終焉 | ナノ




「ボイジャーのゴールデンレコード?」

小首を傾げたネロの動きに合わせてグラスの氷がカロンと音を立てた。カウンターを挟んだその向かいでシャイロックも少し目を見開いている。この世界にレコードが存在するのか知らないが、これこれこういう物だと身振りと適当な解説で説明すれば思い当たるものがあったらしく、シャイロックが軽く頷いた。

「それにですね、わたしの世界のことを記録して、宇宙船ボイジャー号に乗せて銀河の果てまで飛ばしたわけです」
「その、銀河ってのは」
「ええと、こう、月の更に向こう、……うーん、わたし達の世界では太陽を中心として太陽系というものを構成してまして……」

行儀悪くグラスのふちに滑る水を指に取り、キッチンのカウンターに九つの点を打つ。

「太陽がグラスだとしたら、それぞれの惑星の位置はこんな感じです」
「すげえな。アンタの世界にはそれを全部見た魔法使いがいたのか」

ネロが素直に驚嘆の声を上げた。かすかに眉を顰めていたシャイロックが苦笑して天板を指で叩く。

「ネロ、賢者様たちの世界に魔法使いはいませんよ。けれど、まあ、異界の宇宙だなんて。あなた、それをどうかムルには教えないで。あの人にこれ以上焦がれるものが出来たらもうこの世界の手には負えませんから」

シャイロックの言葉にネロが決まり悪そうに後頭部の結い目の下を掻いた。わたしも曖昧に笑ってグラスの中の酒を舐める。
わたしがこの世界に落ちてきて、既に二年が経った。わたしを拾った南の魔法使いが言うには、わたしは月から落ちてきたのだそうだ。休日の真昼間、薄ぼんやりとした幽霊のような月が映り込んだコーヒーを飲んだ瞬間に地面が消えて、唐突な浮遊感を味わったことは覚えている。気が付いたらログハウス風の家の中で見知らぬ女性に介抱されていた。私が魔女で良かったわね、と笑う女性に、さっきのように曖昧に笑い返したのだ。
麦穂色の髪、健康的に日焼けした肌、彫りの深い顔立ちは日本人の遺伝子だとはとても思えなかったし、何よりその不可思議な瞳の色が雄弁に目の前の女性の姿をしたものが違う種族の何かであることを物語っていた。わたしは素直に自分がこの世界の生き物ではないことを彼女に告げ、そこで半年を過ごした。厳しい夏が過ぎて、吹いてきた秋風と一緒にふと思い出したように彼女が言ったのだ。異世界から大いなる厄災と戦うために召喚される、賢者という存在がいると。

「誰も、見たわけではないんです。人類は月までしか行ったことがありません。観測と計算で、こういう星がありこういう軌道を描いて太陽の周りを回っているのだろう、と」

だから本当は木星も火星も何もかも存在しなくたって構わないのだ。誰も見ていないものはどこにも無いのと同じ。
相変わらず優しく眉を顰めたままのシャイロックが諦めたように息を吐いた。彼の持つグラスでは匂いを嗅いだだけで酔ってしまいそうなほど強いウイスキーの海で丸い氷が溺れている。

山を三つ越え、川を渡り、街道を馬車で行くこと数週間、やっとの思いでたどり着いた中央の国では、大いなる厄災との戦いで何もかもがめちゃくちゃになっていた。
異世界から召喚された賢者という存在は既に失われていて、そうしてわたしも道標を失った。とりあえず住処を与えてくれるというので復興ボランティアに志願し、何とか形を取り戻した町役場にできた魔法使い向け案件相談窓口に自分が異世界からやってきたと思われる旨を口述筆記してもらい、その下にダメで元々と日本語と文法の怪しい英語を書き連ねて提出したのである。それから三日、瓦礫を荷車に積む作業に勤しむわたしの前に箒に乗った魔法使いが三人と黒髪の青年が降り立ったのであった。

