終焉 | ナノ




スラサタンナ聖処に繋がる庭園の隅で、膝を抱えてぼんやりと空を見上げていた。緑色の釉薬が焼き付けられたタイルで飾られた屋根の上を瞑彩鳥の番がパタパタと飛び回っている。
こんなところに座り込んでいるのは、何も暇を持て余しているからではなく砂漠で負った大怪我のせいで下へ降りる体力が尽きた為だ。冒険者協会と三十人団、そして教令院の学者の混成チームは無事に大穴から地下遺跡に入り、特殊な鍵や権能が必要だと思われる部屋以外の殆どをマッピングすることに成功した。中でも各所に築かれたオベリスクは素晴らしい発見だった。オベリスクそのものの基準作例としての価値は疑わしいものの、碑文の中で繰り返される王の追放(樹海への追放刑が砂漠の国の繁栄を偲ばせる)、宝石の名を冠した人物と両目をくり抜かれた老爺の暗喩や、滅びたはずのトゥライトゥーラに関する後の時代の言及など、新しい発見は山ほどある。幸い生論派のメンバーがサボテンの調理に失敗して腹を下した他は調査チームの誰にも損害は無く、調査は大成功を収めたかに思えた矢先、アアル村の崖からわたしが転げて落ちた。

壁画の一つも見逃すまいと寝る間も惜しんで遺跡中を舐めるように這い回っていたものだから、慣れ親しんだアアル村に帰還した途端にアドレナリンが切れて身体が限界を迎えたのだ。高所から落っこちたわたしは片方の脚と肋骨二本、それに片手首の骨が綺麗に折れた他、全身に擦過傷、首こそ折れなかったものの脳震盪とショック症状、ついでに過労の紛れもない重症者になってしまった。アアル村に着いた時点でチームは解散することになっていたので公的な文書には死傷者なしと記録されるが、まあ普通にハルヴァタットの上層部と先輩にしこたま怒られ、ついでに何だかよくわからない噂についても賢者にもの凄く怒られた。巷ではハルヴァタットの学者がエルマイト旅団の過激派の娘と恋に落ち、その娘を争って大マハマトラと大立ち回りを繰り広げた挙句に瀕死の大怪我を負ったものの復活したキングデシェレトの力で蘇りその功績で七聖召喚の限定レアカードの絵柄になった、というトンチキな噂が流れていたらしい。まるで意味がわからないし、そもそもわたしらしき人物の性別が変わっている。お前は誰だ。

めでたく松葉杖と三角巾を手放せない身体になってしまったわたしは、ビマリスタンでも教令院で同期だった知り合いの医師にしこたま怒られて、暫くの間治療に専念するようにと釘を刺されてしまった。重たい物は持てないし遠出もできない。カフェインもアルコールもスパイスの効いた食事も禁止。何もかもを禁止され、見事に日がな空を眺めて眠るだけの木偶の坊になってしまったのだった。
しかし今のわたしにとって最も重要なことは、一つだけ。どうやってセノから逃げ切るか、ということである。

ーー大マハマトラが君を探していたよ。
艶々としたザイトゥン桃が盛られた籠を病室のサイドボードに置きながら(おそらくこれは先輩の家に居候しているという更に先輩からの配慮であろう。これまで先輩がこの様な気遣いをわたしに見せたことは一度もない)先輩が放った言葉にゾッと背筋が凍り付く。今わたしは初めて教令違反を起こした学者たちの気持ちが心の底から理解できた。
先輩が持って来てくれた傷病休暇に関する書類に手早くサインすると、別れの挨拶もそこそこにわたしは松葉杖を引っ掴んで病室を飛び出した。逃げてどうなるわけでもない。というか、本来であればセノから逃げる必要は無いのだが、どうにも凡人の目には見えないはずの雷元素をパチパチと溢れさせながら遺跡重機のように威圧感たっぷりに歩いてくる姿が脳裏にちらつくのだ。
多分、ものすごーく怒られるんじゃないか、という気がする。

