終焉 | ナノ




キコ、キコとボートに付いた櫂を動かすたびに悲鳴のような音が上がる。この先の海は所謂魔物の巣、というやつで、魔導エンジンの上げるけたたましい音を殊更に嫌う魔法生物が多く棲みついている海域である。水は恐ろしいほどに澄んで、深い深い海溝の割れ目までくっきりと見える。その静かな海底の裂け目、全てに何かしらの怪物が隠れてこちらを見ているのだという想像はあながち間違いではないと言うだけにこちらの背筋を薄ら寒くさせて余りある。わたしは地表の生き物。この塩辛い水の上では襲われても抵抗する術さえ無いのだから。

無心でボートを漕ぐわたしの周りを、青緑色の巨体が一つ、音もなくぐるぐると泳ぎ回っている。手漕ぎボートの速度があまりに遅いのできっと退屈しているのだろう。背鰭だけがサメのように水面から突き出ているが、水があまりに澄んでいるのでその姿は空を飛んでいるようにも見えた。

事の発端は、もちろんアーシェングロット氏である。
かれのところに舞い込んだ依頼は、乗っていた客船が嵐に巻かれてこの魔の海域に運悪く踏み込み、海難事故に遭って行方不明になってしまった妻を探して欲しいというものだった。事故自体は何ヶ月も前に起きたもので、生きているとは思っていない。ただ妻の痕跡が何かあれば、それを探してほしいという。
きっかけは、同じ船に乗っていた客の遺体、それも蝋のようになった上半身の遺体が海岸に流れ着いたことだった。深く冷たい海の底で、もしも妻があの遺体と同じように死蝋となって彷徨っているのなら。そうであれば引き上げてやりたい。そうでなければ、妻は一切何も残さず海に消えたのだという証拠がほしい。


それは人魚だ、とわたしは言った。
海岸に遺体の流れ着いた海の交易ルートの重要国は、その魔の海域に程近く、その国の陸路を抜けるほかには危険な海域を渡らなくてはならないとあって貿易で栄えた小国である。貿易ギルドの特殊な通行手形が無くては、その国の海岸に近付くことは難しい。海域に棲みついた魔物たちは、騒音をひどく嫌う。そして一度魔物たちの怒りを買えば海は大荒れに荒れて、その国の岸を少しずつ削り取っていくからだ。海が荒れれば領土が削れ、貿易船も寄り付かない。その国は通行手形で人を管理し、魔物を怒らせるような愚か者を海に近付けないようにしているのだった。

ーー人魚、とは?
ーーもちろん魔物が呼んだのではない嵐も起こる。その嵐が過ぎた後には、海岸にはいろいろなものが山ほど流れ着くんだそうで、その中に混じった死体を、その国では人魚と呼ぶんだそうですよ。あそこの海は冷たくて澄んだ海だから、細かい蟲はほとんどいないのだそうです。海の魔物は人を食わないでしょう。だから、底に沈んだ死体は蝋になる。縁起がいいそうですよ、人魚を浜から引き上げるっていうのは。

アーシェングロット氏は、この依頼を徒労だけが多い、時間のかかる仕事だと思っていた。つまり、下請けに出すことにしたのだ。卸業を営むわたしも、もちろんその国の通行手形を持っていたので。


手漕ぎボートは通常、後ろ向きに漕ぐものである。本来ならもう一人乗り手がいて方向の指示をくれるのだが、生憎わたしのボートに同乗者はおらず、ただ異形の人魚、こちらは正真正銘ほんものの人魚が一匹、気まぐれなイルカのようにボートの周りを音もなく泳ぎ回っているだけだ。

「ねえジェイド、本当にこの方向で合ってますか」

古い映画のワンシーンのように顔の上半分だけを水面から出したジェイドが無言のまま薄っすらと笑う。人間の声はともかく、人魚の声は水の中でよく通る。言葉を話さないジェイドは、彼こそが魔物のようで、少し恐ろしい。
とぷ、と見た目よりは粘性のあるような微かな水音を立てて、ジェイドがまたボートの下を潜った。文句を言う暇があったら漕げということだろう。櫂先を水に付け、力を込めて櫂を引く。


その男の妻は歌手だったのだという。
半年をかけてこの辺りの島々を巡る船旅の間、星のない夜の無聊を慰めるための歌姫として船に乗っていた。密輸業者が時代遅れの帆船で通る他は、この海域に近付く者はいない。もちろんその客船の航路にもこの海域は含まれていなかった。嵐の最中に舵を失ったのであろうというのが大多数の見解であった。
今は鏡面のように凪いだこの海は、一瞬で客船の何もかもを飲み込んだことだろう。