結果として、わたしが何故この世界にやってきたのかは謎のままである。南の魔女が旅立ちの日にくれた祝福の他はわたしに魔法の痕跡は無く、もちろん賢者という存在でもなかった。ムルという魔法使いが月を飲んだね、という謎の言葉をくれた他は、新しく召喚された賢者だという青年がものすごく心配してくれただけで元の世界への帰還という目的には些かの進展もなかった。そもそも賢者さんでさえ元の世界へ帰る術を知らなかったのだ。わたし達は暫し呆然とし、ぽつぽつと住んでいた場所や仕事や日本の政治など、当たり障りの無い話をした。最終的にはなんだか二人して悲しくなってしまい、昔に見たテレビ番組の主題歌などを歌って笑いながら泣いたが、それを魔法使いたちは痛ましげな、それでいていとけないものを見るような優しい顔でいつまでも見守ってくれていたのだった。

今現在わたしは賢者さんとアーサー王子の厚意でカナリアさんと一緒に魔法舎の雑用をこなして生活している。
魔法使いの皆さんはわりと魔法で全てを何とかしてしまうので、実際わたしの出番はとても少ない。カナリアさんが帰ってしまう夜間の雑用や、ネロが任務でいない日に夕食を用意する程度のことだ。これは確信に近い予感だが、わたしには賢者さんのようにこの世界で果たすべき使命など一切なくて、賢者さんが役目を終えて元の世界へ帰ったとしても、わたしはただ忘れ去られた落とし物が保管棚の中でぽつねんと朽ちていくようにこの世界にあるのだろうと思う。
それが辛いか辛くないかといえば、まだわからないというのが本音だった。ある日突然隣国が侵攻してきて街を丸ごと焼かれたうえで放逐されたとか、謂れない誹謗中傷でその地域に住んでいられなくなったとか、心が傷付くような出来事があったわけではない。人々は優しく、魔法使いたちは親切で、とりあえずご飯や寝床の心配もせずに済んでいる。それでも死の間際に自分が生まれ育った世界との繋がりを断たれた事実を狂おしいほどに憤ったりもするかもしれない。しかしそれも遠い夢のようにぼんやりとした予感でしかなく、概ねわたしはこの世界で平和に生きている。

それがたまらなく寂しい夜に、時々キッチンを訪うのだ。
火と水のあるところ。人の温もりの気配があるところ。談話室ではいけない。煌々と暖炉が燃えて、常に人のいるあそこは明るすぎる。朝食の仕込みも終えて、眠りに就いたような、それでも明日の朝にはまた温もりを取り戻す、この場所がいい。
磨き込まれたカウンターと洗い上げられた鍋。ガラス製の覆いがかけられたチーズ、布巾を被せられたバゲットの入った籠。そういうものに囲まれて、旅をしていた時に日雇いで稼いだお金で買った酒を舐めるのだ。決まって小さなグラスに一杯。ブランデーに似た、琥珀色の酒と一緒に寂寥を舐めとっては胃を温める。

次の日のキッチンに痕跡を残さないように細心の注意を払っていたが、ある日運悪くくしゃみでキッチンに飛ばされてきたブラッドリーに見つかり、それをネロに告げ口された。夜のキッチンにネズミが出たぜ、という言葉を真に受けたネロが鬼の形相で待ち構えていて腰を抜かしたが、その後は驚かせた詫びだと言って軽いつまみを作ってくれたので次の日のサラダを大盛りにしてやることでブラッドリーを許すことにした。賢者さんと子供たちに応援されながら居心地悪そうにサラダを完食するブラッドリーがとても面白かったので。

その夜から一人きりの晩酌に気まぐれな猫のような人たちが訪れるようになった。
カロカロと氷が鳴るグラスを提げたネロ、それぞれコーヒーとハーブティーを持ったヒースクリフとルチル、ワイングラスを傾けるシャイロックも。さすがにマグに入ったスープを持ってオズさんとアーサー王子が立っていた時は肝を潰したが、彼らは一様にわたしが一杯を干す間そこに居て、お喋りをしたりしなかったり、目線すら合わせなかったり、それぞれの距離感で夜のキッチンに人の気配を足していく。

「わたしの世界の人々にとって、別の知的生命体にボイジャーのゴールデンレコードを届けることは多分一つの救いだったと思うんです。わたし達は弱くて、自分たちが住む星さえ壊してしまいかねない、今すぐにでも滅びてしまいそうな愚かな生き物だったけれど、四万年後の星空で、誰かがわたし達の存在を、生きた証を見つけてくれたなら、それはまさしく救いだと思う。この世界でも、遍く人間が生きる理由が種の保存で、人間が生きる目的が自分の痕跡をこの世界に残すことなら、きっとこの世界の人間にとってあなた達の存在は救い以外の何物でもない」