この短期間のうちにあらゆる人から怒られてわたしは少し消沈していた。そのうえに大マハマトラの怒りを受け止めるのは少しばかり酷だった。逆の立場でわたしから逃げられたらその行いに対して更に怒りが沸くのはわかり切っていたのだが、それでも人は弱さゆえに目の前の問題から逃げる生き物なのだ。
幸いなことに一日経ち二日経ち、七日の間わたしはセノの顔を見なかった。いや、三日目と五日目に"また来る"という簡素なメモと良い香りのする植物の葉が病室のサイドボードに置かれていたので、お見舞いに来てくれてはいたのだ。書類上は死傷者なしでも、彼はわたしが大怪我を負ってビマリスタンに運び込まれたことを知っている。大規模な調査のその後の研究や調査員の素行の監視などはマハマトラの管轄だ。万が一にも貴重な資料の流出や発掘された古代の魔導書などによる事故が起こらないようにするためである。

早く会わなければという気持ちと、合わせる顔がない事実が風に乗って流れていく。庭師たちの手によって一分の隙もなく整えられたラザンガーデンはかつてマハールッカデヴァータのために教令院の学者たちによって捧げられ、その設計の中には幾何学の妙が織り込まれているという。
空を見上げていると、時間の流れはあっという間だ。さて、そろそろ病室に戻るか。流石に日が暮れると足元が覚束なくなってくる。これ以上どこかを怪我するのは絶対に御免被りたい。松葉杖を石畳に突き立て、よいしょと立ち上がったところでふと乾いた匂いを嗅いだ。真っ赤に燃える太陽に焼かれた砂を巻き上げる鋭い風と、石造りの地下から立ち昇る微かに湿った死にも似た匂いの混ざった懐かしさすら感じる香り。この肥沃なる黒土には決して馴染むことのない、その。

「見つけた」
「ぎゃああー!!」

真後ろから首の後ろをガッと掴まれる。親に捕まった子猫のようにわたしは身をすくめ、敵意が無いことを示すために松葉杖を手放して両手を上げた。
学者たちの間で何となくの了解になっているマハマトラに捕まった時にすべきポーズである。

「せ、セノさん、はは、こんにちは」
「こんにちは。もう日暮れだがな」

離れたところにある掲示板を見ていた学者がわたしの叫び声とセノの姿を見てギョッと目を剥いている。ああまた変な噂が流れてカジェ様に怒られるな……。

「俺があまり気の長い方ではないことは知っていると思っていたんだが」
「へ、へえ〜!」
「……残念だ。親しい友だと思っていたのは俺だけだったのか?」
「えっ、いや!そんなことはないです!セノとわたしは友達ですよ!」

それは間違いない。貴重な七聖召喚友達であり尊敬できる人だ。そこを皮肉らせてしまうのはわたしを友と呼んでくれた彼への冒涜というものだろう。

「あの、ごめんなさい。本当に……あんなに大見得を切った手前、顔を合わせ辛くてですね……」
「どうせ、そんなことだろうとは思ってた。だが、報告書にお前の名前があった時、俺がどんな気持ちだったかも考えてくれ」

セノはわたしの首から手を離し、そのまま丸太でもひっくり返すようなぞんざいさでわたしの身体をひょいと抱き上げた。どんな腕力してるんだこの人。そこそこ身長があるわたしは体重もそれなりにあるんだぞ。驚きすぎて声も出ないわたしを他所にセノはスタスタと危なげない足取りで庭園を横切り、テラス近くの植え込みの段にわたしを降ろした。そのまま跪いてわたしの服の埃を払ってくれる。
マハマトラとしての職務ではないという証なのか、街中にいるような私服姿のセノはこうして見ると至って普通の少年に見える。その赤い瞳が、夕焼けの中で揺れていた。

「怪我人に乱暴をしてすまなかった。痛むところはないか?」
「いえ、怪我は全然、大丈夫です」

むしろセノの手付きは扱いこそぞんざいだったがビマリスタンの医者より優しかった。セノは跪いたまま、わたしの入院着の裾を捲ったり包帯の位置を確認したりして報告書と実際の怪我に差異が無いか確かめている。
この時期のスメールの日暮れは長い。その降り落ちる残紅に淡く染まるセノのつむじが言いようも無いほどに美しかった。璃月に咲く霓裳花から紡いだ、その年一番の練糸の束みたいだ。わたしは思わず折れていない方の手を伸ばし、けれどその指先はセノの髪ではなく手のひらに受け止められた。

