終焉 | ナノ

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(うっかり眠ってしまった話)




ほぅわ。

声が出ないように咄嗟に唇を噛んだ自分を褒めてあげたい。寝返りを打とうとしたところで、少し毛布が重いなと感じて微睡んでいた意識が浮上する。この重さは、例えるなら毛布一枚挟んで猫が眠っている時のそれである。
現在わたしが住んでいる借家は、弱小学派に属している貧乏学者にふさわしくセキュリティがそれなりにガバガバなのだが、スコールのあった夜などはどこからともなく野良猫が入ってきてわたしの布団で暖を取っていくことがある。ある猫はどうしてもわたしの足の間で寝たいらしく、しかも毛布一枚挟んでその上で丸くなってしまうので哀れな人間は磔にされたイカのように身動ぎも許されず天を仰ぐ他ないのである。

毛布が引っ張られる似たような感触に、でもここ家じゃなくてビマリスタンだよな、と思いながらそっと目を開けると、そこに見慣れたようで見慣れない白い頭が乗っていた。セノだ。病室に備え付けの小さな輝光材の椅子に座り、腕を枕にベッドに突っ伏している。目線だけ向けたサイドボードには油紙に包まれた乾燥ナツメヤシ(アアル村の特産品で、油紙に特徴的な封蝋がしてある)が置いてあるのできっとお見舞いに寄ってくれたのだろう。
セノと仲直りしてからこちら、ビマリスタンがシティの出入り口近くにあることもあって仕事の行き帰りに顔を出してくれることが多くなった。ビマリスタンで働いているのは皆生論派の学者たちなのでセノの姿を見るたびリシュボラン虎に襲われたキノシシのような悲しみに満ちた顔をするのが申し訳ないのだが、退屈な入院生活の中でセノの存在はわたしにとって一種の光明であるので許してほしい。

日は中天を過ぎて、今は三時くらいか。生成りの、エルマイト旅団の人たちがよく着ているような丈の短いジャケットに腰帯を幾重にも巻いたハーフパンツ姿のセノは完全にオフスタイルだ。大マハマトラの貴重な休日を使ってわざわざお見舞いに来てくれたのだろう。警戒心の塊のようなセノがこんなところで寝てしまうくらいだから、きっと疲れているのだろうに。
このまま眠らせてあげたい気持ちは山々なのだが人間は長い間同じ体勢を取れるようにできていない。せめて寝返りを打ちたい。そしてあわよくばお手洗いに行きたい。しかし、ここで微かにでも身動ぎをすればきっとセノは起きてしまうだろう。でもトイレ……。
一度尿意を自覚してしまうと我慢が効かなくなってくるものだ。わたしはそっと手を伸ばして、あの時触れられなかったセノの練糸の束のような髪に触れ、そっと揺り起こそうとしたその時、セノがパチリと目を開け、ツリーカエルも真っ青の跳躍力で後方に飛び退った。まったくノーモーションのジャンプに唖然とするわたしの前でセノは狭い病室の壁にぶち当たり、その衝撃で天井の漆喰がぱらぱらと落ちてくる。廊下の方から「何だ?!」という驚いたような声が聞こえたが、それ以上にセノがもの凄い表情をしている。大きな瞳がこぼれ落ちそうなほどまん丸に見開いて、呆然とわたしの手先を見つめていた。

「あ……まさか、俺は、眠っていたのか……?」
「そ、そのようですね、ハイ……」

お互いに冷や汗をだらだらと流しながら病室の端と端で見つめ合う。昔実家で飼っていた猫が自分の寝言に驚いて飛び起きた瞬間を目撃してしまった時のようだ。あの時の猫は見られたからには確実にコイツを消さねばならぬという表情をしていた。

「背中、大丈夫ですか……」
「あ、ああ。大丈夫だ、すまない……」

セノが貼り付いていた壁から背中を離し、後ろ手に軽く漆喰を払う。元々通気性を一番に考えて作られたスメールの家の壁は脆いものだ。漆喰も経年劣化するので何年かに一回は必ず塗り替えをしなくてはならない。この病室もそろそろ塗り替え時だろう。

