終焉 | ナノ




裏書きもない、薄っすらと青みがかった上質な紙の封筒は彼女の短く整えられた爪には似合わないほどに草臥れ、端は歪んで、風に当たりでもしたのか紙そのものが緩やかに波打っていた。
差し出すことのできなかった手紙だ、とポストマンの勘が告げる。それはおそらく別れの手紙だろう。この田舎町でも、ほんの数年前までその類の手紙は引きも切らなかった。息子が、娘が、夫が、孫が、戦争で死んだ。もう二度と戻らないと、そう悟った時の顔を一体何度見ただろう。その手紙を届けた人々も一人去り二人去り、老人たちだけが取り残された町に彼女が越してきてもう一年になる。ああ、この人も残された人だったのだ。迷うように動いた視線は、助けを求めているようだった。

「ちょうど、休憩の時間なんです。コーヒーを一杯、頂いても?」
「ええ、……もちろん」

山間のこの町に一軒だけの喫茶店は、元は老夫婦が経営していた住民たちの憩いの場だった。そのうちご主人が亡くなり、奥さんだけで続けていたものの昨年に脚を悪くして、手伝いにと声を上げたのが彼女であったらしい。気楽な女二人暮らしなのだと笑っていた老婦人は、午後には奥に下がってしまう。磨き込まれたカウンターの向こうでコーヒーを淹れる彼女の手付きは流れるように美しかった。

「どうぞ」

いただきます、と軽く頭を下げてコーヒーカップに口を付ける。
実のところ、コーヒーの味の良し悪しはわからない。丁寧に炒られた豆と淹れる時の優しい手付きに、良いものなのだろうと思うくらいだ。彼女は飴色のカウンターに手紙を横たえたまま、そちらを見ようともしない。

「リリーですね」

彼女が目を見開いてこちらを見る。ひどく驚かせてしまったようだが、彼女はすぐに落ち着きを取り戻した。

「フランスの、老舗のメーカーのレターセットですよ。ほら、あすこは百合の紋章をよく使いますでしょう。"レジナ・メウム"と銘打って、そこのメーカーが毎年百合をモチーフにしたレターセットを販売するのです。この"リリー"は発売こそ昔のものですが、紙そのものの美しさで今でも人気のセットです」
「そう……そんな洒落たもの、使うような子じゃなかったのに」

あの子、と呟いた声は淋しいほどに乾いていた。ずっと何年も取っておいた、花束のような声だった。
彼女はヨコハマ・ディヴィジョンからやってきたのだという。かつて隆盛を誇った貿易港の街は、今は港湾労働者ではなくその昔東京と呼ばれた地域からあぶれた人々が暮らしている。H歴になり、人口過密都市であった東京は更に地価を上げ、人を呑み込み、ひとつの大きな怪物のようになってしまった。しかもこの怪物は老いている。
夢を抱いて、やっとの思いで地方ディヴィジョンからやってきた若者たちを際限なく食い散らかし、醜く代謝し、何もかも奪い取っては排泄するように棄てる。老醜を晒し、延命のために何本ものチューブに繋がれて、それでもまだ過去の虚飾を白粉のように塗りたくった、そんな悍ましい怪物に吐き出された、搾りかすの人々が辿り着くところ。

「私は、私とあの子は、中王区へ行きたかったんです」

世界は女に残酷なのではない。弱者に残酷なのだ。
夢などという甘いものは初めから持ってはいなかった。この世界の優しさは全て強いもののためにあるのだと知っていた。ただ、あの街へ行けば、この何もない、辛いだけの場所から抜け出せば今よりはましな自分でいられると知っているだけだった。そのために故郷を飛び出した時の、泥水の中に落ちると知っていながら殻を破るひしゃげた鶏のヒナのような気持ちを、夢と形容するならそれはなんと切ないものだろう。

行政の支配力の強い旧東京都エリアから外れ、外国人や反社会勢力に属する人間の多いヨコハマの街では、独特の価値観と文化が育まれつつある。今ではもう殆ど他のディビジョンでは軒を見ることが無くなった男性向けの風俗店街があり、銀座で営業していたような高級クラブが丸ごと移ってきていたりもする。東都が女とH歴の行政を受け入れた男たちの街ならば、ヨコハマは男と、H歴に置いて行かれた女たちの街だった。



