終焉 | ナノ




「王手です」
「参りました……」


扇子の影でにっこりと笑う綾華さまに賞品のおまんじゅうを差し出す。神里家のお姫様、将棋も囲碁も強すぎなんだよな。


「ではお義姉さまには私のおまんじゅうを差し上げますね」
「えっ、それじゃ罰ゲームになりませんよ」
「お菓子は二人で食べた方が美味しいものです」


白鷺の姫君はやはり心まで美しいのだ。わたしは綾華様の優しさに感動しながらうちではお奉行様への贈り物としてしか使わない城下の老舗菓子舗の茶まんじゅうを頬張った。あんこが大変に上品でございます。
手のひらに握り込んでしまえるサイズのまんじゅうを小鳥のように慎ましやかに啄む綾華様は、これぞ本物の姫君、というある種の貫禄さえ感じさせる。
そんな綾華様に義姉、と呼ばれるようになることに血道を上げているお嬢さんお姉さん方が方々にいることはわたしも知っていた。何せ社奉行神里家の綾華様の義姉になるということは若様改めご当主神里綾人様の妻になるということだ。権力、金、顔のいい夫の三拍子揃った神里家の妻の座は野心溢れる虎のような女性たちの前に吊るされた血の滴る生肉も同然である。


「お義姉さま?」
「えっ?あ、いや、おまんじゅう美味しいなって思って」
「ええ、とっても」


綾華様の笑顔が眩しい。
まさか人生で白鷺の姫君に義姉と呼ばれる日が来るとは、全くほんのこれっぽっちも思っていなかった。そもそもうちは元は社奉行の麾下とはいえ、今は勘定奉行の預かり、ということになっている家なのだ。


話は二百年前に遡る。
当時稲妻では鳴神大社の社殿の改修が大きな問題となっていた。建立から数百有余年、社殿の木材がかなり傷み始めていたのである。
鳴神大社は鳴神島で最も高い影向山の頂上に立つ社だ。山の上に建材を運ぶだけでも膨大なお金がかかるし、材も一級のものを揃えなくてはならない。他にも職人の手配や給与の計算、維持費に管理費、諸々の行事神事祈祷の調整、宮司様との折衝など、膨大な仕事が当時の社奉行と勘定奉行にのしかかってきた。
当時の慣習では、奉行同士は先触れを出して手紙のやり取りをし、お互いに三通以上の書簡をもって互いの意思を確認するというやんごとなき方々特有のクソみたいに物々しい連絡方法を用いていたので社殿の改修は一向に進展しなかった。あまりに間怠っこしいやり取りに嫌気が差したのが当時の社奉行様である。さすが綾人様のご先祖といったところか、神里家の配下の家一つをポーンと勘定奉行に貸し出したのだ。
その家を通じて帳簿は全て管理され、二奉行のやり取りはスムーズかつシームレスに行われるようになった。社の改修は大成功、宮司様もにっこり、将軍様もにっこり、お奉行様たちもにっこりで終わったのだが、貸し出された家はそうはならなかった。


膨大な帳簿の整理が全然終わらなかったのだ。
何せ、鳴神大社建立当時の帳簿から何から、全て修復し朱筆を入れ、今回の改修のやり取りを全て記録せよという命令が神里家から下されたのだ。たしかにそれは今後の稲妻にとってもの凄く大事な資料になるには違いなかったが、一朝一夕で終わる話では全くない。
実に二百年、我々一族は帳簿の整理に明け暮れてきた。所属は社奉行神里家でありながら、給与は勘定奉行柊家から頂くというわけのわからない状態のまま、我が家は柊家の蔵で紙魚を友として今日まで続いている。


そんなこんなでどっちつかず、コウモリのようにひっそりと生きてきた我が家に、突然神里家の有能で有名な家司様が訪ねておいでになったのはまさに晴天の霹靂というやつだった。稲妻だけに。
見紛うはずもない椿の御紋ーー何せ我が家はその枝葉である自負をもって椿の葉を紋としているーーの入った書簡、文末の印章は紛れもない当主の御印であり、これが社奉行御自らお書きになられたものであることは間違いない。そしてそれは、我が家の娘と婚約したいという、もの凄く格式高いラブレターだったのだ。
そして我が家に現在、ご当主様に釣り合う年齢の娘はわたししかいなかった。というか書簡にバッチリわたしの名前が書かれていた。
父は卒倒し、兄は泡を吹き、わたしは仰向けにぶっ倒れたが、我が家で最も肝の据わった母が何とか返信を家司様に託した。婉曲極まりないお断りの手紙である。
何せうちと社奉行神里家では全くこれっぽっちも家格が釣り合わない。三奉行のご当主といえば将軍様を除けば稲妻の最高権力者といって差し支えない人だ。そんな人の妻になるには、幼い頃からの精進と教育が必要だった。わたしにはそのどちらもない。苦労しかない結婚生活に娘を送り出すほど、うちの両親は人間を捨てていなかったのだ。感謝しきりである。が。