「あまり人前では眠らないようにしているんだ。だがいつの間にか……驚かせてすまない」
「お疲れなんじゃないですか」

何せセノは大マハマトラという重職に就いている。スメール中を歩き回り、時に国外に足を向け、思考を止めることも警戒を怠ることもできない。戦い、捕え、時に相手の命を奪うこともある。いくらセノが尋常ではない精神力を持った強靭な人間とはいえ、疲れることだってあるに決まっているのだ。

「いや……気が緩んでいたんだろう。鍛錬不足だな」

飛び退った拍子に転がった輝光材の椅子を床に置き直して座るセノを、ぽかんとした顔で見つめてしまう。気が緩むの?こんなところで?
じんわりと胃の奥の方から生まれたての生き物を見た時のような気持ちが迫り上がってくる。その言葉は、きっとセノのわたしへの信頼だろう。わたしは大怪我をしているし、キノコンくらいは追い払えても人など殺したこともないただの学者だ。間違ってもセノに傷の一つも負わせられるとは思わないが、例えそれが小さなリスであれ一定の警戒心を向けるセノが気を緩めることがあるだなんて。

ーーセノは友達。セノは友達。
自分に言い聞かせながら上半身を起こし、セノに向き合う。皆が散々忠告してきたように、マハマトラと学者が恋をしても良いことなんか一つもない。

「どこかに行くのか」
「あ、うん。お手洗いに行こうかと。すぐ戻るので待っててください。時間があったら一緒にザイトゥン桃をやっつけてほしいんですよね。先輩がやたらくれるんですが、そろそろ痛んで来そうで」

この時期のスメールは嵐の前の静けさ、という言葉がピッタリくる。何故なら二月後に教令院の一斉審査を控えているからだ。
教令院を卒業したり、卒業してから正式な学者としてそれぞれの院の在籍権を取ったり(同時に教令官としての仕事なども与えられる)、進級したりするためにはこの一斉審査で論文を発表し、優れた成績を取らなければならない。特に卒業には優以上の論文二つの提出が義務付けられているため、その難関に挑む者たちの最後の足掻きというか、散り際の大花火というか、そういった事件が起きる前の時期なのだ。
当然ハルヴァタットの学者たちも大いに忙しくしているので、怪我をした同僚に細かい事務処理の書類などを届けてくれるのは必然、学者としての籍を諦めた者か既に論文を書き上げているべらぼうに優秀な者かに限られてくる。そして病人には差し入れをするというルーティンを覚えたもののバリエーションがザイトゥン桃しかない大変優秀な先輩のせいでわたしの狭い病室には売るほどザイトゥン桃が置いてあるのだった。

「背負うか?」
「へっ?!」
「この前、木箱に躓いて転んでいただろう」

先週、暇を持て余して院内をウロウロしていた時に運び込まれた物資の箱に松葉杖をぶつけて盛大に転んだ事件だ。幸い怪我は無かったものの、セノに転ぶ瞬間をバッチリ見られた。

「あの時は肝が冷えた」
「す、すみません……」

自分の粗忽ぶりを反省していると、何を思ったのかセノが椅子から立ち上がり、 わたしの身体をひょいと担ぎ上げた。前も思ったがどんな膂力をしているんだこの人は。以前セノが大マハマトラとしての仕事で身の丈ほどもある鈍器を振り回しているのを見たが、ああいう得物で戦っていると超人的な膂力が身に付くのだろうか。

「どっちだ?」
「え?何がですか?」
「トイレ」
「……」

セノの背に負ぶわれ、ビマリスタンの廊下を行くわたしはものすごく目立ったことだろう。すれ違う人すれ違う人皆ギョッとして目を見張り、しばらくの間呆然とする者さえいた。
気持ちはわかる。わたしだって逆の立場なら振り向くくらいはするだろう。怪我人と松葉杖を抱えてビマリスタンを闊歩する大マハマトラ様などそうそう見られるものではない。

「いつも思うんだが、お前からは火の匂いがする」
「火?」

ぽつりと呟かれたセノの言葉に首を傾げる。火。古書を扱うハルヴァタットは火気厳禁だ。病室には火を扱うような器具は無いし、院内では煙草も嗜むことはできない。何なら普段愛用しているオイルやコロンは全てサウマラタ蓮の香料で統一しているのでセノの言う火の匂いとやらにはとんと心当たりが無いのだった。

