終焉 | ナノ




背後に感じる人の気配で目が覚めた。
元から他人と同衾して熟睡できる性質ではないので妙に背中のあたりが硬っているが、まあ睡眠としては及第点だろう。ベッドヘッドに散らばっているガラクタの中から携帯を探し出して時間を確認する。二徹しかけて倒れ込むように寝たのが午前三時、毎朝の起床時間を覚えている正確無比な自分の体内時計に舌打ちしながらゴソゴソと掛布の中に潜り込んだ。二度寝してやる。

「あれ、寝てしまうんですか」
「ヘルベチカ……」

夏の終わりのニューシーグ、朝方は特に冷える。掛布のほとんどを奪い取ってミノ虫のようになっているヘルベチカからせめてタオルケットの一枚でも取り戻そうと布地を引っ張ってみるが、巨大ミノ虫はびくともしない。
彼らの依頼で超特急で仕事を仕上げてやったというのにひどい仕打ちである。
全世界のアスリートが一位を競うスポーツ大会の優勝トロフィーに爆弾が仕掛けられるという大規模テロに絡んだ政治家の汚職事件の被害を未然に防ぐため、彼らはトロフィーを予め偽物にすり替えておく作戦を思い付いたらしい。そのために下手をすると鋳造されてから百年以上は経っているかもしれないトロフィーの偽造を依頼されたのだ。女神ニケの像が乗った金メッキのブロンズトロフィーはもちろん鋳型など残っているはずもなく、スケアクロウがスキャンした3Dデータと膨大な数の写真から複製していく作業は馬鹿みたいに大変であった。そもそも鋳造品を冷ますのに一日かかるのだ。原型取り、型作り、鋳造、粗取り、研磨、メッキ、古び加工、傷や色味の再現、イミテーションの宝石の象嵌に殆ど飲まず食わずで丸三日。もちろん徹夜である。

「シャワー……はキツい。浴びたいけど……でもとかく寝たい……」
「確かに。今シャワーを浴びたらヒートショックを起こすかもしれませんし」

ミノの中からじろじろとわたしの顔を見てヘルベチカが笑う。隈か、隈を見ているのか。
隣のミノをぼすっと軽く叩くと、着ていたヨレヨレのシャツからぽろぽろと切り屑が落ちた。らせん状の切削屑は冷たい金属の色をして、何より尖っている。しばらく無言で二人その切り屑を見つめた後、ヘルベチカが呆れたように口を開いた。

「シャワーはともかく、着替えてシーツを替えませんか」
「そーする……」

ずるずるとベッドから這い出し、ランドリーの山から清潔なシャツを引っ張り出した。それをベッドサイドの椅子に引っ掛け、着ているシャツを脱ぎにかかる。
上から順番にボタンを外し、肩の動きだけで布地を払い落とした。後ろ手に手を回し、ブラジャーのホックを外す。肩を後ろに回す動作でシャツを、前に回す動作でブラジャーを。必要最低限の動きで服を脱ぐのは物臭な性格が極めた職人技だ。
わたしのゆるやかな脱皮を、ヘルベチカが温度のない目でじっと見つめている。

「その傷痕、本当に消してしまう気は無いんですか」

ヘルベチカの見つめているわたしの腰の辺りには、ナイフで刺された傷跡がある。見ず知らずの男に刺された傷だ。死にかけの、IDすら売り払って身寄りどころか身元さえ不確かな男。わたしが刺された時、男は女の名前を叫んでいた。

「やっぱり目立つ?」
「いえ。もうほとんど薄れかけていますけど、皮膚の変色は完全には馴染みませんから」

男は末期の癌を患っており、痛み止めのモルヒネを濫用したことによる中毒症状に侵されていたのだ。重度の譫妄状態にあるとして精神鑑定のために勾留されている最中に死んだ。男の身元はついにわからず、被疑者死亡のまま法的な手続きは終わってしまったらしい。
この世に男の生きた痕跡は、不起訴処分に終わった事件の記録とわたしの腰に残った薄れかけた傷跡だけになってしまった。

名前もわからない、どんな顔をしていたのかも思い出せない、消えてしまった男。わたしを誰かと間違えて刺し殺そうとした男。それが男の妻だったのか、娘だったのか、母だったのか、今となってはもうわからない。ナイフで刺したいほどに憎んだ理由も。

