終焉 | ナノ




「すんません、先生。でもこいつのこと心配で……本当に大丈夫なんですか」
「大丈夫ですよ、一郎くん。彼女は今一時的に脳にダメージを受けて、記憶が混乱しているだけですから」

膝の上で大きな手がギュッとわたしの手を握りしめる。手がでかい。体もでかい。おそるおそる隣に座る男の人を見上げると、安心させるようにニカッと明るい笑顔を返された。誰だ。誰なんだ貴方は。いや顔だけは知っている。何せ彼は有名人なので。
困惑して目の前の、これまた有名人の顔をじっと見つめる。神宮寺寂雷先生。このシンジュク界隈では知らない人など居ない、奇跡の天才医師だ。神宮寺先生は全てわかっている、という風に大らかに頷いて、隣に座る男性に顔を向けた。

「一郎くん、医者として彼女にお話があります。すぐに呼びますから、少しだけ席を外してもらえますか」
「俺が居たら、ダメなんですか……でも、その」
「一郎くん」

神宮寺先生の有無を言わせぬ声に、男性が本当に渋々と言った風に立ち上がり、何度もこちらを見ながら診察室から出て行った。完全に扉が閉まったのを確認して、神宮寺先生がスッと表情を変える。

「まずはご協力ありがとうございます。患者がパニックになるのが一番良くないのでね。再度確認させてもらいますが、彼……山田一郎くんとは初対面で間違いありませんね」
「あ、はあ……。あの、向こうはわたしの事知らないと思うんですけど、わたしの方は顔と名前くらいは存じてます」
「……私達は知名度が高いですからね。ご理解の通り、患者である山田一郎くんはヒプノシスマイクの影響下にあります。ヒプノシスマイクについてはご存知ですか?」
「政府のホームページくらいは見ましたが……」

ディビジョンラップバトルのホームページからリンクしてある、『よくわかるヒプノシスマイク』という政府のマスコットキャラクターが紹介してくれるページである。わたしの言葉に神宮寺先生は軽く頷いた。

「ヒプノシスマイクは、一種の音響兵器です」

先の戦争から、日本でその言葉を聞くことは殆ど無くなっている。ギョッとするわたしに構わず、神宮寺先生は穏やかに話し始めた。

「音が振動であるというのは、ご存知ですね。耳が音波を捉え、脳がそれを理解する。音響兵器とは本来その振動を以って脳にダメージを与えたり、物体が持つ固有の振動に共鳴させて物体を破壊したりするものです。ヒプノシスマイクは声の音波を変換し、聴神経に作用することで脳に様々な状態をもたらす。ヒプノシスマイクによる音波振動で最も効果があるのは歌です」
「歌……」
「その昔、人々にとって音楽が身近ではなかった頃、オペラを観劇するだけで気絶する人たちが居たように、民謡や讃美歌、子守唄などもそうですね。音楽には人の感情に作用する大きな力があるのです。ですが、ヒプノシスマイクによる歌は指向しない」

神宮寺先生が手元のメモ用紙に一つ大きな円を描いた。

「ヒプノシスマイクの影響を指向させるためにヒプノシススピーカーがあり、歌ではなくラップが選ばれました。元からヒップホップにはMCバトルという対人対戦文化がありましたからね。これでヒプノシスマイクは周囲を全て攻撃する爆弾ではなく、殺傷、破壊する対象を選べる兵器になりました」

円の中心から放射状に線を二本引き、その間をトン、とペン先で叩く。

「MCバトルは理性と知性の戦いです。どれだけ韻を踏めるか、節回しは魅力的か、アンサーになっているか……。ラップは高度な言葉遊びであり、一瞬の閃きや積み重ねた経験、蓄えた語彙をぶつけ合う、謂わば互いの人生を掛けた戦いなのです。その人生の厚みに圧倒された方が膝を折る。敗北感や絶望感におそわれた脳はヒプノシスマイクの影響を受けやすくなります」
「はあ、なるほど……」
「……つまり、ラップバトル中は自我を前面に押し出している状態なわけです。ヒプノシスマイクによるダメージは、その自我を突き抜けて脳に届く。自我、自己、自意識、そういった強固なシールドを、ただ壊してしまえば廃人になりかねない。正規のヒプノシスマイクにはリミッターが組み込まれていますが、今回一郎くんに使われたヒプノシスマイクはリミッターの無い違法マイクでした。現在の一郎くんは、自己を守るために本能の一部……彼の根本とも言える部分が肥大化し、記憶と認識の一部に異常が出ている状態です」

