん挙げることはできる。一番は七聖召喚が強いことだが、それが世間一般ではあまり魅力にならないことはわかっていた。

「容姿、地位、財産、名誉、そして性格の面において、ハルヴァタットでは五本指に入る」
「いや、知論派は指に数えるほど若い女の子いないだろ。そもそも人もいないだろう」
「妙論派が言えた義理か?」
「あ?やるのか?」
「望むところだ」
「止めないか!」

頭半分ほど大きなセノの一喝に学者二人は瞬く間に鎮火する。砂漠のチビ、という大変遺憾な蔑称で呼ばれていた頃も威圧感には自信があったセノだ。心身共に天を衝く大男となった今、単純な制圧力でセノに敵う人類は殆どいない。

「……何だ、その、彼女が人気がある、という点について、詳しく教えてくれないか」
「お?おお……アルハイゼン、僕は今感動しているぞ……!これはもうひと瓶追加だな!ウェイター!」
「チキンももう一皿追加してくれ」

長い夜になりそうだな!と言ってカーヴェがどぼどぼとセノのグラスに酒を注ぐ。ランバド酒場の尽きることのない喧騒に、そういえば世間は週末だったなと思い至ったセノはこれからに備えて手付かずだったタフチーンの皿を引き寄せた。



(原神 221105)



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