「中世の聖像に似てると思ったんだよね」
「はい?」
「西ローマ帝国の滅亡からルネサンス期までの中世ヨーロッパを、俗に暗黒時代と呼ぶんだけど」

さりさりと襟元から落ちる砂を払い、シーツの上の金屑も手箒で床に落とす。
長きに渡りキリスト教を弾圧してきたローマ帝国もついに最後には国教としてこれを認め、そうしてやって来た西ローマ帝国の滅亡は即ち、キリスト教の隆盛を意味していた。偶像を認めず、華美を認めず、民衆の啓蒙を認めなかったキリスト教の広まりと工芸分野に秀でたゲルマン民族の台頭は黄金で飾られた聖像を生み出したが、その姿はヒトの体をこそ美の真髄とした古代ギリシアのデッサンとは似ても似つかないデフォルメされた姿だった。

「古代ギリシア人は神はヒトのかたちをしていると信じていた。中世にキリスト教を信じた人々の救い主は最初からヒトのかたちをしていたけれど、それじゃダメだったんだよね。直立して、無表情で、アートスクールの先生に見せたらきっと笑われてしまうようなあのガタガタのデッサンが、あの頃の彼らの救いだった。肉感も情緒も必要なかった。神は厳しくあるべきだった」
「……それが、あなたの傷と何の関係があるんです」
「過剰なデフォルメは個性の埋没だからね」
「没個性化されたあなたの女性性が、その傷の原因だとでも言うんですか。あの男があなたに神を見たと」

ヘルベチカが心底嫌そうに眉を顰めた。
誰にでもなれる、人を誰にでもできる稀有な男。その実、心底から誰でもないことを恐れる男。
ヘルベチカの視線を遮るようにシャツを羽織り、袖を通し、見せ付けるように上から一つずつボタンを留めていく。洗い晒しの生成りの布地が、誰でもないまま死んでしまった男の最期の傷を覆い隠す。

「消してしまいたい?……それとも、もっとひどい傷を残したい?」

口をついて出た酷い問いかけに、ヘルベチカが少しだけ呆気にとられたような顔をする。
当たり前だ。こんな、まるでヘルベチカがわたしの傷に怒っているような。

「あなた、大分疲れてますね」
「……そうかもしれない」

無感情な声は医療従事者のそれだった。全ての命を平等に見る神の声。わたしは恥じ入って項垂れ、シーツの上に腰を下ろした。
ヘルベチカの瞳は麦芽で作った飴の色をしている。琥珀色だと言った人もいたが、白目との境界の曖昧な揺らぐような色彩はあの柔らかくて甘い飴の色が一番に似合う。恥じ入るわたしを慰めるようにすっとその瞳が細められた。

「あなたはあなたです。僕が僕であるように。そしてあなたにその傷を負わせた男にとっても、あなたはあなたでしかない」

ヘルベチカが白い指先を宙を舞う蝶のように揺らしながら手を伸ばし、シャツに包まれたわたしの背に触れた。ずるずるとなぞるように指が降りて腰の辺り、傷の上をグッと掴まれる。

「だから、腹が立つ」

丸く整えられたヘルベチカの指先が傷跡の薄い皮膚をシャツ越しに引っ掻いて滑っていく。愛撫と言うには暴力的なそれに寝不足の頭の奥で赤いものが閃いた。

「残念ながら、神の救いなんて求めてないんです。ナイフなんか使わずに、銃でぶち抜いてあげますよ」
「ふ、ふふ。ヘルベチカも、だいぶ疲れてるね」

ケタケタと笑い声を上げるわたしを、ヘルベチカがにこやかに眺めている。わたしはヘルベチカの指先をつまみ、皮膚に食い込んだ爪を更に強く押し付けた。薄い皮膚が撓み、やがて耐え切れずにあっさりと裂ける。滲む血の色はいつだって鮮やかだ。

「これはね、予約。その時になったら、きっとぶち抜いてね」
「何も無かったことには、させませんから。クレームは付けないでくださいよ」

奇跡の腕に誰が文句を言えよう。
わたしをわたしのまま殺してくれる、誰でもない男の指先に敬虔な信徒のように口付けを落とした。窓辺から差す旭日が、ヘルベチカの肌に白く反射する。薄い色の瞳が暈けて、輪郭すら曖昧だ。姿なきその姿を恍惚と見上げる。きっとあの男も最期にこの景色を見ただろうと思いながら。



(BUSTAFELLOWS 210325)



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