ーー全部潰して、やり直さなきゃいけないんです。

みなとみらいにある遊園地の観覧車、その頂上から夜景を見下ろしてあの子はそう言った。
封建的な価値観の家で育ったのだと言う。父親は長男を後継ぎとして溺愛し、母親に自我はなく、妹は常に兄の添え物だった。絵に描いたような中産階級の、家父長制の残る家庭。全てが変わったのは兄が戦争に取られて行方不明になり、H歴になって男性に重い税が課されるようになってからだった。父親は頑として長男の死を認めず、届出もしなかった。その時から、多分どこかが人として壊れてしまったのだ。
少しでも節税する方法は幾らでもある。それでも父親は控除制度を一切利用しなかった。それらが全て、書面の上でだけでも女性が男性の優位に立つように作られた制度だったからだ。世界は容赦なく変わっていく。仕事でも思うように昇進できず、また変化する職場環境に馴染めず、金銭面でも追い込まれつつあった父親は身近な"女"にその憎悪と憤りをぶつけるようになった。自分の妻と娘に、だ。母親もまた、H歴に置いて行かれた女だった。家の中のことしか知らず、夫の言うことには全て従い、娘にもそれを強いた。

ーー兄の部屋で、父が勉強机に縋って身も世もなく泣き叫ぶんです。学生だった兄を無理やり戦争に行かせたのは父なのに。頬骨が折れるくらい殴られても、母はそんな父を見てお辛いのだから私たちが我慢しなくちゃって言うんです。とっくに兄は死んでる。死体が無いだけで、認識票だって届けられているんだから。
女に何がわかる、女のくせに、お前が男だったら、兄の代わりにお前が死ねばよかったって喚く父の汚い泣き顔と、母の、恥ずかしげもない分厚いゴム袋みたいな被害者面を見るたびに、わたし、早くこの人たちをH歴から消してあげなきゃならないって思ってた。
ねえ、リリーさん。全部潰して、本当に真っさらなところから始めたら、女とか男とか、こんな汚い街だって、きっと全部無くなって、辛いことなんか絶対に無いと思わない?

そう呟くあの子の視線の先には、遊園地のステージで際どい衣装を着て踊っている年若い男の子たちがいた。ひと昔前は、あのステージではビキニを着た女の子たちが踊っていたのだ。男も女も何も変わらない。腹いせのようにステージに熱狂する女たちを見下ろしながら、あの子は疲れたように微笑んだ。
どんなに地位が向上しても、男に縋らなければ生きていけない女はいる。そして女に縋らなければ生きていけない男も。それは性別の違いではなく、人種の違いだ。同じことを繰り返す。何度も、何度も。
本当はこの子にもわかっているのだ。壁を壊すことなどできない。人々を変えることなどできない。全部真っさらになどできるわけがない。
だから私たちは中王区に行きたかった。壁の中に囲われて、外の世界をもう二度と見られなくともいい。むしろ、見なくともいい、外を知って苦しまなくていいと誰かに言って欲しかったのだ。

ーー逃げてんじゃねェよ。

不意に、地を這うような低い声が耳に蘇る。
日常的に他人を恫喝するような、大声を張り上げている人間の声だ。間近で聞けば思わず竦んでしまうようなその声にも、あの子は真っ直ぐに張り合っていた。男に怒鳴られることにも、暴力を振るわれることにも慣れている子だった。

ーーテメエの父親はクソだが、母親もクソだ。知らねえ様だから教えてやるが、テメエのそれは戦ってるワケじゃねえよ。逃げてんだ。ただひたすら見たくねェモンから目を背けて、これで良いんだって必死で言い聞かせてんだわ。やってることが親と一緒だなァ?

中王区へ行くために、使える伝手は全て辿った。市民権を得るためには、報奨制度を利用するのが一番早い。固く禁止されている銃器売買の顧客リストの入手を打診してきたのは行政監察局の人間であった。渡された小型のスキミング装置をレースの手袋の中に隠し、あの子がダークグリーンのスーツを着た男に近付く。
ヨコハマの中でも老舗のクラブ、それも極道という自称を好んで使う組が贔屓にしているクラブの女に交渉を持ちかけたのは、もちろん中王区側も打算あってのことだろう。クラブ側ももしもこんな不祥事が顧客に起こってしまえばタダでは済まないので、ホステスの入店時には戸籍まで調べられるし、素行の監視も厳しい。スパイを送り込むのが難しいのならば、中の人間をスパイに仕立てるのが手っ取り早い。お互いの安全のためにわざわざホステスには高い給料を払っているというのに、明日には物理的に首が飛んでしまうかもしれない支配人には哀れだ。でも、もうそんなことも考えずに済む。もう少し、もう少しで。
男のウイスキー好みを聞きながらお酒を作る間に、あの子がジャケットのポケットの辺りにそっと手を翳す。円形に作られたソファは上手く視界を遮ってくれるし、男は話に夢中になっている。スキミングに必要な時間は五分程度だとエージェントの女は言っていた。五分経ったら、手を滑らせたふりをして酒を絨毯にこぼす。タオルを取ってくると言って、あの子が席を外した時に奥で装置を端末に繋げばそれでお終い。

