終焉 | ナノ




「アナタもさあ、大概よねえ」

美しく手入れされた爪先で書類をリズミカルに叩きながら長髪の美女が呟いた。ルサルカ・シュヴェーゲリン。黒円卓の一員にしてアーネンエルベの魔女。アンナのお仲間というか、ハイドリヒ卿の腹心の部下の人々の中では、一番話の感覚が合う人である。

「うーん。何というか、成り行きなんですよね」
「"望んでこうなったワケじゃない"って言うの?」
「そう言うわけでも、無いんです。積極的に回避しようとしなかった、うーん……いや、やっぱり望んでいたのかな?」
「なら、罪滅ぼしかしら」
「そう。……多分、それが一番近いんでしょうね」

わたし達が今居る場所は南仏はマルセイユに程近い、元は小貴族の別荘があった島である。そこに聖遺物となり得る考古資料があると言うので、犬でも借りるような気軽さでSSの隊舎から連れられ彼女の旅に同行することになったのだった。
古城の管理をしていた老夫婦は第三帝国の制服を着たわたし達に哀れなほどに怯えていたが、腕のない女と見た目は華奢な美女の二人だけだとわかると本来の人の良さからか意外なほどに親切にしてくれた。今も手製のケーキまで出してくれる歓迎ぶりである。

「わかってると思うけど、手付けたらダメだからね」
「残念ながら付ける手が無いのでね」

美味しそうなケーキなのに残念だ。
古城の窓辺からは青い地中海が一望できる。かつてこの城に住んでいた貴族もこの眺めを愛したのだろうか。ルサルカは窓枠に肘をつき、水平線をじっと眺めている。

「ここには何があるのですか」
「聖人の死骸ね。まあ、ありふれた聖遺物だわね。少しつまらなすぎるくらい」
「えっと、聖ヴィクトル、とかいう」

半分しか西洋人の血が入っていないわたしは、あまり熱心なキリスト教徒ではなかった。洗礼を受けているのかも曖昧だ。そして興味のないことにはあまり興味がない。

「それがまあ、違うのよねえ。殉教者であり聖人としてバチカンに認められた彼の遺骸は確かに第一級の聖遺物だけど、そんなものはアタシたちにとっては価値が無いわ」

ルサルカが猫のように目を細め、窓から入る風に嬲られるわたしの髪を見つめた。街にいるブルネットとはまさに毛色の違う、わたしの髪を。初めて出会った頃の長さから少しでも伸びるとアンナがすぐ様切ろうとするので、わたしの髪は一兵卒時代と同じように短いままだ。

「"アーリア人"が世界を支配していた、或いはすべての人類の祖だなんていうのは、下らない妄言よ。人類にはイヴもアダムも存在しない……神がいないようにね。現生人類はどこで誕生したのかなんて、アフリカ以外に無いわ。エデンの園はアフリカにあって、その東というのならこの地球の大半はノドの地ね。だからこのマルセイユに眠る聖人の遺骸も、どれだけ調べたって石臼に潰されて首を落とされたラテン人のミイラってだけで、アタシたちにとって何の意味もない死体なのよ」
「誰の呪いも、持っていないからですか」
「だって、聖人なのよ?誰も憾まず、誰も呪わず、ただ慈悲と愛だけを信じて死んでいったのよ?そんなの、赤ん坊と何も変わらないじゃない。ただの思考停止よ。くっだらないったら」

ふい、とルサルカはわたしから目を背けた。言葉は苛烈でも、ルサルカの声には消せない憧憬がある。かつて彼女も信じたかったのだろうか。慈悲深き神の存在と、それを信じさせてくれる唯一の愛を。

「ルサルカさん、少し恋愛相談をしてもいいですか」
「えっ?!なに、どうしたのよ?!」

ルサルカの動揺にガタガタと椅子が音を立てる。

「これはあくまで友達の話なんですけど」
「そーいう前置きはいいから!何よなによ、シュライバーと何かあったわけ?そんな面白いこと早く話しなさいよ!」

がばりと身を乗り出してきたルサルカにちょっと引いてしまった。女の子は皆このテの話が大好きなのだ。大きな瞳をくりくりさせてこちらを見ているルサルカは、魔女の顔はしていなかった。

「アン……いえウォルフィはですね」
「やだ!アナタってばアイツのこと"狼ちゃん"なんて呼んでるの?!いや〜!あ、ごめん続けて続けて」
「彼はですね、一切わたしの事を信用していないんですけれど、何というか、ただ側にいるというのは、愛情の発露とは認めてもらえないのでしょうか」

