終焉 | ナノ




璃月に古くからあるという組織を、俗に"天権の目"と呼ぶ。

この大陸屈指の貿易港である璃月港には、海から陸から多種多様な商品、そして行商人が出入りする。"天権の目"は行商の中に混じって璃月各地を周り、世界を周り、様々な情報を当世の天権のために集める、まさに"目"そのものだ、という。まあ、噂である。

天衝山の中腹に程近い、璃月港を一目で見渡せるお気に入りの草原はそこそこ険しい場所にあるために人気も無く、風が元素や瘴気を飛ばすのか小さな獣の他には魔物やヒルチャールの気配もない、絶好の休憩スポットだ。ここでなら、璃月の誰もが知る銀杏と明るい琥珀をあしらった玉佩を片手に弄んでいても誰も見咎める者もいない。
実に訪れるのは三月ぶりになる璃月の街からは、遠い喧騒がかすかに風に乗って流れてくる。屋台の掛け声、肉の脂の匂い、潮風に当たった木と錆びた鉄、異国の埃を纏った数々の積荷と子供たちの笑い声。
永遠の主人と信じた太陽が去っても、今日も瑠璃の月は美しく輝いている。

神が去ったという事実は目に見えないが、璃月はもう一つ太陽を失った。空を見上げれば、昼も夜もそこにあった天空の楼閣もそこには無い。神の死に居合わせることの出来なかったわたしは、岩王帝君の死よりも魔神を屠るために群玉閣が落ちたという報せに衝撃を受けた。
"天権の目"は当世の天権を中心とした諜報組織のように語られるのが常だが、その実そこそこ目端のきく行商人が五人ばかりのお茶飲み仲間みたいなものだ。普段は普通の商いをし、人が揃えば天権のもとに赴いて世間話をする。例えば軽策荘のリンゴの木が数本枯れただとか、西風騎士団がヒルチャール討伐に力を入れているだとか、そういう類の話だ。天権はそこから何某かの情報を拾い上げるのだろうが、"目"である本人たちには問題の大きさが壮大すぎてわからない。わからないが、天権にとってこの世間話が有用であることは確かなのだ。その証として、当世の天権は"目"に玉佩を渡す。この玉佩を持つ限り、我々は"天権の目"だと、それだけの話なのである。

わたしが父から"天権の目"を継いだのは病のために父の脚が萎えたからであった。十数年前のあの日、わたしは怯えながら浮石の階段を昇り、天上に浮かぶ決して広いとは言えない部屋の中で凝光さま本人からこの玉佩を頂いたのだ。
それから訪れる度に群玉閣はその規模を増し、ついには太陽さえも隠すほどの大きさになったと言うのに。ああ、あの美しい楼閣はもうこの世のどこにも存在しないのだ。魔神と共に海の底に消えて、人々を守るために英雄のように消えてしまった。


微かに清心の花が香る風が岩山の間を吹き抜けていく。
風向きが変わったのだ。さて、もう発たねば。すっかり異国の風に晒されて、それでも璃月で生まれ育ったこの身だ。神が去り、群玉閣が消えて、それでも璃月はわたしの街なのだ。これから璃月は目に見えて変わっていくだろう。ひと月、ふた月と旅から帰れば、その度に失われまた新しくなった璃月を悲しくも愛しくも思うだろうが、それは決して悪いことではない気がしていた。
いつか、この地を去った神々にも瑠璃の月の光が届くといい。そしてこの美しい宝玉を手放したことを地団駄を踏んで悔やむ日が来ればいい。そのための一歩だ。


その瞬間に、空気を切り裂いて放たれた矢がわたしの右肩を貫いた。
突然の出来事に呼吸が止まり、痛みを感じる間も無く地に伏せる。狙撃された。辺りに人の気配は無く、ヒルチャールや宝盗団の弩ではこの遠距離を正確に撃ち抜くことはできない。それにただの行商を襲うのならば単独で狙撃をするような真似はしないだろう。
草むらを転がり、岩陰に体を押し込む。鏃を残して矢柄を折り捨て、その上を破いた袖で強く縛った。幸いにも鏃は深く傷口にめり込んでおり、出血は少ない。戦うか、逃げるか。呼吸と共に戻ってきた痛みに脳みそを揺さぶられながら考える。もう少し降りれば千岩軍の詰所があるはずだ。そこまで行ければこの玉佩があるかぎり彼らが助けてくれるだろう。
よし、逃げる。踏み出そうとした瞬間に背中に衝撃が走った。重たいものが落ちてきたような衝撃は、とんでもなく遠いところから飛んできた人間の姿をしている。上質な布地の灰色の衣装、鈍い赤の外套飾りが閃く赤髪青眼の男。