トトン、とメモ用紙をペン先がリズミカルに叩く。嫌な予感に冷や汗を掻くわたしとは対照的に、神宮寺先生は幼い子供を労るような、何だか稚い、愛らしいものを見るような顔で微笑んだ。

「己が傷付いても他者を守ろうとする……一郎くん、彼は本当に好ましい青年です」

ドタドタドタ、と騒がしい足音が廊下から響いてくる。いち兄!兄ちゃん!という大声と、静かにしろっ、という叱責、そしてドゴッという重たい、おそらく鉄拳制裁の音が相次いで外から聞こえてきた。神宮寺先生が笑いながら一郎くん、と外に向かって呼びかける。
開いたドアの向こうに、画面越しでしか見たことのない顔が三つ並んでいて軽く目眩がした。

「あの、うるさくしてすんません。それで、寂雷さん、こいつの……妹の具合は大丈夫なんですか」

目玉が落っこちてしまいそうなほど目を剥いて、弟二人が山田一郎を見て、それからわたしに目を向ける。当たり前だ。わたしは三人の誰とも面識が無いし、ましてや血縁者などでは全く無い。

「ええ。ただ暫くは記憶が混乱していると思いますので、無理はしないように。もう連れ帰っても大丈夫ですよ」
「はい?!」
「そうっすか!よかった!」

ニッコリ笑う山田一郎と対照的に、わたしと弟二人の顔はどんどん青ざめていく。何考えてんだこの医者。



***



「つまり、いち兄は今違法マイクの影響でこの女性を自分の双子の妹だと思い込んでいる、というわけですか」
「ええ、その通りです。ダメージの回復には凡そ二ヶ月はかかるでしょう。その間、一郎くんの脳に負担を与えないように注意して生活してください。彼女の職場には私の方から事情を説明しておきますので。くれぐれも、一郎くんの思い込みを真っ向から否定してはいけませんよ」

神宮寺先生の話を三郎くんはものの見事に纏めてみせた。一郎さんが一階の受付でわたしのだと思い込んでいる、自分の退院手続きを取っている間の短い説明で全容を飲み込んだのは流石神童の誉高きと言ったところだろうか。

「あの、お兄さんには危ないところを助けて頂きまして、本当にありがたくも、申し訳ないといいますか……」
「どうやら一郎くんは違法マイクを持った賊に襲われていたようでね」

仕事であるパン屋の配達中、裏路地から怒鳴り声と聞き覚えのあるキン、という甲高い起動音が聞こえてきた。不穏な気配にスマホで警察に繋ぎ、おそるおそる様子を見に行ってしまったのが良くなかったのだ。たしかに多勢に無勢、暴漢の群れに一人が囲まれているように見えたのだが、囲まれていたのはか弱い一般人ではなくイケブクロディビジョン代表、伝説のラッパーの一人であり間違いなくイケブクロ最強の男MC.BBこと山田一郎だったのだ。おそらくわたしの介入が無ければ山田一郎は恙なく暴漢たちを一人残らず伸していたはずで、わたしを庇って違法マイクの攻撃も食らわずに済んだはずなのである。

「……とりあえず、事情はわかった。でもどーすんだよ、兄貴はこの人を連れて帰る気満々だけど、実際ウチにこの人の部屋はねーし、それに良くねえだろ、若い女が男ばかりの家にいるのは」
「二郎……」

三郎くんが二郎くんをちょっとぽかんとして眺めている。帽子のつばを下げた二郎くんは睨むようにして神宮寺先生を見つめていた。

「一郎くんも、無意識下では彼女が他人であることを理解しています。状況に合わせてズレを修正していこうとする筈ですから、彼の望むように、言動を擦り合わせてください。アドリブが大事ですよ。ところで、一郎くんが戻る前に彼女を紹介しておきますね」
「あっハイ、あの、山田さん方のことは存じております。というか、住まいはシンジュクなんですが勤めがイケブクロでして、東口のふくろうベーカリーで製造と販売を……」
「えっ、ふくろうベーカリーって〇〇ビルの並びだよな」
「あ、ご存知でしたか」
「時々昼メシ買いに寄るぜ。ピザのやつとか美味いよな〜!」
「本当ですか〜!実はあれはわたしが考えたんですよ!喜んでもらえたなら嬉しいです」
「二郎!」

三郎くんの声に二郎くんがハッとしたように表情を引き締める。わたしも釣られて口を引き結んだ。あまり馴れ馴れしくするのは良くない。わかっているのだがパンを褒められるとつい嬉しくなってしまう。というか買いに来ていたのか。朝から昼にかけては焼成のピークなのでホールに出る余裕が全く無いのだ。イケブクロには彼らがチームとして活動している時以外はなるべくそっとしておく、という暗黙の了解みたいなものがあるので、ホールスタッフの間でもあまり話題に上げなかったのだろう。