家司様が我が家を発って二日、神里家からものすごく高価そうな結納の品が届いた。その品に遅れること数刻、額に汗した家司様が引き返してきて手違いで結納品が先に届いてしまったと詫びてくれたが、これを突き返すことはもの凄く無礼に当たるし、神里家の評判をも落としてしまいかねない事態であることに変わりはない。我が家の全員がわざとだ、と思い至ったが、哀れなことに誰一人その罠に抗う術を持っていなかった。
その後あれよと言う間にわたしの住まいは神里屋敷に移され、綾人様の婚約者として特に何をするでもない日々を送っている。


思うに、わたしは囮なのだ。
先だっての鎖国令の一件では天領、勘定奉行共に不祥事を起こし、今や正当な当主を立てて安定しているのは社奉行のみという現状、周りの人々が注目するのはもちろん綾人様、そしてその先行きである。先代の神里家のご当主が亡くなられてから、綾人様は想像を絶する苦労を味われた。今までは憚って声がけを控えていた人たちも、ここぞとばかりに神里家に自分をアピールし始めたことだろう。
もちろん、仲人としての自分を、である。


その点、わたしの家は家格こそ低いものの勘定奉行に一定のパイプがあるし、元は社奉行の麾下だ。鳴神大社の帳簿の整理という、うちの家にしかできない事業があるのもポイントが高い。
つまり、他の家の娘を薦める口実が作りにくく、適度に歴史があって、それでいて他の怖いお家の敵にならない家の妙齢の娘。ドンピシャでわたしである。
おそらく一年くらい婚約していればぬるっと婚約が解消され、ご当主肝入りの誠実な殿方を紹介され晴れてこの屋敷を出ていける、多分そういうことだ。そう思えば納得もいく。心も軽い。暇を持て余しているので、放置されているらしかった書き物の整理などをする余裕もできた。


「綾華様が強すぎて正規の対戦じゃ勝負になりませんね……将棋崩しでもしますか」
「まあ、呼び捨ててくださいと何度もお伝えしていますのに」
「ええ〜……」


殿上人を呼び捨てにできるほど肝の据わった女ではない。というか綾人様の目論見通りに婚約解消になればこうやって差し向かいに座ることもできない身分だ。
綾華様は優しいので暇を持て余した女ともこうやって遊んでくれるが、本来ならば綾人様と同じか、主だった行事に奉行代理として参加されるためにそれ以上に忙しい身であるはずなのだ。


「ところで、お兄様はお義姉様のところにお寄りになられましたか?」
「あー……そうですね、お会いしました」
「まあ!どんなお話をされたのですか?」
「スメールの猫のミイラの話です」
「……はい?」
「スメールの猫のミイラの話をしましたね」


あれは久々に全く意図の読めない会話だった。古代スメールの砂漠地帯に住んだ人々には独特の慣習があり、遺体を薬品処理して乾燥させ、ミイラというものにして葬るらしいのだが、その辺りの遺跡でヒトではなく猫のミイラが見つかったという話だった。
綾人様は忙しい人なので、神里屋敷にいてもほとんど会う機会がない。わたしが書類整理のために書庫に引きこもっているというのも多分にあるが、週に一、二回程度食事を共にし、婚約者との仲を深めるためという名目で月に一、二回夜寝る前に白湯を飲みながら半刻ほど話をするくらいが精々である。ちなみに婚前交渉の禁止は徹底されている。当然だね。
綾人様は非常に頭の回転が速いうえに博識かつやんごとない人々特有の婉曲表現に長けておられるので、話していると綾人様の一挙手一投足に疑心暗鬼になってしまう。寝る前に無駄に悩みたくないわたしは、ひたすら自分のことを喋るという解決策を思いついた。綾人様も自分が話すより聞く方が好きだと言っていたので好都合である。そんなこんなで聞き役になってくれることの多い綾人様が先日急にお話になられたのが猫のミイラの話題だった。
どうやら猫は一緒に発見された人のミイラの生前の飼い猫であったらしい。では副葬品として殉死させられたのかといえばそういうわけでもない。猫は寿命で、飼い主よりも先に死んだのだ。