「危険な香り……ということですか」
「そうじゃない」

なんだ。大人の色気でも出てきたのかと思ったのに。
わたしは目の前にあるセノの髪にそっと鼻を近付けて、静かに息を吸い込んだ。乾いた砂と榮域の土の匂い。この雨林には決して馴染むことのない、異邦の香り。

「人は、生まれた場所を離れてもそこの匂いを持ち続けるものなのかもしれませんね」

わたしは常に火と水のある場所で育ち、その気配のままこのスメールにやってきた。スメールの人々はわたしの故国ほど火と水に親しくはないが、彼らからは葉叢と黒土の匂いがする。多分、そういうものがセノの嗅覚を刺激するのだ。

「……絶やさずにいてほしいと思うよ」

セノが柔らかな声で呟いた。そうだね、あなたのその刃のような鋭さ、砂塵に撓み日に灼かれそれでもなお枝を伸ばす若木の靭さがあなたの持ち続ける匂いと共にあると言うのなら、絶やさずにいてほしいとわたしも思う。
そうやって、廊下が途切れるまでの数分をわたしたちは確かに歩いたのだった。



***



(嗜好についての話)

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マハマトラたちの事務室の前は、いつも何となく静かだ。
もちろん教令院の中では過度の私語は禁じられているし、学者や学生たちの中にも馬鹿騒ぎをするような連中はいない。そもそも学者という生き物は他者とのコミュニケーションに難のあるものなのだ。廊下を歩きながら楽しくお喋り、なんて真似ができるのは限られた才能を持つ者だけである。
見ろ、先輩を。わたしは一度だって彼と会話が弾んだことなど無いぞ。それでも先輩はハルヴァタットの雄なのである。


ーー俺はやっぱり脚派ですね!


分厚い扉の向こうから若々しい声が聞こえてくる。そういえば最近新しい駄獣が入ったという噂が流れてきていた。下品な言い方だが、まあ実際は注意喚起みたいなものなので伝えてきた相手には最低限礼儀正しく返しておいたが。
どうやら新人くんはあまり物怖じしない性質らしい。ことこの国に於いては、臆病さとは美徳である。それを何よりも知るセノが彼をマハマトラとして迎え入れたということは、新人くんにはそれを超える天賦の才が何かあるということなのだろう。


ーー若い方が柔らかくていいですね。育ちすぎてると硬くって。セノ先輩も若い方がいいと思いませんか?


お、セノも中にいるのか。時間的には丁度昼食の時間だ。いかなマハマトラと言えど食事を怠っては職務にも勤しめまい。しかし、会話の内容が筒抜けだ。
脚、若い方、柔らかくて。微妙なラインの単語に、自然と耳が大きくなってしまう。もしや、仲間内だとセノも猥談に興じたりするんだろうか。


ーーあっ、そういやセノ先輩は胸と脚ならどっち派ですか?!
ーー俺は胸だな。




……猥談だーーー!!
頭の中で鉦とドラムが鳴り響く。すげーー!大マハマトラは胸派です!いやー君も男の子だったんだねえ!!むしろその若さ(正確なところは知らないが)で脚にフェティシズムを見出していたらちょっと見方を変えていたところですよ。あ、でも砂漠地帯の人々はそこそこ脚部の露出が多いのでセノ的には見慣れているのかもしれない。やはり隠されていた方が気になってしまうよね。わかるわかる。
雷元素に当たった星茸のようにピカピカと光る"胸派"の文字を心に刻んだまま、わたしは足早にマハマトラの事務室の前を通り過ぎた。このまま男の子同士の秘密の会話を盗み聞きするのは野暮というものだ。
人差し指で鼻の下を擦りながら、資料室へ先を急ぐ。へへっ、セノくん。君が普通の男の子でお姉さんは嬉しいよ。今日は祝杯だな。






