終焉 | ナノ




「殺すな、と言われたのを忘れたのか?」

闇そのものが囁いたかのような微かな声に、視線だけで答えて後退る。見事なモザイクタイルの床に伏した少年は腰骨を砕かれ、血の出ないままに踵の腱を切られて短い呼吸を繰り返しているだけだ。痛みのために微塵も動くことはできない。アジームの庭には鼻の良い蛇がいるために、ハシーシュを与えられなかったのだ。

「自分は殺しているくせに」
「お前は全部殺すだろう。俺のは間引きだ。全部を殺すわけじゃない。お前のは皆殺し」
「言い方に性格が出てるぞ」

海近くの国から遥々運ばせた花崗岩の柱の影から、黒い蛇が顔を出す。アジーム家第一の召使いであり、熱砂の国に君臨する黒い太陽の鬣であり、砂漠の蛇である。わたしは口とは裏腹に、忠誠を示すために膝を付き、荒い息を吐く少年を蛇へと差し出した。太陽を墜とすには、些か見劣りのする英雄だ。粗末な衣、肋の浮いた胸と哀れなくらいに細い手足。眼窩は薬のために落ち窪み、唇にも瑞々しさは無い。瞳のどろりと濁るのは、痛みのためだけでは決してないのだとわたしと蛇は知っている。

「見ればわかる。これは山の暗殺者だ。もう心はここにはない。太陽のお耳に入れる価値はない」
「お前、いつからサイードの御心を測るようになった?」

蛇がゆったりと牙を剥く。
音もなく毒牙を踵に突き立てることが信条の蛇がこうして威嚇をするのは、わたしが身内だからである。アジーム家に仇為す者であれば、牙など見る間もなく殺されている。わたしは面白くない気持ちで蛇から視線を逸らし、泡を噴いて呻いている少年へと目を向けた。薬の切れた時の渇えと、血も出さぬままに皮下で腱を千切られた痛みとどちらがより苦しいのだろう。

「山の者は助からない。じきに、死ぬ」
「……そうだとしても」

不意に、この静かな夜には不似合いなほど暖かな羽音が響いた。日に当てた分厚い敷布を草原に広げたような、大きく柔らかな音である。
見事に大きな、赤い翼の鸚鵡が一羽、猫が引っ掻いたように細い月を背にこちらを目指して飛んでくる。こんな夜中に飛び回る鸚鵡など、自然には存在しない。鳥の瞳は暗くなれば途端に光を失うものだ。子供が腕を広げたほどもある翼の鸚鵡へ向けて、蛇がその手を差し出した。鋭い爪を蛇の腕の肉へと食い込ませ、鸚鵡が滴るように降りてくる。瞳があるはずの場所には赤ん坊の拳ほどもあるダイヤモンドが嵌め込まれ、嘴は金の透かし細工、蹴爪は水晶を磨いたものが取り付けられている。それでいて、鸚鵡は規則正しく胸元の羽毛を膨らませては呼吸を繰り返す。こんな姿になってもまだ、生きているのだ。

『うん?この匂い、ハシーシュか?』
「山の者だよ」

キチキチと微かに嘴の揺れる音の向こうで柔らかな男の声が夜に響き渡る。その声に、蛇は殊更平坦な声で返事をした。わたしは鸚鵡へ向けて平伏する。止まり木になっている蛇にも跪く形になるのが不服だが、黒い太陽に灼かれるよりはましだった。
蛇は這い蹲るわたしになど目もくれず、少年の前へずいと鸚鵡を差し出した。濁り切って、生来の色すら定かではない少年の瞳にさっと怯えが走る。ひと抱えもある大きさの爪の鋭い鳥が恐ろしいのだろう。山間の、貧しい村を思い描く。羊を飼い、その毛織物を売った金で命を繋ぐ人々。険しい山肌にこびり付くように生きる民として生まれた、痩せこけた少年はきっと凍える山頂の夜の中で幾度も幾度も聴いただろう。嗄れた老婆の声が語る魔物の話だ。峻険な巌の間を飛び回る、大人の羊さえも軽々と掴んで飛んでいく怪鳥のおとぎばなし。時には人間さえ拐って、巣の中で引き裂いては食らう恐ろしい鳥だ。

『お前、ハシーシュが欲しかったのか』

うう、と少年が唸る。微かに開いた唇の間から、腐ったような甘い臭いが立ち上った。

『ああ、楽にしてくれ。あそこは寄進が少ないとお前みたいなのを寄越してくるんだ。何時ものことなんだ』
「大方、去年より反物が少なかったのが許せなかったんだろう。強欲なことだ」
『神様ってのは寒がりなんだろ。きっとな』

けらけらと鸚鵡と蛇が笑う。少年は魔物の会話を聞いているのかいないのか、どろりと濁った瞳の奥で呻くばかりだ。

『大丈夫だ。欲しいものがあって、それを手に入れようとするのは悪いことじゃない。オレたちタージルだってそうして生きてるんだ。お前は悪じゃない』

表情のないはずの鸚鵡が微笑んだように見えた。実際は微かに首を傾げただけだが、口腔の奥から響く声が凪いだように穏やかだからだろう。

『けどな、人を殺そうと思うことは罪なんだ。根っからの悪人なんていないってオレは思ってる。だから、お前には罪があるだけだ』
「お前が死ななかったから、罪になったとも言うがな」
『ははっ、それもそうだ』

お前が死ねば、間違いなく世界の半分にとってコイツは英雄だったよ。
恐ろしいことをさらりと言って、蛇は撓めた腕を上空へと差し上げた。鸚鵡がけたたましい羽音を立てて飛び上がる。裁かれた後の罪人に残るのは、償いだけだ。では、悪人には何が残るのだろう。

一瞬、目も眩むような閃光が蛇の指先から迸り、最初から何も無かったかのように消えてしまった。潰れたように地面を這っていた少年も、跡形もない。

「寄進だ」

蛇が独り言のように呟き、それに応えるように弧を描いて飛んでいた鸚鵡がカチカチと嘴を鳴らした。
わたしは平伏したまま、これから罪の報いを受けるであろう少年のことを思った。山間の村の、貧しい羊飼いが追った羊の毛を色とりどりに染め、ひび割れた手先の織子の娘が生涯をかけて織る毛織物に血と泥と吐瀉物に塗れて送り付けられた少年の幻だ。夥しい狂信者の群れが繰り広げる狂宴の中に送り返された、愚かな少年の結末だ。

わたしは蛇の気配が遠ざかるのを待ってからゆるゆると頭を上げた。月は変わらず中天に高く、タイルの床に染みていた体温も匂いも何もかも、風がさらって山の向こうへ運び去ってしまった。



(ツイステッドワンダーランド 201101)



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