終焉 | ナノ




「アズール!!」

叫んだのはジェイドだったかフロイドだったか、もしかしたらわたしの悲鳴だったかもしれない。バルコニーから投げ出された身体が夜空にぼんやりと光って見えるのが出来の悪い合成画像のようで、その実ただわたしの瞳孔が開き切ってやたらに光を吸い込んでいるだけなのだった。今日のために誂えてもらった革靴が足に馴染まないのがもどかしい。
手の中に風の魔法を溜め、空気の層を呼び出す。圧力はこの世で最も強い力だ。大味すぎる魔法だが、わたしの微弱な魔力でもアズールを受け止めるくらいはできるだろう。
相手のエネルギー弾にこめかみを打たれたアズールは軽い脳震盪を起こしているらしい。わたしの手が目を閉じたまま落ちていくアズールに届いた瞬間に、頭上で爆発が起こった。透明な網のようなものがわたしとアズールに絡み付き、存在ごと身体が引っ張られる。ユニーク魔法、おそらくは転移系の。
アズールやリーチ兄弟レベルの魔法士なら振り解くこともできるだろうが、わたしには無理だ。

「アズール!目を覚ましなさい!」
「アズール!!」

バルコニーから響く双子の必死の呼びかけも虚しく、わたしとアズールの体は深い暗渠に飲み込まれていった。



***



「……っう、」
「目が覚めましたか、アズール。良かった……」

身を起こそうとしたアズールの背中を慌てて支えてやると、ぼんやりとしていたアズールの深い青の瞳に徐々に光が戻ってくる。わたしはアズールの体に縋り付き、深く深く息を吐いた。ああ、このままアズールが目覚めなかったら。そんな考えを何度も何度も打ち消して名前を呼び続けたのだ。

飛ばされた先はどこかの荒野で、日が暮れるとひどく冷えた。こういった気候には覚えがある。夜は凍えるほど寒く、昼は焼け爛れそうなほどに暑い、ヒトはおろか細かい虫や小さな生き物でさえ容易には生きられぬ地、すなわち砂漠である。

「どうやら熱砂の国のような、砂だけの砂漠ではなさそうだ。草も生えていたし、灌木も生えているから水源もあると思う」
「……人魚が砂漠になんて、最悪ですね。ジェイドとフロイドの救助を待つにしても、条件が悪すぎる。魔法石まで失くすだなんて」

わたしはこくりと頷いた。転移魔法はそもそもが高等魔術だ。鏡などの魔力を篭めた呪具を使って行うのが最も一般的で、術者の負担も少ないが完成させるのに時間がかかる。一度きりの転移魔法も存在するが、膨大な魔力を消費するし、それが二人分ともなれば尚更である。アズールは魔力量の豊富な優れた魔法士だが、あれだけ大規模の戦闘を行った後では二人分を転移させるだけの魔法は使えないだろう。マジカルペンも無いのでは下手をするとオーバーブロットしかねない。

「この状況下ではブロットが消えるのにも時間がかかりますね。くそ、転移系のユニーク魔法だなんて、迷惑な」
「アズール、あなた一人なら、」
「黙りなさい。……良いか、二度と言うんじゃない」

ぎり、とアズールがこちらを睨む。わたしはそれには頷かなかった。

「とりあえず、水源を探しましょう。ここで僕の魔力が尽きるのを待っていても仕方がない。……全く、次からはこういう事態も想定しなくてはいけませんね」
「イデアさんに頼む?圧縮テントとか、時計に仕込めるサバイバルナイフとか」
「ふふ、ジェイドが喜びそうですね。でもまずは服装をどうにかしないと」

お互いの服装を見て苦笑する。全くもってサバイバルに適した服装ではない。何せ今回はモストロ・ラウンジ関係ではなく深海の商人、対価次第で死者の蘇生以外なら何でも願いを叶える一流の魔法士アズール・アーシェングロットとしての仕事で赴いた先で起こった事件だったのだ。なるべく真摯な商売を心がけてはいるものの、魔法士というのはとかく敵を作り易い仕事でもある。
おそらくは依頼人さえもダミーで、リーチ兄弟ごとアズールを潰す計画だったのだろう。商談の場にある国の夜会を指定し、しかもそのドレスコードが正装と聞いた時点で随分と貴族趣味な依頼人だと思ったものだが、違和感は覚えた時点で共有しなければならない。今回の教訓である。