「今のところ、暴漢に襲われたのは彼女、ということにしてあります。巻き込まれた形ですが間違いでは無いのでね。被害届も出してありますし、二ヶ月の間萬屋ヤマダに護衛を依頼した、という設定にしておけば対外的には納得してもらえるでしょう。そうだ、就業中の災難ですので労災が下りるそうですよ。よかったですね」

神宮寺先生が労るように微笑んだ。渋面を作る三郎くんの後ろで、診察室のドアが静かに勢いよくという離れ業で開き、喜色満面の一郎さんが現れた。

「さ、手続きも終わったし、帰ろうぜ!」



***



「ごめんなー。お前が一人暮らしを始めてから、部屋片付けて俺のスペース広くしちまったんだ。客間とかも無えし、どうすっかな」

馬鹿でかいスニーカーをきちんと玄関に揃えて、一郎さんがわたしの手から荷物を取り上げた。
ちなみに違法マイクに当てられて言動がおかしくなってから一郎さんは丸一日眠っていたので、その間に神宮寺先生に用意させられたお泊まりセットである。どうやら一郎さんの中では自分の部屋をわたしとシェアしていたという設定になっているらしい。

「あの、土間でも三和土でも、どこでも寝れますんで……」

今日のところはソファか何かを貸してもらって、明日からはどんな理由をこじつけても自分のアパートに帰れるようにしよう。そういう趣旨の発言だったが、三者三様に何言ってんだコイツ、という顔をされてしまった。
一郎さんは床なんかで眠らせるわけがないだろう、という顔。二郎くんはドマとタタキって何だという顔。三郎くんはイケブクロのど真ん中に建つビルに土間も三和土もあるわけないだろう、という顔である。
しおしおと萎れるわたしに構わず、一郎さんが三郎くんをじっと見つめて、深く頷いた。

「三郎、今日は兄ちゃんと一緒に寝るか」
「はあ?!」
「い、いち兄?!」

ボボッ、と火でも着いたように三郎くんの顔が赤く染まる。大声を出したのは二郎くんだ。

「俺たちが一緒に寝れば、どっちかのベッドが空くだろ。三郎が姉ちゃんと一緒に寝るんでもいいけどなあ……いや良くねえか?」
「い、いやいやいや?!とんでもない!あの、事務所のソファとか、そんなんで、いいです!!」

わたしには兄弟がいないので距離感が謎すぎる。というかそもそも他人だし、同衾はよくない。一郎さんが正気に戻った時のためにも。
そもわたしは一郎さんの双子の妹、という認識らしいが、成人済みの真っ当な二十五歳であるからして、三郎くんと一緒に寝たりなどしたら淫行罪で逮捕される振る舞いである。前科者には絶対になりたくない。

「ははっ、焦りすぎだろ。てか、もっと砕けていいんだぜ。覚えてないかも知れねぇけど、俺たち、家族なんだから」
「う、う〜〜ん」

二郎くんと三郎くんが思いっきり微妙な顔をしている。公式プロフィールや彼らの経歴から察するに、彼らにとって"家族"という言葉は係累であるという以上の特別な意味をもつに違いないのだ。申し訳なさと罪悪感で自分の眉尻がどんどん下がっていくのを感じた。他人が土足で踏み入っていい領域ではない。特に、こんなに懸命に生きて、戦っている子供たちの心には。

「…………兄貴、……ね、姉ちゃん。とりあえず、飯、食おうぜ。俺、腹減った」
「そういや、もう昼だな!悪かったな、お前ら。学校休ましちまって」
「別にいいよ。今日は体育もねーし、むしろ得だった」

さっさと部屋の中に入ってしまった二人をぼうっと見ていると、後ろから上着の裾をちょい、と引かれた。振り返ると、眉を顰めた三郎くんがいかめしく頷く。

「僕たち、あなたが思っているよりずっと、場数を踏んでます。いつまでも子供じゃいられないことも、もう知ってる。二郎は……何も考えてないかもしれないけど、勘は働く奴ですから。あなたが悪い人じゃないのは、その顔を見ればわかりますし。二ヶ月の間、いち兄のために協力してください。お願いします、姉さん」

ひどい怪我の傷跡に残った、新しい瘡蓋を見るような顔でそんなことを言う。このしなやかで、美しくて、強靭な子供の前で、ただのほほんと生きてきたわたしは情けない顔で頷く他無かったのだ。








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