ーーその調査レポートには、愛故に、と簡潔に書かれていましたけれど、どうでしょう。
ーーどう、とは?
ーー古代スメール人がミイラというものを作ったのは、来世に魂が宿る身体を取っておくためだったそうです。その猫の飼い主は、生まれ変わっても永劫、変わることなく猫を側に置いておきたかったのでしょうね。


この稲妻において永遠とは特別な意味を持つ言葉だ。永遠に飼い猫を、死んでも離さず自分の側に。


呆れ果てた執着だ、とわたしは思った。


猫は言葉を話せない。想いが一方通行だったらどうするのだ。人間の勝手な都合で、来世もまた来世も一緒にいなければならないなんて不幸すぎる。
しかし、綾人様にどうでしょう?と問われて思ったことをそのまま口に出すのは愚の骨頂である。取るべき手はただ一つ。一般論でお茶を濁した後にさりげなく話を逸らす、だ。
わたしはこうしてまたひと月を生き延びた。


「そうですか……わかりました」
「……何がです?」
「お義姉さまは知らなくても良いことです」


あ、はい。
こういうきっぱりしたところは兄妹よく似ている。綾人様がわたしのようなどっちつかずの家門の婚約者を求めたのは、多分綾華様のためでもあるだろう。社奉行の地位の安定とか、そういうくだらないものには目もくれず、もしかしたら外国人とか、そういう綾華様のやりたいことをまず優先する相手を探すのだと思う。
お姫様のこの笑顔が曇ってしまうのは、たしかに何よりも耐え難いものな……。


「ところで、頂き物の水菓子があるのですがもう一局いかがですか?将棋崩し……というもの、やってみたいのですが……
「やりましょう」


はにかむ綾華様超かわいい。遠くモンドにはアイドルという文化があるそうだが、うちの綾華様ならすぐ人気者間違いなしだ。前にぶろまいど、なる胡乱な輩の提案をトーマ様がさっぱり斬って捨てたという話を聞いたが、神里屋敷での生活の記念に一枚くらい撮ってくれないだろうか。絶対どこにも出さないから。


「ふふ、王手」
「将棋崩しに王手は無いんですよ……参りました」


実に十点差での敗北であった。






***






「若、お嬢から苦情が来てますよ」
「綾華から?」
「ミイラの話は全然ときめきませんお兄様、とのことです」


天領、勘定、配下、寺社宛てに選り分けられた書類に延々と認め印を押すつまらない仕事の最中だった。機密が多すぎて人任せにもできないし、本当につまらない。
隣で朱肉を練ったり印が乾いた書類を整理したりしていたトーマが思い出したように呟いたのも、綾人の顔にはっきりと飽きたと書いてあったからだろう。半分寝ながらでもできる仕事は、くだらないお喋りにぴったりだ。


「綾華と彼女は随分と仲が良いようだね。いや、綾華が彼女を気に入っているのか
「若奥様は裏表のない人ですからね」


トーマの言には語弊がある。彼女は決して素直な人ではないし、天真爛漫とか、阿呆だとかそういうわけでもない。そう、彼女は、たとえばその生態や性格を知り尽くした、獣みたいな。
何をすれば喜び、何をすれば甘え、何をすれば怒る。その全てを知り尽くした、愛玩動物みたいな女。自分もトーマも、博愛と公平の化身と名高いが紛うことなく神里家の血を引く綾華も、ああいった手合いを手懐けるのは呼吸をするよりも簡単だ。あの女は、絶対に、一手先を裏切らない。
そういう相手に惹かれてしまうのは、長い間古狸共の権謀術数に晒されてきた者の業みたいなものだ。何をしでかすかわからない者は楽しく、その存在は喜ばしい。だがそれは強者を相手取る時の高揚に過ぎず、安らぎや慈愛とは全く別の感情だ。檻に入れられた手負いの狸か、腹を見せるまで懐き切った愛玩犬の前でしか安堵できない心が確かに自分達の中にはある。


