終焉 | ナノ




「んんん?」

教訓、人から貰った菓子を考えなしに食べてはいけない。
何時ものように果物の缶詰と調味料、その他諸々の食品に新作の食器のカタログを納品しにモストロ・ラウンジを訪れ、そこでジェイドに捕まって試作したという菓子を貰ったのだ。見た目は普通のチョコブラウニーで、変な味もしなかったように思う。その後の記憶が一切ないことを除けばブラウニー自体に異常は無かった。
とりあえず首を巡らせ、置かれている状況を確認する。薄紫と青を基調にしたタイル張りの床と壁、クリーム色の猫足のバスタブには真鍮のシャワーヘッドが付いていて、同じく真鍮製と思われるコックにパイプで繋がっている。銀色の置き型の棚にはあまり見かけないメーカーのソープと、ヘドロのような色の液体が入った瓶。少し広めのシャワールームは、もしかしなくてもオクタヴィネル寮の一室だろう。服どころか靴も身に付けたままで、わたしは水を張ったバスタブに沈められていたのだ。死んだらどうしてくれる。

「ジェイド。いますか、ジェイド」

とりあえずバスタブに沈んだまま、そっと声を出してみる。心からの確信を持った呼掛けだった。名探偵でなくてもわかる、犯人はお前だ。

「あ、起きたあ?」
「ジェイドじゃない」

シャワールームのドアを開いたのはジェイドではなくフロイドだった。薄暗いシャワールームに慣れていた目が、急な明かりにチカチカと瞬いた。後光が差したフロイドは、多分何時ものように笑っている。

「あの、わたし帰りますんで」
「うん、ヤドカリちゃんそー言うだろうからって。だからねぇ、オレは見張り!」

花丸の笑顔で言われては毒気も抜けようと言うものだ。マジカルペンを弄んでいるところからして、無理やりバスタブから出ようとすれば魔法で昏倒させられる可能性もある。わたしは大人しく冷たい水の中にまた腰を下ろすことにした。

「あの、わたし何で水に浸けられているんですかね」
「んー……マンドラゴラ、植え替えるじゃん?」
「はあ、マンドラゴラ」
「あれさあ、チョーめんどいんだけど、土落として、水に入れて育てたりすんだよね」

もしかして水栽培の話だろうか。奇妙な生態と奇怪な見た目で有名な草は主に魔法薬の材料や民間療法によく使われるのでうちの会社でも乾物取引ランキングの上位にいつも食い込んでいる植物だ。あれも一応球根みたいなものなので、水栽培に適しているのかもしれないが、それが今の状況とどう関わりがあるのだろうか。

「水入れてー、栄養剤垂らしてー、日当たりのいいとこに置いとくとさあ、あいつら新しい顔生やすの。面白くね?」

わたしはざっと蒼褪め、バスタブの縁を掴んで勢いよく外へ飛び出した。水が跳ねてタイルの床が濡れる。慌てて服の上から足や腰をまさぐるが、どこにも異常は無いようだった。

「あは、小エビちゃんみてー。おもしろ」
「……いやいや、面白くはないでしょう」

一体全体ナイトレイブンカレッジでは何を教えているのだ。道徳と倫理は必須教養じゃないのか。ぎり、とフロイドを睨むが、当の本人はどこ吹く風でへらへらと笑っている。わたしを部屋から出すなと言われただけで、それさえ阻止できれば他のことをする気は無いのだろう。
わたしはとりあえず服と髪を絞ることにした。びしょ濡れなので気休めにもならないが、これがただの水ではない可能性もある。知らない間に別の生き物にされていたなんて、笑い話にもならない。

べちゃべちゃに濡れた靴をどうしようか考えて、結局脱ぐことにした。靴下は固く絞ってバスタブの縁に貼り付ける。頭から爪先までずぶ濡れだと無条件にみじめな気分になってくるから不思議だ。これもまた哺乳類の本能であろう。
フロイドは相変わらず薄っすらと笑いながらバスルームのドアにもたれかかっている。モストロ・ラウンジの制服でもあるオクタヴィネルの寮服姿なのは恐らくこれから店の方に出るからだろう。ジェイドとフロイド、一体どちらが御し易いだろうかと考えて、ぐったりと体から力を抜いた。どちらもわたしが太刀打ちできる相手ではない。綺麗に掃除されたタイルの上に体を投げ出すと、にへ、とフロイドが口角を歪めた。獲物が抗う気を失くしたことに気が付いたのだろう。

「そーそー。ヤドカリちゃんはいいこだねえ。オレね、今日はジェイドのお願い何でも聞いてやりてー気分なの。だから大人しくしてた方がいいよぉ」

今すぐ気が変わってくれたりしないかなと思いながらぴかぴかに磨かれた革靴の先をぼんやりと眺めていると、バスルームのタイルを伝ってゴッゴッと重たい足音が響いてくるのに気が付いた。体幹もしっかりしているし筋力も申し分ないのだが何せ重さがある、という感じの。わたしが思わず扉の方へ目を向けると、フロイドも同じようにバスルームの入り口から半身を乗り出して部屋の入り口であろう方向をじっと見ていた。

「フロイド、お待たせしました。……ああ、目が覚めてしまったのですね。相変わらず丈夫な人だ」
「おかえり、ジェイドぉ。ヤドカリちゃんはいーこにしてたよ」

ぱたぱたとフロイドが扉の向こうに消えていく。二人揃ってしまったのでもう逃げ出すのは不可能だろう。白い貝殻の破片が埋め込まれた天井のタイルをぼんやり眺めながらイチャイチャと情報を共有し合う双子の声を聞いていると本当に何故こんな所でずぶ濡れになっているのかよくわからなくなってくる。

「じゃあオレ、ラウンジの方行ってくるねぇ」
「はい。気を付けて」

ばたん、と少々乱暴にドアを閉める音がして、重たいのに軽やかという形容し難い足音が廊下を遠ざかっていく。シフトの交代だったのだなと思いながらバスルームの入り口に目を向けると、白と紫の明かりをともした部屋の向こうに馬鹿でかい影が差した。ジェイド、と声を掛けようとしてギョッと目を剥く。

「公序良俗に反する!」
「バスルームで裸になるのに何の問題が?」

いや裸っていうか。オクタヴィネル寮の制服をいつもきっちりと着こなしているジェイドからはボウタイひとつ取っただけでも見てはいけないものを見ている気分になるというのに、今は三つはボタンの開いたシャツ一枚にシャツガーターだけ、かろうじて下着は身に付けているものの手袋も靴下も無しで何とも露出面積が多い。
普段ならこれだけガタイが良い男の裸が見られるのはラッキーだとすけべ心も起きようというものだが、相手は何せジェイドだ。その後で何をされるのかを考えるとすけべ心も塩揉みキャベツになって消えようというものである。

「一体、どうしたって言うんですか。下手したらナイトレイブンを出禁になるどころか淫行罪で捕まりそうなんですけど」
「ふふ。バレたら、のお話でしょう」

シャツを脱ごうとしてガーターが引っかかり、ジェイドが普段より少し乱暴な仕草で腿の金具を剥ぎ取った。ベルトがシャツの裾から垂れ下がってだらりと尾を引く。ボタンを全て外し、肩の動きだけで布地から逃れようとする姿は羽化しようとする蝶のように美しかったが、その実この男が啜るものは花の蜜なんかではあり得ないのでわたしは恐々とその不吉な脱皮を見守るだけだ。
とうとう下着だけの姿になったジェイドがボクサータイプのパンツのゴムに指を掛ける。灰色の布地が白い肌を滑り、ジェイドのウツボちゃんが惜しげもなく露わになってしまった。年齢の割に色素沈着のないそれはちゃんと先が剥けていて、如何にも出来上がって間がないといった皮膚の色とあまりにアンバランスだ。

「えっち」
「いや、見せ付けてるのはそっちですからね」

ふと屈み込んだジェイドが人差し指を伸ばし、器用に一本だけでわたしの濡れたシャツのボタンを外していく。全て外れたところで首の後ろを掴まれ、シャツを剥ぎ取られる。ジェイドが羽化のようにシャツを脱いだのに比べて、鶏の胸肉から皮を剥がすような粘ついた動作だった。
脇の下に腕を入れて持ち上げられ、またバスタブに逆戻りさせられる。ぼちゃんと水が跳ねてまたズボンが湿っていく感触がした。また濡れてしまった。そのうち皮膚がふやけすぎてウミウシのような生き物になったりしないだろうか。ぼんやりとジェイドの奇行に流されてここまで来てしまったが、本当に一体何なのだと問い質そうとした瞬間に上からまた水が降ってきた。雨ではないならシャワーである。

けぶるお手軽な瀑布の向こうで、ジェイドの白い裸体がでろりと溶けたように見えた。一度不定形の何かになったそれがバスタブの中にぼたりと垂れて、瞬間握り締めたガマの穂のようにぶわりと嵩を増す。ぬる、とぷる、の境目のような奇妙な肉の感触には覚えがあった。これは人魚の、しかも鱗がごく小さく、ほとんど蛇の皮のようになった特殊な種族の人魚の尾鰭だ。
ずるずると腹の上に伸びてきたそれを、咄嗟に掴んで抱き寄せた。ジェイドの行為の意味はわからないが、理由なら理解してやれる。
どんどん水嵩を増すバスタブの底で、青緑色の巨体に押し潰されながらぐねぐねと動き回るそれを掻き抱く。広い海の底でならぬるりと逃げられてしまうだろうが、幸か不幸かここは狭いバスタブの底で、尾鰭の質量は膨大だった。
ごぶ、と口の端から泡が立ち上る。じわじわと体から新鮮な酸素が失われて、ゆっくりと死んでいくような感覚が妙に新鮮だ。滑らかな琺瑯の床に頭を預けながらシャワーに叩かれる水面を眺めるのは、海の中から雨を眺めるのに似ているだろうか。

「すみません、あなたが人間なのを忘れていました」

ざば、と首根っこを掴まれて水から引き上げられた。もう二度と酸素が運ばれて来ないだろうと思っていたらしい心臓が急な稼働に驚いて変に脈打っている。激しく咳き込むわたしを、ジェイドが落胆と困惑の中間のような妙な表情で眺めていた。
ざあざあと落ちるシャワーのコックをジェイドの水掻きのついた指が捻って閉じる。青緑色の模様の付いた肌、金色の雲母の模様、所々に生えた薄く膜の張った鰭、長い長い人魚の尾。海辺ではまるで神かそれに近い美しい獣のように見えた姿も、クリーム色の琺瑯のバスタブの中では滑稽ささえ感じさせるのが少しだけ哀れだった。
わたしが尾鰭を抱いているので、背中を丸めた少々無理のある体勢のままジェイドがじっとこちらを見ている。まことに残念ながら目と目が合えばすべてわかるようには出来ていない。鯨には歌が、鳥には囀りが、そして人間と人魚には言葉が必要なのだ。

「なにか、寂しいことでもありましたか」
「……寂しい?」
「人に触れたいだとか、そういう時はね、大体の人間は寂しい時なものなので」

お前は牛じゃないのかと訊ねられた山羊のような顔でジェイドが小首を傾げた。胸に抱えた尾鰭は相変わらず人肌を探るように細かにうねっている。重たいドレープのかかったドレスでもたくし上げるように尾鰭を耳元まで引っ張り上げた。元からびしょ濡れなのでジェイドの粘液も大して気になるものでもない。

「それか、悲しいこととか、嫌なこととか」
「かなしい……」
「疲れたりしてませんか」

尾鰭の先端がぺちぺちと耳元を叩く。平たくなっているので意外に音が響くが、別に痛いわけでもない、子猫が無意味に尻尾をぱたぱたと動かすような動作だった。普段が普段だけに甘言を弄してくる印象が強いが、種として本来は言葉を尽くすよりもスキンシップを好む性質なのかもしれない。

「ありません」
「え?」
「そんな事実はありません」

ジェイドの尾鰭が太さに似合わぬ器用さでわたしの腕を振り解き、べちんと正面から顔に貼り付いた。ぬるっとしているのを除けば冷たいアイマスクのようだ。妙に顔の凹凸にフィットする。

じゃあこの茶番は何なのだ。
尾鰭を除けて問い詰めてやっても良かったが、生憎と慈悲深いのは海の魔女だけの美徳ではない。わたしは尾鰭を剥ぎ取る代わりに、バスタブの縁に乗っていたジェイドの少し爪の鋭い指先を包むように掴む。言葉が要らないというのなら仕方がない。可愛い人魚のお気に召すまま気の向くままに何時までも二人で沈んでいよう。願わくば、わたしがウミウシになる前にバスタブから引き上げてくれるといいのだが。



(ツイステッドワンダーランド 200523)



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