終焉 | ナノ



※捏造




その薬は最悪の味と臭いがした。
牛乳を拭いた雑巾と野良犬をバルサミコ酢で丁寧に煮込んだ後にむりやりミントで清涼感を持たせたような臭いと、履き古した革靴から取った出汁に腐った生魚と痛んだ塩漬けキャベツをまぶしてオートミールに混ぜ込んだような味の、もう一生口に入れたくないような薬だ。ひと月くらいは夢で魘されるかもしれない悪魔のカクテルは、しかしその試練に見合った素晴らしい効果を齎した。即ち、わたしを人間から人魚へと変身させたのだ。

「やべえ。ちょーウケる」
「……ふく、」
「ジェイドの方がムカつくんですけど」

ふるふると尾鰭の先まで揺らして笑いを堪えられるくらいならフロイドのように最初から大爆笑していてほしい。わたしだってまさか自分が人魚になった時にこんな姿になるとは微塵も思っていなかった。人間界での人魚のイメージは、透き通るような白い肌に美しい声、すらっとした尾鰭と色とりどりの鱗の美しいマーメイドなのであって、心に健全な女児がいるなら誰だってその姿に一度は憧れるものなのだ。

「シーラカンス……正確に言えばラティメリア・カルムナエですね。鰭の色が濃い青なので」
「ぶっは、やべ、化石じゃん!!」

フロイドがわたしの尾鰭を指差してげらげらと笑う。尾鰭と同じく薄っすらと青色を帯びた肌に水掻きのある指、胸の膨らみはあるが乳首も臍も無くなったのは人魚が卵生だからだろう。腰の辺りに鰓があって、その下からぐっと肌の色が濃くなり、指先から爪が生えるように鱗が連なっている。鰭は背に二つ、腹に三つ、尾の先に一つ、腕を含めて合計八つ。泳ぐ感覚としては足首から先だけを動かすのに似ている。あまり可動域は広くないようで、スピードもあまり出せなさそうだ。ゆったりと泳ぐ。長い時を生きる。絶滅種の裔、生きた化石。人間を別の生き物にする魔法薬は、本人の資質によってある程度形態に差が生まれると言うが、わたしのどこに化石になる資質があったのだろう。

「あまり広範囲を泳ぎ回ったり、高度を変えない方が良いですよ。ラティメリア種は水圧と水温の変化に弱いので、下手をすれば死にます」
「死んだ化石になっちゃうじゃん」
「絶対ここから動かないからな」
「おや、アズールのご両親に会いに行かなくて良いんですか?」

ぴる、とわたしの鈍重そうな尾鰭が怯んだ。そうなのだ、あれほど不味い薬を我慢して飲んだのも、海の中にいるアズールのご両親にお付き合いの報告をするためなのだ。息子さんとお付き合いをさせて頂いております、もちろん結婚を前提に。わたしは恐る恐る魔法薬を調合した本人であるアズールを振り返った。醜いとまではいかないが、魅力的とは言いがたい。愛嬌はあるが、美しさはさほど見出せない。アズールはこの姿を見て、一体どう思った事だろう。

「おやおや、女性の尾鰭に許可なく触れるのは不躾ですよ。うふふ」
「あは、アズールったら怒られちゃうよぉ。ねえジェイド?」
「ええ、フロイド」
「うるさい。変身薬に不備がないかのチェックです。アフターケアですよ」

憮然とした表情のアズールが何本かわたしに腕を絡ませ、ゆっくりとサンゴ礁の奥へと引きずっていく。ウツボの双子は追ってこようとはせずに、こちらに向けてひらひらとそれぞれ右手と左手を振っていた。こういう時のアズールの扱いをよく心得ているのだ。

サンゴ礁の奥は切り崩したように深い崖になっており、その底に巨大な生き物の骨が風化して複雑に地層に埋もれているような、少しおどろおどろしい雰囲気の洞窟が口を開けていた。アズールが慣れた様子で海藻を掻き分けているところを見ると、昔からの隠れ家なのかもしれない。
洞窟の壁面には虫のような細かな生物が繁茂しており、柔らかなネオンブルーに発光していた。人魚になると暗視能力が身につくのか、そんな微かな光でもアズールの姿はよく見える。アズールは、ひょんなことから高価な宝石を手に入れた時のような、難しい商談を成立させた時のような、カロリー調整を経て大量の唐揚げを目の前にしている時のような、隠しきれない喜びに打ち震えていた。

「あの、アズール?人魚の姿、どうかしら……」

まだ上手く泳げないので、アズールの腕を支えに鰭を捻ったり捩ったりしてみる。白い斑点のあるこの尾鰭は、やはり早く泳ぎ回るためのものではないらしい。

「……ふは、最高、最高ですよ、あなた。僕が見込んだだけの事はある。まさかこんな、ふふ、あははは!」

ふるふる震えていたかと思えば今度は高らかに笑い始めた。発作のようなものなので暫く待てば治る。アズールの八本の腕は相変わらず、鰓を塞がないようにしながら器用にわたしの肌の上をぺたぺたと這い回っていた。アズールはタコ種なので、腕の先にも感覚器官が備わっている。触れればわかる、味も匂いも。尾鰭の先の方は鱗が硬いらしく、アズールの腕が触れてもほとんど感知できない。腹の辺りを撫でていた腕の先を指で弾くと、機嫌良さげにうねうねと揺れる。鼻歌でも歌っているような仕草だった。

「僕には何もできない愚かで弱い生き物を飼っておく、ジェイドのようなナンセンスな趣味は無いんです。だから、……だから、ほんの少し薬に混ぜ物をしようとか、そういう事は考えたくなかった。速く泳ぐ魚に、僕は追い付けない。……まあ、追い付けないならそんな鰭は奪ってしまえばいいんですけどね」
「最初から可能性を潰して、思い通りの未来を描くのはあなたの十八番でしょう?」
「嫌だな、いつからそんなに意地悪になったんです?契約はフェアじゃないと意味がない」

アズールがにっこりと笑う。嘘付き。最初から真にフェアな契約など存在しない。リスクを承知で、それでも利益を得ようと躍起になるのが契約だ。互いに利すればよし、そうでなければ戦いだ。
わたしは散々アズールにこれはあなたばかりが有利な契約で、わたしに失うものは多くてもアズールが損をすることは無いのだとこの十年近くこんこんと説いてきたつもりだったのだが、アズールのトラウマは存外根深いらしい。それか元々の性格の為せる技か。
何にせよこの尾鰭は大層アズールのお気に召したらしいので、わたしはこれ以上自分の鰭について考えるのはやめた。絡み付いてくる腕をいなしてアズールの方へ手を伸ばし、波に揺れるシルバーブロンドを指に絡める。艶やかな髪の冷たい感触は陸でも海でも変わりがないように思えた。

「人生で一番重たい契約をするのに、フェアじゃないのは可哀想だから教えてあげよう。わたしはもう一切合切の全てをある人に渡してしまって、実はもう他の人に差し出せるものなんか何も残っていないんだよ」
「……ふふ。何です、それ」
「だから安心してね、債権者さん」



惚れた弱みというやつで(ツイステッドワンダーランド 200501)



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