「そういえば、彼女が整理していた資料はどうなった?」
「若、一言で申し上げるなら、ヤバイ、です」
「はい?」


有能な家司が乱れた言葉を使うのは珍しい。


「あの魔境と呼ばれた南の蔵がこのひと月で全部片付いたんですよ!ここ百年の記録は全部朱筆が入りましたし、目録も!ほら!」
「ん……ふふ、ふふふ」
「若?」


稲妻では珍しい翠色の瞳を輝かせてトーマが言い募るのに、思わず笑ってしまった。


「ふふ、トーマ、あの狸爺たちの顔が浮かぶようじゃないか?何だったか、一芸に秀でた者が神里家の奥に相応しい、だったかな」


トーマの顔がしん、と曇った。神里家の麾下にある家は数あるが、一枚岩とはお世辞にも言い難い。件の台詞は、綾人の代替わりの際にも何かと難癖をつけてきた一派の代表格が彼女本人に投げつけた言葉だ。
彼女はいつものように無気力にも見えるぼんやりした表情を崩さずに「ああ〜確かにそうですねえ」などと相槌を打っていた。


「彼女が筆を入れた蔵の記録五十年分をひと月で検算したら屋敷に上げてやる、って言ってみようかな」
「令嬢ご本人が?」
「父親に手伝わせてもいいよ。狸の手も借りたいだろうからね」


本当に二人だけで検算を終わらせたなら評価を考え直してもいい。決して神里家の奥の敷居は跨がせないが。


「……ところで若、ミイラの話って何です?」
「……」


微笑んだまま質問に答えない綾人に、トーマがじっとりとした視線を送る。


「若奥様は猫じゃありませんよ」
「私は犬派だよ、トーマ」


けれど、犬はきっと喜んで一緒の墓に入ってくれるだろう。
朱泥で汚れた印璽を目線の高さに掲げる。元は璃月の文化である印章は今でこそ稲妻全土に普及し各家に公的身分の証明として存在しているが、真に価値ある印章は神である大御所様が創り今もお持ちである御璽、そして手ずから下賜した三奉行の印のみである。御抱鍛治に三種の貴金属で腐ることのない合金を作らせ、これに永遠と須臾の証として雷獣を彫り込んだこの世に二つとない神器とも呼べる品だ。
この印の無い書類は、例え当主直筆と雖も公的には効力を持たず、顧みられることもない。印章は当主の身分を明らかにするものであり、それ自体が非常に価値を持つ。
この印一つで、供に墓に入ってくれる犬がどれだけいることか。


「彼女に訊ねてみたかったんだ。猫は……猫は何のためなら、永遠に死人に寄り添おうと思うのか」
「それで、若奥様は何と?」
「猫は何も考えていないだろうから、美味い餌でも墓穴に放り込んでおけばいいと言っていたよ。嫌になったら、どんな隙間もすり抜けて出ていくのが猫だそうだ」
「確かに。猫は液体ですからね」


トーマは尤もらしく頷き、主人の手からサッと印璽を取り上げて柔らかい布で汚れを拭う。少なくとも、こんな硬いだけの金属じゃ猫の興味は引けはしないだろう。
だが悲観することはない。目新しい料理や斬新な味を探すのは大の得意だ。永遠というものが一瞬の積み重ねであることを、稲妻人は他の国の誰よりも理解している。
何かを察して身震いをしている有能な家司を横目に、綾人はすっかり処理を終えた紙束を無造作に広蓋の中に放り込んだ。


居心地のいい棺を作ろう。真綿の布団や柔らかな布を敷き詰めて。楽園ではないが、他で眠るよりは良いと思ってもらえるように。満腹にとろとろと微睡む猫を抱えて、妹も、この臣であり友である男も、家人たちも、誰も連れては行けない深い深い穴の底で、神の手さえ届かぬ榮域の果てで、独り永遠の夢さえも見られるだろう。


「……一言、若奥様に愛しているって言えば良いだけのような気がしますけどね」
「それはモンド流かい、トーマ」


家司はうっすらと微笑んだまま、書類の入った広蓋を胸に抱え上げた。立ち上がり様にすっかり片付いた文机の上にコトリと飴を一つ置く。何の変哲もない、花柄の油紙に包まれたべっこう飴だ。


「若。案外、猫はありふれたものが好きなんですよ」
「……覚えておくとしよう」






(原神 220828)



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -