終焉 | ナノ




※アジーム家捏造





アジーム家のハレムには庭と呼ぶには広すぎる園庭がある。熱砂の国のありとあらゆる植物が集められ、年中何かしらの草木が花を咲かせ、中心にある池の端に造られたドームには北国にだけ咲く花や海の中にしか生らない木の実すら植えられているのだった。このドームを管理しているのはナウムと呼ばれている老爺で、これはこの身と同じハスィーであった。
仕えるオダリクが午後の短い間にだけ咲く薔薇を望んだので、少し小走りに薔薇の園へ急ぐ。庭を取り囲むように点々と建てられた白い四阿は青いタイルで装飾された廻廊で繋がれ、それぞれがオダリクたちの住む邸に続いている。サイードの妻たちはもちろん、父祖や兄弟の寡婦、そして次の当主へと引き継がれるべき女たちを際限なく呑み込んで、もはや一つの国とでも呼ぶべきアジームの庭はこのひと月というもの盛りの花の他に色とりどりの布を絶やさない。常にどこかの邸で管楽の宴が催され、空が赤く燃えるほどに香を焚き、夜ともなれば星も落とさんばかりに魔法の花火を打ち上げるのだ。ハレムの花たるオダリクや貴きアジームの一族ばかりでなく、われわれ奴婢までもが常に薄っすらと酩酊したような心地で過ごしている。

暦が安住の聖なる月に変わる頃、熱砂の国には雨の降らない季節が訪れる。砂漠では砂塵を巻き上げる火と空気から生まれた魔神が荒れ狂い、太陽に灼かれて命を落とす者すら出る季節。その月の始まりと共にアジーム家を継ぐ者はこの世に生を享けた。齢を重ねるたびにその日を祝う布の色が足され、新たな花が植えられて、その生を言祝ぐ歌が捧げられ、それがもう今年で十二回目になる。
西のオアシスから吹く冷えた風が廻廊に吊るされた色鮮やかな薄絹をぶわりとはためかせる。まるで巨大な極彩色の鳥が翼を広げたかのように、南北に伸びる廻廊全ての布がひらひらと音もなく舞っている。廻廊の白い石の床をひたひたと走り、香の焚き染められた布の海を掻き分けた先に薔薇の園はある。野趣あふれる一重の野薔薇から十重二十重に花弁を重ね、自らの重みで容易く崩れて落ちるような脆く儚い人工種まで。その中で最も花の盛りが短いのがわがオダリクの望んだ薔薇であった。わがオダリクは八つの歳にこのハレムへとやってきて、それから八年を経て初めての子を孕っている。サイードは子のあるオダリクにはこの庭の女主人の許しを得て日に一度、何でも望む花を一輪捧げることを約束したのだった。

崩れやすい花の茎を少しずつ爪で削って切り落とす。ここでは奴婢は刃物を持つことを許されていない。靭い植物の葉から取った紙に水を含んだもので薔薇の茎を包み、元来た廻廊へと引き返す。中天を過ぎた陽は熱く、中庭の何もかもを白々と灼くのだ。

突然、東から熱い風が吹いた。
オアシスの中心にあるこの街の、水源に建てられたアジームの家に熱風が吹くことは殆どない。魔神の吐息と見まがう風は一際分厚く薄絹と羅紗に覆われたアーチを蛇のように舐め、ぶわりと極彩色の布を巻き上げた。街の娘が一年をかけて金糸で刺繍を施した、贅を凝らした布をまるで馬車の幌かのように日除けに張り巡らせたアーチはこのハレムの女主人の邸に繋がる門である。
ごうごうと翻る布の波の奥から、金の足輪をつけた爪先が音もなく現れた。

白い爪に薄っすらと紅が差し、濃色の肌にその際から白い蔓草の模様が肌の一面を覆うように所狭しと伸びている。太陽と月、天翔る鳥と再生の花、ありとあらゆる吉祥の証がらせんと渦を巻いて足を上っていき、ごく薄い紗を重ねて作られた上衣の裾模様と重なっていく。うすぎぬに銀糸で縫い取りがされた上衣は日差しの中に身体の線を浮かび上がらせている。同じうすぎぬで作られたターバンから溢れる髪は月よりも冷ややかな銀色だった。

ーーハーヌム!

この庭で銀色の色彩を持つ者は一人しかいない。この庭の女主人、次代のサイードの母。邸について身辺の世話をするジャーリヤの他の奴婢は顔を上げたまま御前に出ることすら憚られる生きた月だった。
のろのろと膝をつき、薔薇を前に差し出して叩頭する。打たれるならそれもいい。齢十二を数え、この月に成人の儀を終えた次代のサイードは過去に何度も何度も死にかけている。もちろんその母も。この庭の支配者たる貴い月が他の邸につく奴婢に顔を見せないのは無闇に死人を出したくないからだ。蠍はどこにでも現れて針を刺し、蛇は思いもよらぬものを使って毒牙を突き立てるのだから。

「それは薔薇か?」

ハッとして思わず顔を上げる。ハーヌムではない。まだ声変わりの終わらぬ、子供の声。では、これは貴き月ではなく、いずれ昇るはずの太陽。
極彩色の中で、銀と黒に縁取られた子供が鉱物質の瞳でこちらを見下ろしている。冷えた色彩の中で、瞳だけが冴え冴えと紅い。まるで濃色の琥珀のようだ。燃えるようなのに、驚くほどに冷ややかな視線はこの世ではなく、遠く幽かな地を見通しているかのようだった。
淋しいほどに美しい、ただの一頭しかこの世にいない獣のような目だ。

「下がっていいぞ」

足先と同じように白い模様に覆われた指先が無造作に崩れやすい薔薇の首を掴む。それが死に至るきっかけだったのだろう。見る間にはらはらと花弁は崩れて、さりさりと塩が鳴るように石の床に落ちていく。太陽の指先は細くしなやかだったが、爪のふちが黒ずみ、皮は罅の入って微かに血の滲みすらあるように見えた。
毒だ。この子供の身のうちにはまだ毒がある。

「おそろしいか」

さり、と最後の花弁が地に落ちた。
しずかで恐ろしい、轟くような声なのに滴るように幽かだ。紅い瞳の奥に、何か、この上なく美しく叫びたいほどに悍しいものを見た気がして、地に落ちた花弁を毟るように掴むと脱兎のように庭の奥へと駆け出した。どこか、どこでもいい。できるだけ遠くへ。
走りながら強く握った花弁を下腹へ押し付ける。もう記憶に無いほど幼い、遠い昔に失った、無いはずの何かが脈打ち、そこに地獄のような熱が燃え上がる。

神よ!と裡で何かが叫んだ。神よ!神よ!神よ!赦せよ、と鐘のような叫びが響く。なつかしき神よ。見知らぬ父のように光が腕を広げ燃え盛るこの身を抱きとめる。
ああだが、今その神はなんと紅い目をしていることだろうか。



(ツイステッドワンダーランド 200506)



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