ーーという一人勝手な姉ムーブをかましていたのだが、夕方になって訪ねてきたセノ本人に昼間の猥談をかまされるとは微塵も思っていなかった。


「ええと、何て?」
「うん?お前は脚と胸ならどちらが好きか聞いたんだが」


セノは戸惑う要素があるか?という顔でこちらを見ている。目の前には温かいスメールローズティー、夕飯にはまだ早いのでお茶請けにナッツ入りざくざくクッキーを出してある。作るのも簡単だし保存も効くので週末などによく作り置く一品だ。論文の提出間際などこれだけで一週間乗り切ったこともある。
白く健康的な歯を見せてクッキーを齧るセノに、一体どういう顔をすればいいのかわからない。脚か胸か、胸か脚か。アーカーシャですらこの問題に立ち向かうことはできないかもしれない。


「脚……は、こう、引き締まってる感じがいいですよね。むっちりしてるのも捨てがたいですけど、しっかり筋肉が付いた健康的な脚が好きですね」
「脚の方が好きなのか?」
「いやっ、胸も好きですよ!柔らかいですよね、もちろんね。こう、大きさは程々でいいですけど、形がね、大事かなって」


背中に変な汗が滲んできた。何でわたしは大マハマトラと猥談に興じているんだろう。というか何故わたしに好みを聞く。わたしも立派な女であるので、それなりに胸もあれば肉の付いた太腿もある。どちらかと言えば性的な指向は異性愛だ。セノに逞しい胸板や筋張った脹脛の良さの話でもすればいいのか?変じゃないか?


「どちらでも良いと言うことか……」
「え……う、うーん、強いて、強いて言うなら、胸です……」


大きさは気にしないとか言ったが、大きいおっぱいはつい目で追ってしまうし、叶うなら一回揉んでみたくもある。今後の参考にもなるかもしれないし。


「そうか。俺も胸の方が好きなんだ」
「ぶほっ」


お茶が気管に入った。
いや聞きましたけど!盗み聞きでしたけど!


実はこのスメールにも、というかどの国のどの街にも性的接触やそれに類するサービスを行う店が無いわけではないのだ。特に人々が行き交うオルモス港やキャラバン宿駅にはそのテの店や従事する男女が多い。学生時代、同期生たちが連れ立って行ったという話もよく聞いた。……マハマトラたちは職務上素行に関する規則が厳しい。そういう店に出入りしているという噂は、今まで全く無かったのだが。もしかして、あの新人駄獣の野郎、セノに余計なことを吹き込んだんじゃあるまいな。


「セノ!」
「な、何だ?」


勢いよく立ち上がったわたしを、セノが驚いたように見上げている。わたしも立ち上がったものの言葉がない。どう言えばいいんだ、あなたは敵が多いのだから不利になるような行動は避け、口が固くて誠実なパートナーとだけ性行為をするように、だなんて。
わたしは心の中で岩王帝君に五体投地で祈りを捧げた。岩王帝君は長生きの神様だから、大抵のことには見識をお持ちだって隣の爺ちゃんも言ってたし。


「あのですね」
「確かに俺は料理が得意とは言えないが……」


ーーはい?


「だから、タフチーンに何を入れるかという話だ。俺は普段、鳥の胸肉とナッツ、それにドライフルーツを入れるんだが、シティのレシピは魚を使うだろう。馴染みのない料理を食べさせるのもどうかと思って、肉でも胸と足ならどちらが好みかも聞いたんだが。……俺の話を聞いてなかったのか?」
「すみません前半は正直あまり頭に入ってませんでした」


だって昼間あんな話聞いた後だったし!
というか、昼間の盗み聞きももしかしたら肉の話だったのか?脚ではなくて足?モモ肉?


「いつも振る舞ってもらうばかりだから、たまには俺が作ろうかと思ったんだが……何か不埒なことを考えていたようだな」
「エッ、いやそんなことはないですよ!!わ、わあー!セノの料理楽しみだなー!ナッツもフルーツも好きですよ。肉はね、やっぱり胸肉が良いなぁー!」


セノがシラを切るわたしを尋問者の目つきでじっと見ている。
心の岩王帝君に謝罪し、ついでに新人くんにも頭を下げる。冤罪をかけてごめんね。




後日、やはり声の大きい新人くんとセノの会話は他にも聞いた人間がいたらしく、少しの間マハマトラたちの性的嗜好に関する噂が教令院の中で囁かれたが、廊下にでかでかと"私語厳禁"の貼り紙が出されるに至り、七十五日を待たずに誰も口に登らせる者はいなくなったのだった。






(原神 221022)



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