「んん?不審な岩元素の痕跡があるっていうから来てみたら……人違いだったかな?ごめんね」
「ぐ、」

急所に膝を乗せたまま快活に男が笑う。ファデュイの執行官第十一位「公子」。
七星の麾下にあって、その名を知らない者はいない男だ。璃月にスネージナヤが銀行を開いたその日から、常駐するようになった執行官と各地に散らばるファデュイの情報は我々の間に遍く知れ渡った。"天権の目"のような、顔のない者が決して関わってはいけない男だ。
わたしは「公子」を睨みつける代わりに、精一杯怯えたような顔を作って見せた。

「お、お金なら渡しますから、お助けを」
「はは、俺は物盗りじゃないよ。そして……君も、ただの行商じゃない」

ちり、と天権の玉佩が男の手の中で澄んだ音を立てた。くそ、いつの間に取られた。
目の前に掲げられた手に向かって、転げた時に手の中に隠しておいた小石を弾き出す。肉を裂くほどの威力は無いが、意表は突けたらしい。眼前に落ちてきた玉佩を右手で掴み、体の下に隠した。

「指弾!璃月古来の武術だね?いや、護身術、暗殺術と言うべきか。……ああ、思い出したよ。君、一度北国銀行へ来ただろう?何とかって商会の、おどおどした息子の付き人をしてた。隙のない身のこなしだとは思ったけど、まさか天権の手下だったとはね」
「随分といい記憶力をお持ちで……」
「強そうなやつは忘れないことにしてるんだ」

にっこりと好青年のような笑みを浮かべる男は、服の留め金に仕込んだ寸鉄を取ろうとしたわたしの左手を容赦なく掴み上げ、力任せに背中へと捻り取る。男の膝に背中から肺を潰されているわたしは、カエルのように唸ることしかできない。

「天権も考えたな。この石、岩元素で作られた石だろう?君たちが死んだ時の保険だね。金細工は高価だからコソ泥だろうが強盗だろうが誰かがこの玉佩を市場に出せば必ず璃月に辿り着く。もしどこかで君たちが野垂れ死んでも元素力を操れる者がいれば深い谷底からだってこの石を見つけ出すだろうね」

天権は君たちの死を惜しんでいるんだね、と男が憐れむように呟く。
彼らの主人、忠義を捧げるべき主君は神である。この世に降り立った七柱の神にとって人類は愛すべき存在だが、決して彼らは個を愛しているわけではない。男もまた、神にとっては最愛の一であり、取るに足らぬ全なのだ。神はこの男の死を惜しまない。

「は、あは、可哀想に。お前の神はお前の死を憐れむぞ」

喘鳴の混じる嘲りに、男が微笑みを崩さないまま指先でわたしの目元をなぞった。荒れた指先だ。剣を握る指の節々が硬く盛り上がり、短く整えられた爪先と指の腹には細かい傷跡が無数に付いている。まだこの手が柔らかな子供のものだった頃、霜焼けやあかぎれに傷付いては治り、治っては傷付きを繰り返した、消えない烙印のような雪国の子供の手だった。
剣の柄にささくれ、血糊に染まった今も、その傷が消えるはずもない。

戦って戦って、そうして生きてきた男の手。

「わたしは、お前とは、戦わない」

スネージナヤの神は、この世の平和を求めている。
平和を望む者は、常に戦いに備えなくてはならない。神がファデュイを使ってどのような平和を求めているのかは知らないが、それが武力に依り、犠牲を伴い、誰かの涙の上に立つものなら、この男にも女皇の世界に居場所があるのだろう。
手足千切れ飛んで、首だけになってもまだ刃を咥えて戦場に飛び込んでいくような男だ。太平の世で、存在しない戦う相手のために牙を研ぎ続けることができるような男ではない。戦場の中、数多の血を吸って咲く大輪の徒花。実を結ばす、根付きもせず、平和のぬるま湯の中で枯れ落ちていくだけの。

「女皇は、お前を憐れんで、それだけだ」
「おしゃべりはもうお終いだ」

男の指が頚椎にかかる直前に、渾身の力で肩の関節を外す。男にはわたしの体が蛇のように撓んだように思えただろう。咄嗟に武器を探った腕の中から抜け出し、崖へと転がるように駆け出した。
そう。ここは天衝山。天京に届くかというほどの高い山が生み出す、深い深い谷の底からでも、この石がきっとわたしの死をあの人に知らせてくれる。

「はは、次に会うのはあの世かな!」

風を切って落ちて行くわたしの耳にざわめきのような男の声が届く。多分お前が行くのは地獄だよ。そしてわたしもまだ、そこへは行けない。

ボフ、と背中で草スライムが弾ける音を聞きながら、意識は痛みと共に闇の中へ落ちて行く。目覚めるまでに雨が降らなければいいのだが。



(原神 220203)



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