わたしの言葉に二人は虚を突かれたように黙り込み、そして緩やかに目を細めた。死にゆく猫や、縄張り争いに敗れた老犬を見るような色の目で。
長い時を生きた人だけが持つ柔らかな憐れみと、ままならないことに憤る子供を宥めるような穏やかな諦念とが綯い交ぜになった畏るべき微笑みが二人の魔法使いの顔に浮かんでいる。

「あんた、それは俺たちにちょっとばかり酷だよ」
「そうですね。私は滅びも、もちろん誕生も流転も等しく愛していますけど、それだけですから」

シャイロックがカウンターに預けていた指先をついと優雅に振ると、空になりかけていたわたしのグラスに泉が湧くように琥珀色の液体が溢れ出た。驚いてシャイロックを見ると、私の奢りです、と微笑まれる。

「私は覚えていますよ。戦乱の中で死んでいった兵士、貧しさからパンを盗んで殴られる子供、生きるために身体を売る女。親を捨て、子を殺し、友を裏切り、虚しく死んでいった人間たち。それと同じだけ、互いを労り愛し合う夫婦、身を挺して子を守った親や、素晴らしい物語を綴った詩人、愛を歌い、希望を語り、誇りを持って死んでいった人間たちも。それでも、ただそれだけなんです」
「……俺は忘れたね」
「よりによってあなたが?まさか」
「思い出さなきゃ、忘れてるのと同じことだよ」

宇宙鶏のパテが乗ったクラッカーを齧って、ネロが拗ねたようにシャイロックから顔を背けた。そのままわたしのグラスの上に手を掲げ、不思議な響きの呪文を唱える。白く輝く魔法使いのシュガーがグラスの中に落ちて、すぐに溶けて消えた。

「寝酒にするには強すぎる。こうして和らげた方がいい。……あんたはさ、小難しく考えないで、不安ならそう言えば良いんだよ」
「おや。優しいんですね、ネロ」
「混ぜっ返すなよ……。結構恥ずかしいんだ、こういうの」
「良いじゃありませんか。嘘吐きでいい加減な魔法使いと浅はかで残酷な人間とで、釣り合いが取れてます」

くすくすとシャイロックが笑う。皮肉というには、優しさと幼いものを慈しむような響きを滲ませてわたしの愚かさを暴き立てる。わたしは震える手でグラスを取り、琥珀色の酒を舐めた。確かに強すぎるアルコールの香りの中に、甘くて、少し痺れるようなシュガーの味がする。

「……忘れないで、覚えていて、わたしを、どうか」

この世界を彷徨っている。
わたしの世界から放り出され、役目も、使命も、目的も、理由すらもなく。生まれ育った世界ではないから、神や、親や、運命や、自然の摂理すら恨めないままで。どうか。どうか、言ってほしい。お前は虚しく生き、虚しく死んでいくのではないのだと。わたしにも、だれかの心によみがえるよすががあるのだと。どうか。

「魔法使いは、約束をしないよ」
「魔法使いは、約束をしません」

二人の魔法使いが同時にそう言って、柔らかに微笑んだ。
わたしの心は押し潰されたように痛み、寂しさと憤ろしさに捩じ切れてしまいそうだったが、それでも奇妙な安堵を覚えていた。いつかわたしの命が尽きるその時に、やはり彼らに同じことを願うだろう。忘れないで、憶えていて。わたしを思い出して、と。
彼らは変わらぬ姿で、変わらぬ美しさで、変わらぬ笑みを湛え、今と同じように言うのだ。"魔法使いは約束をしない"と。そうだったね、とわたしは答え、暗い淵をどこまでもどこまでも落ちていく。その時にはきっとわたしも彼らと同じように微笑んでいられるといい。

一息に飲み干したグラスの底で少しだけ形を保っていたネロのシュガーが、さり、と優しい音を立てて溶けていった。舌先には、もう何も残っていない。






やがて地獄へ下るとき、/そこに待つ父母や/友人に私は何を持つて行かう。/たぶん私は懐から/蒼白め、破れた/蝶の死骸をとり出すだらう。/さうして渡しながら言ふだらう。/一生を/子供のやうに、さみしく/これを追つてゐました、と。/蝶 西條八十(魔法使いの約束 201214)



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