キャアキャアと遠くで海鳥の鳴く声がする。島影もなく、海域の外に錨を下ろしてきた母船の姿ももう見えない。視界の端できらきらと煌めく鱗の人魚のほかには、わたしに頼るべきものは何も無いのだ。
例えこの海の底に落ちて、死体が蝋に変わっても、それを知るものは誰もいない。

ギ、と背後で何かが軋む音がした。ゾッとして振り向くと、ジェイドが笑いながらボートの舳先を手のひらで押し留めている。水掻きのついた、尖った爪の、異形の手のひらで。わたしは櫂を手繰り寄せ、流れないようにボートに乗せると懐から取り出した魔法薬を半分だけ口に含んだ。これは非常に複雑な理論を用いた、死、を概念化する薬である。彼らの学生時代の学友であったという人が自分の研究の副産物として開発したものであるらしい。その人が行っていたのは魂の研究であり、向かう先は生命の獲得であったというが、死の方が先に確立されてしまったのはあまりにも皮肉だ。

ボートのふちに青緑色の鱗で覆われた手が伸びる。柔らかな膜の張った鰭、人のものではない肌。揺らさないように底に尾鰭を絡ませたまま、ジェイドがボートの上に上がってくる。薬のために動かないわたしの体を掻き抱き、かぱりと口を開けた。尖った歯の並ぶ口腔の奥から、もう一つ、鉤状に曲がった歯の生えた顎が迫り出してくる。その顎でわたしの"死"を食い締めるようにしてジェイドが海へと身を翻した。



海流は深いところを流れている。
水は刺すように冷たかったが、肌の感覚は鈍く、手足は鉛のように重い。青い青い、光のない青だけの世界で、しかし遠くまで見渡すことができるのが恐ろしい。信じられないほど巨きな生き物の影が断裂の間を蠢いている。流星のような回遊魚の群れと、触れれば弾けてしまいそうな銀色のクラゲたち。せめてこの恐ろしい夢のような景色をゆっくりと見ておきたいとは思うものの、わたしの視界の半分は薄緑の肌をした人魚の顔に占拠されているのでままならないものである。
何せ今のわたしは自分自身の死の概念であり、死は肉体に影響を及ぼさないためである。死が肉体に影響しないがために外界の干渉を許す状態が肉体の死だとか何とか、素晴らしい理論だと言ってアーシェングロット氏は興奮していたが、頭の良い人が考えることはよくわからない。わたしにとってはジェイドの身体のどこかに触れていなければ肉体的に死ぬということがわかっていれば充分だ。ジェイドはさっきからわたしの唇を咽頭顎で食い締めたまま、長い尾鰭をわたしの身体に絡ませて海の底へと沈んでいるのだった。

ーーあの海域は、嘆きの島の影響下にあるんです。
ーー古代の魔物が今でも当たり前のようにあの辺りには棲みついている。ハルピュイア、ケートス、セイレーン、スキュラ、カリュブディス……名前や姿は幾つもあれど、皆恐ろしい怪物ですよ。特に陸のものにとってはね。なので、あなたには死んでもらうのが一番良いでしょう。いえ、言葉の綾ですよ。実際には仮死状態と言いますか、もっと複雑な理論で成立する魔法なのですが、詳しく説明すると日が暮れてしまいますのでね。仮死状態、で納得して下さい。あの場所には死んだ人間しか辿り着けないので、これが一番手っ取り早いんですよ。



ある一定の深さまで沈んだところで、急に身体が水の流れに巻かれるようになった。深層海流、というやつだろうか。ジェイドはもう楽しくて仕方がないという顔でわたしの腕を取り、海流の中を流されるままにくるくると回っている。キスをしたまま社交ダンスを踊っているような、人に、特にアーシェングロット氏に見られたら一生ネタにされそうな体勢だ。
今までの澄んだ海とは違う、細かな砂と光る蟲、それらがぶつかって生まれる気泡の渦の中は、原初の生命のスープ。最初のヒトの姿をしたものが生まれる前、不定形のアダムとイヴがどろどろに混じり合ったような。たしかにこんなものの中に居ては、それもこんな頼りない姿では、わたしも細かく崩れて溶けて、一つの大きなものの流れに取り込まれてしまった事だろう。
"死"としてのわたしはあまりにも膨大なうねる生と死を怖れて生者の体にしがみついたが、ジェイドはそれを即座に跳ね除けた。相容れないものの間で、電流のように青白い淋しさが光っている。



ごうごうと、どこか遠く、奥底の方で海が鳴っている。
青はとうとうどんな光も届かなくなって、限りなく黒に近い、紺色の闇が広がっていた。ここが海流の行き着く先。海で死んだものたちの、その最後。
わたしは既に自分自身の死という姿さえ失くし、ひとつの皮袋のような、震えるだけの肉の塊のような何かに成り果てていた。もしかすればこれこそが、生まれる前の我々、母の胎の中に在ったときの、原初の海の中にある生命の姿なのかもしれなかった。わたしはその姿でジェイドの腕に抱かれ、暗闇の中に浮かぶ女性の胸像を眺めている。

栗色の巻毛、夢見るように閉じられた瞳、唇のかたちは美しく、色は滴るように赤い。その姿は穏やかで、この海の底でなお死に浸かり切り、満ち足りているようにすら見えた。遠くで海鳴りの音が聞こえる。それは死を統べる者、怒れる冥府の王、凍れる河に張った分厚い氷の下を流れる怒涛の音にも似て、寄せては返し、わたしの耳を責め立てる。なぜ、眠れる者を暴くのかと。

ジェイドにはこの声が聞こえているのだろうか。わたしはぐずぐずと身を揺らし、ジェイドの胸の中で蹲った。帰りたい、帰ろう。どうか帰らせてくれ。母親に帰りたいとせがむ子供のように、わたしは身体を揺らし続ける。彼女は満ち足りている。この海の底で、死して、あんなに穏やかじゃないか。眠っているのだ。この冷たい海の底で、暗闇に抱かれて。その安息を何故に暴く。石の下に埋められるか、海底に沈むかの違いだけだ。細かな蟲に食われることもなく、永遠に、美しいまま、だのに、なぜ。

「それは、依頼人がそう望んだからですよ」

ぐ、と鋭い爪が肉に食い込む。生きているものの手は慄くほどに熱く、わたしはその痛みに声にならない悲鳴を上げた。最早どこにあるかもわからない瞼の間から止めどなく涙を流し、身も世もなく泣き叫びながらジェイドの手の中でもがいている。

「陸のものが触れて、彼女を起こして差し上げればいいんです。僕たちは人魚ですし、何より魂というものがありませんから。さあ、早く済ませてしまいましょう」

微笑んだまま、ジェイドがわたしを胸像の乳房の上に押し付けた。まるで母親に生まれたばかりの子供を抱かせるように。途端に眠るようだった彼女が目を見開き、その顔が苦痛と恐怖に歪んでいく。死を前にし、沈みゆく船と荒れ狂う嵐の中で、彼女が浮かべたであろう、その、顔が。食いしばった歯の間から、引き裂かれるような絶叫が迸る。暗闇から腕が伸びてきて、割れた爪がわたしの肉を掻き毟った。傾いた船の甲板にしがみつこうとするような動きだった。

「さて、もういいでしょう」

ひょいと、いとも簡単に食い込んだ爪を弾いて、彼女の腕の中からジェイドがわたしの身体を取り戻す。ずるずると、絶望に染まったままの表情で彼女の死体は暗闇の奥の方へと沈んでいくところであった。海に引き摺り込まれる、その姿で。

「本来、死んだものに残るものなどあるはずがないんですよ。そうでなければ、この世はゴーストだらけになってしまいます。誰かが死後も穏やかであれと願い、死の間際は恐ろしかったであろうと思い、この海で死したものはああなると知っていたから、この場所で漂っていただけで」

ジェイドがわたしを抱えたまま、水を掻いてふわりと浮き上がった。深い底を上っていくごとに、ぶよぶよとした不定形の肉に皮が張り、くびれて、小さな手足さえ生えてくる。血が通い、爪や歯が生えて、髪が伸びてくる。
ジェイドがようやく五本に分かれたわたしの小さな指の先を弄びながら、明日には浜に上がっているでしょうね、と囁く。ごうごうと耳の後ろを海鳴りのように血潮が流れるのを聞きながら、やはりこれは怒りの声だと思った。微笑む人魚の真上から、青い光が差し込んでいる。



(ツイステッドワンダーランド 200718)



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