わたしの言葉にルサルカは目を見開いた。ストロベリーブロンドの睫毛がぱちぱちと瞬く。

「それを、愛だと受け止められるような情緒がアイツにあるとは思えないわ」
「やっぱり、そうなんですかねえ」
「何があっても、側にいる……そうね。それは、信じる、という愛情よね」

半笑いの奇妙な表情でルサルカが呟く。脚の沢山ある気味の悪い虫を見せられて、それが愛ですと言われた異邦人のような顔だ。

「何の価値もないわ」
「そういうものでしょうか」
「死の瞬間まで共にあってくれたって、気付いた時にはもう手遅れじゃない。愛を与えられるだけで、もう返すこともできなくて、そんなの、辛いだけなのよ。押し付けだわ」

その時のルサルカの顔は、アーネンエルベの魔女でもなく、聖槍十三騎士団のマレウス・マレフィカルムでもなく、そもそもルサルカ・シュヴェーゲリンでもない、いとけない、それこそ何処にでもいる娘のように見えた。
窓辺でただじっと愛しい人を待つかのような、まだ見ぬ未来を夢想するかのような愛らしさがあり、それは或いは確実な破滅がやって来ると知りながらそれでも小々波の向こうを見ずにはおれないメーデイアの痛々しさでもあった。
アンナは愛を知らない、一度も愛されたことのない娘である。アンナはけだものだ。たまさか伸ばされた手の温度に縋り付いて、人間だった自分を失ってしまうほどに愚かな獣だ。

「もし、あの子が最後の瞬間まで、愛だと気付かなかったなら」
「それは幸福よ。……あるいは、本物の悲劇ね」

ざざ、ざざとマルセイユの海が鳴っている。人の情緒を持たない、青いだけのぬるい海が。

「ここにあるのはね、ヴィーラの亡骸よ」
「それは、つまり」
「アタシがなるはずだったもの、アタシがそうなれれば幸せだったかもしれないもの、アタシがなれなかったもの。そして、これからアナタがなるもの」

ヴィーラは湖沼の精霊だ。ライン河のほとりに棲む、水底の魔性。遥か北の地では、ルサールカと呼ばれている。

「愛を知らずに死んだ娘は、皆狂乱して水に沈むの。アナタもそう」

ルサルカが唇を歪めて微笑う。嘲笑っているかのような、哀れんでいるかのような、不可思議な笑みだった。
アンナ。あわれな娘。愛を知らない獣。悲しいほどに馬鹿な子供。

「ルサルカさん。そうしたら、また水の底で会いましょうね」
「ふふ、真っ平ごめんだわ」

ぼうっとルサルカの足元に魔法陣が浮かび上がった。あの老夫婦は我々を裏切ったのだろう。呼びにやった連合軍のレジスタンスごとナハツェーラーに喰われ、彼らもまた溶金の窯の中でエインフェリアとなるのだ。

いつかこの世界に神が現れたその日、黄金の海に揺蕩う屍のひと方となり果てるまで。



***



ベルリンは燃えているか。

燃えている。それはもう比喩ではなく物理的に燃え盛っている。
わたしはただ人間的な、あまりに人間的な原初の感情の波に晒されて滂沱と涙を流しながらそれを見つめていた。心は無だった。思考は漂白され、燃え盛る炎と破壊されていく街並み、失われていく命と繰り返される暴力をただただ眺めている。
貴いものも、美しいものも、幼くかそけく、かけがえのないものが全て壊されていく。軍靴に踏みしだかれ、無惨に嬲られ、ゴミのように捨てられ、何もかもが壊されていく。絶滅寸前の生き物が、この世界にたった一匹だけ生き残った生き物が、無知な農夫によって無造作に撲殺されるような悲劇がそこかしこで繰り返される。
笑えるか。それを、よくある事だと。人の世には多々ある虚しさの一つだと。

「ああファイゲ、こんな所にいたんだ」

のろのろと覗き込んでくる顔を見上げる。
ごうごうと唸りを上げて燃え盛る炎が白い騎士の姿を赤に染めている。ああ、アンナ。わたしの美しき死神よ。君は水底には沈まなかった。わたしと一緒に、凍れる河の底で揺蕩ってはくれなかった。

「……シュライバー」
「はは、ははは!なあに、ファイゲ?」

わたしは燃え盛る地獄の中に膝をつき、胸の前で手を組んだ。祈りはない。神のない、救いのないこの地獄で一体何に祈ればいい。何が救いなのかさえ、もうわたしにはわからない。何も考えたくない。終わらせてほしい。
燃え落ちる空が血の色をして、そこに黄金の錬成陣が煮溶かした金を流したように浮かび上がる。

「またね」

鈍い音がして背後から落ちてきた石に胸を貫かれた。真っ赤に燃える視界に、白い影は最早どこにもない。




(Dies irae 200617)



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