息の詰まるような四分、残り三十秒を切ったところで、あの子が目を見開いた。スキミングが終わると微かに振動するようになっている。素早い目配せに、グラスを持つ手を緩めようとした時だった。

ーーお楽しみ中悪いが、そのリスト渡してもらうぜ。

鋭い緊張がさざめきのように店内に広がる。ソファの背もたれの後ろから男の胸を捉えた手からは艶消しのガンメタルが覗いており、見ようによっては親しげな振る舞いにすら見えるのが一種奇妙だった。
一昔前のアメリカで女性が護身用に持ち歩いていた、ハンドバッグに隠してしまえる様なコンパクトガンは闖入者の手にはあまりにも小さく、オモチャのようにすら見える。
スーツの男から、奇妙なチチチ、という音が鳴り始めた。震えている。歯の根が合わず、軽い歯軋りのようになっているのだ。背後の男はハンドガンを押し付けたまま、反対の手でゆっくりとスーツの肩を叩いた。震える手がポケットを探り、ケースに入ったデータチップを取り出す。チップを受け取った男は、微かにハンドガンを持った手を引いた。店内の緊張が僅かに緩む。

瞬間、響いた爆音に誰もが身を竦めた。
撃った。この、H歴の、こんな街中で、人のたくさんいる、クラブの中で、法で固く、固く禁じられた銃を。
微かなアンモニア臭を嗅ぎ取ったと同時に、誰かに手首を掴まれてソファから引き剥がされる。あの子だ。ヒールが毛足の長い絨毯に食い込んで走りにくい。二人で駆け出した私たちを、ホステスやボーイたちが緩慢な目の動きだけで追う気配がした。ああ、なんだか運動会みたいね。随分と剣呑なスターターピストルだったけれど。
地面が硬ければ、ヒールで走ることなど雑作もない。スタッフルームへ駆け込み、一纏めにしてあった荷物を掴んで手を繋いだまま裏口へ駆け出す。どちらともなく私たちはきゃらきゃらと笑い声を上げていた。まるで、何も恐れることを知らない少女のように。悲しみも痛みもない幸福な子供のように。

そんな時代は、私たちのどちらにもありはしなかったというのに。


裏口を出て、タクシーに乗るために角を曲がろうとした瞬間に繋いだ手をぐ、と引かれた。
あの子が咄嗟に手を開いた拍子に、手袋がするりと抜けて装置ごと私の手の中に残る。あの子の手を引いたのは、片手にハンドガンを持った男だった。この界隈で、その名を知らない者などいない。

ーーブツを渡してくれりゃいい。テメエらに傷付けたい訳じゃねェんだ。大事な店のオンナだしな。

あの子の手首を掴んだまま、碧棺左馬刻は極めて事務的にそう言い放った。裏路地の消えかけたネオンライトに照らされて、無表情の整った顔には不気味な陰影が浮いている。人を人とも思わない、いや、人が人でなくなる瞬間を知っている人間の顔だった。知性はあっても理性を持たない、群れを作る恐竜のような表情でこちらを推し量っている。

ーー嫌だ。絶対に。
ーー……何でだ。ここは悪い職場じゃ無ェだろ。身体売らせてるわけじゃねえし、金払いも良い。客はまあ、俺は全て把握してる訳じゃねえが回らせてる組のモンの見る目は確かだ。クソ野郎は弾かせてる。一体何が気に入らねえ。

諭すような男の声は先程より幾らか温度があった。聞き分けの悪い子供を諭す親のような、ぞっとするような温度が。

ーーわたし達は中王区に行きたい。それだけ。
ーーそれで、俺様のシマでコソコソスパイ女と会ってたってワケか?

ぐ、とあの子が顔を歪ませた。知られていた。何もかも。もしかすれば、あの中王区のエージェントはもう正気ではいないかもしれない。では、この手の中のリストはどうなる。
掴まれた手を支点に、あの子がさりげなく男と私の間に身を滑らせた。銃の軌道に立ち塞がるようにして、男を睨み付ける。

ーーなァ、聞かしちゃくんねェか。何でそんなに中王区に行きてえのかをよ。こんなご時世だ。銃なんて野暮なモン、俺様が普段使ってねえのは知ってんだろ。"言葉が力を持つ時代"なんだからよ。