「爪が剥がれているな。報告には無かった」
「ああ、これはちょっと時間差で……当時は打撲だけだったんですけど」
「なるほど」

中指の付け根をすり、と摩られ、そのまま手を取られる。上目遣いにこちらを見つめてくる、夕焼けのように赤い瞳と目が合った。

「……落ちた時、ああこれは死ぬなって思ったんです」
「何を……」
「本来なら落下地点は地面でした。でも、落ちてる時、一瞬だったはずなんですけど色々なことが浮かんで」

でも覚えているのは一つだけだ。

「セノが悲しんでくれちゃうじゃないかって、そう思って」

あなたは優しいから、長い人生のほんのひと時一緒に過ごした女のこともきっと忘れずに背負ってしまうと思ったから。石ころ一つ分くらいの重さであろうと、長く困難な道のりを行くあなたの重石になど決してなりたくはなかった。

「だからむちゃくちゃに腕を振り回して、崖にぶち当たったんです。掴んだりできませんでしたけど、軌道が変わって運良く水辺に落ちることができた」
「……無茶をする」
「本当にごめん。そして、心配してくれてありがとう」

わたしの言葉に、セノが本当に珍しく淡く微笑んだ。
蜜蝋を塗った赤銅のような硬質な唇が、意外なほどに柔らかく歪み、白い睫毛に縁取られた瞳が優しく細められる。慄くほどに美しい少年だ。彼がいつか好ましいと言って笑った、砂漠の若木そのものではないか。砂塵に撓められ、太陽に灼かれ、夜露に濡れてもなお昂然と枝を伸ばし、葉を繁らせ、花を咲かせる。いつか、実を結ぶその日まで。

「セノ、」
「ビマリスタンとハルヴァタットには申請済みだが、お前の治療と回復訓練が終わり次第、マハマトラ式機能回復訓練を受けてもらうことにした」
「はい?!」

マハマトラ式機能回復訓練。もう字面からして恐ろしさしか感じない。いくらわたしが健全な知識が健全な肉体に宿った知論派の学者だとしても、半戦闘職種であるマハマトラの訓練に付いていけるとは絶対に思わないが。

「監督は俺がする」
「し、職権濫用では?!」
「大マハマトラが訓練の監督をするのは当たり前のことだ。そしてマハマトラ以外に訓練を課してはいけないという規則もない」
「合法なんですか……」
「怪我をするのが心配なのはどうしようもないが、あまりにひどいなら心配になる要因を減らせばいいと教えを受けたんだ。つまり、お前を強くすればいい。ティナリの知恵だ」

ティナリさん!!
ほとんど接点はないが存在は知っているアビディアの森のレンジャー長に恨みの念波を飛ばしながら心なしか喜んでいるようなセノの無表情を見つめる。わたしも先輩みたいなタル爆弾ボディになってしまったらどうしよう……。

「大丈夫だ。必ず怪我をする前より強くなれる」

何の安心もできないセノの励ましが心に痛い。いや、確かに強くなって損はない。砂漠では力と知識こそが全て。それに、きちんと訓練を受ければあのセノの美しい微笑みがもう一度くらい見られるかもしれない。

「お手柔らかにお願いします……」


セノの訓練は精神と肉体の限界を攻めてくるだろうというわたしの予感は当たり、心に多大なトラウマを抱えたがわたしの筋力と体力は大幅に向上した。セノは心なしか満足そうな顔をしていた。
そして後日、ハルヴァタットの学者と大マハマトラがエルマイト旅団の娘を取り合っていたのではなく実はエルマイト旅団の男と大マハマトラが学者の方を取り合っていて、学者が砂漠に攫われたのを取り返してきた大マハマトラがラザンガーデンでズバイルシアターの演目顔負けのロマンチックな告白をしているところを見た、という噂が教令院を駆け巡った。わたしは賢者カジェにこれ以上ハルヴァタットを妙な噂に巻き込むなとお叱りを受けたあと、少しだけ心配そうにマハマトラと学者の恋は茨の道だぞというお言葉を頂いた。そして教令院お忍びデートスポット十選なるメモを渡されたので、稲妻の古代遺跡から出土した焼き物の人形のような顔をしてしまったのだが、それもまた今は知らぬ話である。



(原神 221011)



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