「まあ、下はアズールの言いつけ通り足首までのドロワーズですし、幸いなことにローヒールなので歩くのに問題はないと思います。スカートは裂けば風除けになりますね」
「……女性を下着で歩かせるなんて。安心なさい、全員鱶のエサにしてやりますからね」
「あら楽しみ。特等席を用意してくださいね」

もちろんです、と言ってアズールは眼鏡を燕尾の内ポケットに仕舞い込んだ。夜のうちにできるだけ歩かなくてはならない。



***



昼は暑さを避けて灌木の間で眠り、夜は月明かりを頼りに荒野を歩く。
雨季の間に出来たのであろう地面の色濃くなっているところは川の跡だった。乾季の間には干上がってしまうその川は、点々とオアシスを形成して幻のように消えてしまう。雨季の間に水を蓄え、乾季をその水で凌ぐ灌木や草が生えているのも希望だ。この跡を辿ればいつかは水源に辿り着く。

「パンと水だけの食事にも飽きましたね」
「全くです……。僕は決めましたよ、戻ったら必ず魔力を旨味に変換する術式を開発します。絶対だ」

決意の拳に握り締められたアズールの手から滴る水で喉を潤す。アズールの魔力が尽きない限り水にだけは不自由しないのが救いだ。魔法士万歳。召喚魔法は魔力を消耗しすぎるので、そこら辺に生えている草をパンに変えて沈む夕陽を見ながらもそもそと齧る。味はまあ、腐っていないだけましといったところか。舌の肥えたアズールにとって不味いものを食べるというのは空腹よりもよほど辛い事だろうと思うが、文句も言わない姿がいじらしい。
灼けるような日差しを遮るように身体を寄せながらじっとアズールの横顔を眺める。この状況がじりじりとアズールの体力を削っているのは明白だった。魔法薬で人に姿を変えているとは言え、長く海から離れているのは人魚にとって大きな負担だ。体力、気力共に充実しているのならまだしも、陽に灼かれ夜に冷やされ、眠ることも食べることもままならない。

「アズール、わたしに防御魔法を張っているでしょう」
「……何のことです」
「人魚は暑さと日差しに弱い生き物ですけれど、それにしても魔力の回復が遅すぎる。魔法、使っているんでしょう」

スカートで作った日除けの陰でアズールが薄っすらと微笑んだ。きらきらと西陽を映して青灰色の瞳が底光りしている。

「お前は僕のものなのだから、壊れないようにしないと」

深い深い海の底で遠い昔に沈んだ船の中、壊れた宝箱の中から幼い人魚が拾い上げた金色のコインを、アズールは今も大切に仕舞い込んでいる。
わたしはアズールの傍らに寄り添い、かさかさに乾いて埃にまみれた手を取った。日が沈めば歩き出さなくてはならない。



それから二日を待たずにアズールの魔力が全く回復しなくなった。肌はひび割れ、下肢は人のかたちを保てずに出来損ないのキメラのように歪なタコの足を引き摺っている。わたしは水を含んだ布をアズールに噛ませ、なけなしの魔力を全て身体強化に回して布に包んだアズールの体を背負う。

「おのれ……何という屈辱……絶対に許さない……地獄を見せてやるからな……この僕手ずから……必ずだ……」
「呪いの人形を背負ってるみたいなんでやめてもらえますか」

一人だけでも、さっさと海にでも転移してしまえば良かったものを。一度身のうちに収めたものには甘さの抜けきらない、可愛い人だ。肩口に乗った腕に軽く頬擦りをして、乾燥して皺の寄ったタコ足を抱えなおした。
川の筋は濃さと太さを増して、灌木の茂みの数も増えてきたように思う。この丘を越えた先に水源があると良いのだが。
一歩一歩は確実だが歩みは遅く、このまま歩き続けたところで現状が良くなるという保証は全くない。月明かりはただ青く、夜は震えがくるほどに凍えている。砂丘の冷たい金色は美しかったが、それはきっと死の近さと同じことだ。背中に感じるとく、とくと脈打つアズールの鼓動と、乾いて萎びたタコ足の感触だけが微かな温もりを帯びている。