撃鉄を軽く弾きながら、男が薄っすらと笑う。

ーーお前の親、死んでるだろ。長男は作戦行動中行方不明者、MIAってヤツだな。父親が母親と娘巻き込んでの家族心中、生き残ったのはお前だけだ。母親は同意だったんだってな。懇々と?娘諭して?オトーサマと死んであげてってか?
ーー……全部、全部壊さなきゃいけなかった。馬鹿みたいに凝り固まった父親の価値観も、夫に頼らなくても生きていけるようになったのにそれを知ろうともしない母親の自意識も、潰して、徹底的に壊して、そうしたら……。だから、わたし達は望む世界に一番近い場所に行くの。一緒に、戦うの。戦って、やり直したいだけ!
ーーあの壁の向こうからか?なァ、お前。

逃げてんじゃねェよ。
男はそう言って、あの子の手を引き、弄ぶようにしていたハンドガンを握らせた。男の手にはオモチャのように見えたコンパクトガンも、あの子の手の中では凶悪なその質量をいやになるほど主張している。ゆっくりとあの子の指が引き鉄にかかり、銃口がゆるゆると持ち上がる。
黒いフライトジャケットの襟と見るからに上質な青いシルクシャツの間、心臓のある左胸へ。自分が握らせた銃に心臓を狙われても、男は嘲笑うような笑みを浮かべたまま悠然と立っていた。

不恰好に銃を構えたあの子に向けて、逃げよう、お願いだから一緒に逃げて、と声にならない声で願う。その横顔が震えながら泣いているのは、恐ろしい武器なんかを持たされているから。これから誰かを傷付けてしまうかもしれないから。ねえ、お願い。そうなのでしょう。私のことを忘れて、あんなヤクザ者の言葉に心動かされたからではないのでしょう。じっと燻っていた、憤ろしい思いに火を付けられて、怒りに燃えているからではないのでしょう。
やっとのことで音になったのは、あの子の名前だけだった。

ーーリリーさん。

涙でぐちゃぐちゃになった、ネオンライトを反射して不可思議な色の瞳が寄る辺ない子供のようにふにゃりと歪む。

ーー行って。

あの子がそう言った瞬間に男の手が蛇のようにしなり、震える手から銃をもぎ取った。粗いコンクリートの壁に、男の左手があの子の右手を押し付ける。やめて、と叫ぶ間もなく、何の躊躇もなく男は自分の手の甲ごとあの子の右手を撃ち抜いた。
パッと飛び散った血の赤と、衝撃に崩れたコンクリートの欠片がやけにゆっくりと地面に落ちる。銃声は記憶に無い。あの子の引き攣れたような呼吸音と、餞別だ、やる。と確かにそう言った男の声だけが鮮明だった。

走っても、もう笑うことはできない。あんなに胸を満たしていた幸福感は底冷えするような闇に吸い込まれて、もう二度と浮かんでくることはなかった。



どこか遠くで霧笛の音がする。
霞がかったぼんやりとした視界の中で、顧客リストと引き換えに中王区の居住許可証を渡される。相手は見たことのない女だった。渡された許可証は二枚。私が一人でやって来たことにエージェントは何も言わなかった。顛末を既に知っているのか、女ひとりの行方など元から瑣末事だというのか。
霧笛の音だけが、何万年も前に滅びた生き物の悲しい叫びのように港にこだましている。既に死に絶えた同胞を探して、叫び続ける。この港街がある限り、霧笛は鳴り止まない。



結局、彼女は中王区には行かなかった。
海から遠く離れた、緑と土埃ばかりのこの町でコーヒーを淹れて暮らしている。

「この字、あの子の字じゃないんです。似せてあるけど、所々歪んでる。……誰が、誰が書いたのだか」

彼女の指が表書きをなぞる。寄せては返すさざ波のように、何度も。この店の住所と、彼女の本名、そして旧い切手。ここの所郵送料は値上がりを続けている。八十二円切手の下に、二円切手が二枚。
出そうとして、長い間出せなかった、別れの手紙。

「……これ、ここの所が掠れていますでしょう。左手で、書かれたのではありませんか?」

彼女は言葉もなく封筒を撫で続けている。空になったコーヒーカップの横に一杯分の代金と、もう一つの配達物を置いた。政府の新しい催し、テリトリーバトルと名付けられたイベントの開催のお知らせだった。

きっと、明日からもこの世界は何も変わらない。自分は郵便物を配達し、彼女はコーヒーを淹れ、そうやって生きていく。どこか遠いところで起こる革命の、霧笛のような声と過去のさざめきに耳を寄せながら、それでも壁の向こうではなく、誰も彼女のことをリリーとは呼ばない遠いこの町で。



BGM:横浜リリー(ヒプノシスマイク 210505)



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