「あなた、東の国の生まれでしたね」
「そうですけど」
「万が一、いえ億が一の事ですけれど、僕は周到かつ謙虚な魔法士なので先に言っておきます。本当にどうにもならなくなった時は僕の足を食べなさい。時間はかかりますが足は再生しますし、あなたは文化的に魚介の生食に抵抗ないでしょう」
「ぜったい無理」
「何を言っているんですか。僕が一体今までどれだけ家族を食べられたから復讐したいという魚たちの願いを聞いてやったと思っているんです。そもそもジェイドと一緒になってぱくぱく食べてたじゃないですか、カルパッチョ」
「好きな男の肉なんて食べられるわけないじゃないですか。そもそも、人魚の肉なんか食べたら、」
「食べたら、何だと言うんです」
「不老不死になっちゃう」

アズールが、はあ、と、へえ、の間のような間抜けな声を出した。嘘ではない。故郷の伝承では、一口でも人魚の肉を喰えば死なず老いず、八百年、いやそれ以上の時を生きる何かになってしまうというのだ。わたしにも人生プランというものがある。できればあと六十年後くらいに海の見える街に建った家の白い壁の部屋の花柄のシーツの上で死ぬ予定であるので、今更プランの変更は受け付けられないのだ。

「く、ふは、ふふふ。おっかしい。人魚を食べたくらいで、不老不死になんかなれるわけないじゃないですか。確かに僕らは人間よりは丈夫で魔力量も多いですけど、ふはは」

くつくつと笑うアズールの呼吸に厭な喘鳴が混じる。魔力が少なくなってきたことで、変身を維持できなくなってきたのだ。完全に鰓が戻ってしまえば、地上で長くは生きられない。
絶対に、生きて帰ったら貯金の全てを叩いて魔法石を買おう。純度の高い、ブロットをしこたま溜めても保つ石を。じわじわと心と視界を蝕む絶望を飲み込んで、青白い月を睨み付けた。

「ふふ、でも、そうですねえ、もし、僕の肉でおまえが不老不死になってしまったら……一生をかけて、作りましょう。第五元素、エリクシール、賢者の石……錬金術は大得意なので。そうしたらあいつらも道連れだ……ふふふ、楽しいですねえ」
「ほんと、性格悪いんだ」

砂礫を踏み締める音がやけに響く。ああ、わたしではやはりあなたを助けられない。一際高い丘を越えた先にあったのは、やはりどこまでも乾いた砂の大地だった。見渡す限り、どこにも水は見えない。砂漠の終わりも、また無い。黒ぐろとした川の跡、まばらな灌木の茂み、ただそれだけが冷たい月明かりにぼんやりと浮かび上がっている。
無理やりにでも、まだ魔力のあるうちにアズール一人を転移させれば良かったのだ。置いていかれるのが恐ろしくて、アズールの見せる甘さが嬉しくて、その浅ましい心のせいで何もかも取り返しがつかなくなってしまった。


絶望が、両目から涙になって溢れてくる。


「……海だ」

薄紫色の指先がわたしの頬を撫で、涙の滴を掬いとる。視界の端で、その滴をアズールがくちに含むのが見えた。

「海に涙をこぼすとね、薔薇色の煙が立つんですよ。……たちまちに常の如すきとおり、清げにも海はのこりぬ」

夜空を裂くように、アズールの指先から閃光が迸った。それは高く高く、月よりも眩い光を放ちながら真っ直ぐに空を駆け上がる。

「身のうちに海のあるものならわかります……ほら、もう、来た」

ぽろぽろと溢れる涙を染ませるように、膝をついたわたしの頭を掻き抱きながらアズールが囁いた。忌々しい青い月を背に、二つの影が一路こちらを目指して飛んできている。



(ツイステッドワンダーランド 200614)



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