終焉 | ナノ




"人間の一生は、かえって、わたしたちの一生よりも短いんだよ。わたしたちは、三百年も生きていられるね。けれども、死んでしまえば、わたしたちはあわになって、海の面に浮いて出てしまうから、海の底のなつかしい人たちのところで、お墓を作ってもらうことができないんだよ。わたしたちは、いつまでたっても、死ぬことのない魂というものもなければ、もう一度生れかわるということもない。"




夏至から数えてふた月めの盛夏の祭りは死者のための祭りだ。遠い昔に死の国へと去っていった人々が凍れる河を渡り、懐かしい人たちのもとへと帰ってくる日。
刺すような日差しの中、人々は花を飾り、香木を焚き、色とりどりの服を着て三日の間踊っては酒を飲み、笑い合って過ごすのだ。挨拶にやってくる人たちと手を重ね、リズムを合わせ、パートナーを次々と変えては踊り狂う。もう何人と踊ったのかも分からなくなった頃、ふとあなたの前に影が立つ。優しく笑って挨拶を返すといい。必ず懐かしい目の人と会えるから。

盛夏の祭りのこの時期、一番暇なのは本屋だ。祭りの間の三日間、パンと肉とワインとダンスのことは考えても本を開こうと考えるやつは誰もいない。それでも店を閉めずにいるのは、死者が帰ってくるのを待っている母親のためだった。足を痛め、踊ることのできなくなった今、彼女は夫がこの店に現れると堅く堅く信じている。
だからよりによって初日の朝方に店に人影が現れた時、わたしは情けなくも挨拶すら忘れて立ち尽くしてしまったのだ。青い瞳、プラチナブロンドの波打つ髪に幼ささえ残る頬の線。父の顔を知らないわたしは、それが死者なのか生者なのかすら判別できなかった。

「騒がしい街ですね。この街は何時もこうなんですか?」
「……旅の方?どうぞいらっしゃい。いいえ、今日から三日は盛夏の祭りでね、とりわけ騒がしいんですよ」

わたしが招き入れる仕草をするのに合わせて丁寧に店の扉を閉めた青年はふしぎな身なりをしていた。生成りのシャツは長い間風雨に晒されたようにゴワゴワで、随分と形も古いようだった。青年にはどう見てもサイズの大きすぎるシンプルなズボンを穿いていて、靴だけがおろしたての様に新しく装飾的だ。荷物は何も持っておらず、上衣すら着ていない。怪しいことこの上ないが、その物腰には困窮の影が一切見えない大らかさがあった。詐欺師かもしれないが、物盗りではない。狼かもしれないが、飢えてはいない。そういう印象を与える青年だった。

「旅をしているわけではないんですが、この街に来るのは初めてですね。僕は、書物を探しています」
「なるほど、どんなジャンルでもお任せあれ。うちはこの街で唯一の本屋だからね」

新入荷の恋愛小説を棚から取り上げて片目をつぶると、青年は困った様に軽く笑った。

「事典、というものが欲しいんですが。できればなるべく平易なものがいい」
「事典?」

意外な注文に一瞬呆気に取られるが、外国からでもやって来たのだろうと事典の詰まった棚に向かう。数冊選んで抜き出したものをパラパラと捲って確かめた青年が購入したいと言ってきたのは選んだ中では一番低年齢向けの事典だった。平易すぎはしないだろうか。わたしは少し意外に思いながら、百科事典の値段を告げる。青年が差し出してきたものを見て、思わず声を上げてしまった。

「アトランタ金貨!」

海の中にある伝説の人魚の国から王妃を得たという海辺の小国が建国記念に鋳造した金貨は一昔前にはこの辺りで一番価値のある貨幣だった。今はマドルという統一された貨幣があるが、この金貨に莫大な価値があることは子供でも知っている。

「あんた、こんな日にこんなものを不用意に見せちゃ駄目だよ!しまって、良いからついて来て!」
「痛、ちょっと乱暴ですよ、どうしたって言うんです」

どうしたもこうしたもない。わたしは金貨を青年の手に固く握らせ、ゴワゴワのシャツの上からオウムのように派手なストールを巻き付けた。シンプルな格好はこの時期逆に目立つ。
祭りの間は店を離れてはいけないと散々母親に懇願されているが、アトランタ金貨を裸で握り締めてやって来るような青年をこの祭りの最中に放り出すわけにもいかない。祭りの最中は全てのことが曖昧になる。死者が生者に、生者が死者に、誰も浮き世の泡沫に気を払わない。例えそれが普段街で犯罪を取り締まっている警邏であってもだ。

「この先の裏路地に目の確かな質屋がいます。うちじゃそいつに見合うだけのお釣りは払ってやれないんでね。ここであなたを放り出すのは寝覚めが悪いし、ついて来てもらうよ」

質屋と金貸しを同時に営むシャイロックじいさんは、珍妙な客からアトランタ金貨を受け取ると同時に何時も根が張ったように座り込んでいる椅子から哀れにも転げ落ちてしまった。小柄なじいさんを慌てて床から助け起こすと、じいさんはそそくさと金庫の中からマドルの束を取り出して青年の前でバラバラと捲りながら数え始める。換金額としては多くも少なくもない、キッチリ相場分だ。シャイロックじいさんのこういう抜け目のないところをわたしは信頼している。

「どうやら僕は相当な物知らずらしいですね」
「今更気付いたのか。この時期、街は浮かれ放題だからね。狂騒に誘われて掏摸や押し込み、喧嘩に火付けなんかもよく起こるから気を付けた方がいいよ。その札束も無闇に見せちゃダメだ」

わたしが手元を指差すと、青年が持ち歩くには明らかに多いマドルの束を無造作にズボンのポケットに押し込んだ。未だにそれに貨幣価値があることをあまり理解していないような仕草に少し頭が痛くなる。

「……ぼったくりも横行してるからね。本当ならこんな日にあなたみたいな旅人がこの街を歩かない方がいいんだ」
「一つ、提案なのですが。対価はお支払いするので僕にこの街を案内しては頂けませんか」

わたしはつい胡乱げに青年を見つめてしまった。他人には気を付けろと言ったばかりで何を言っているのだ。ちぐはぐな服を着て、オウムのようなストールを首にぐるぐる巻きにした青年は何が楽しいのかゆったりと口角を上げて笑っている。

「……お代は高く付くよ」



真夏の街路には色が溢れている。飴色の木箱に山と積まれた赤いざくろを絞って作ったジュースを青年には渡し、白い石でできた花壇の縁に座り込む。ベンチもあるにはあるのだが、そこには昼となく夜となく老人たちが腰掛けて、銘々にスパイスの山ほど入った紅茶や最早湿った砂糖と呼んでも差し支えない甘いコーヒーを飲んで会話に興じている。本屋の一人娘が見知らぬ青年を連れてそんな輪の中へ入ってしまったら格好の餌にされてしまう。
青年はとりわけ暑さに弱いようだったので、屋台で貝殻の付いた麦わら帽子を買い求め、頭に被せてやっていた。今もざくろのジュースをちまちまと飲みながらストールを引っ張って胸元に風を送り込んでいる。
青年は自分を物知らずのようだと言ったが、まるっきり文化の違う異国からやって来たとしか思えないほど彼は何も知らなかった。フォークを見てここでは櫛で食事をするのかと聞いてきたり、羊肉を焼く屋台で脂が燃えるのを見て悲鳴をあげたり。差し出された花輪を食べようとした時は流石に手が出てしまったが、仕方がないことだ。没食子のインクは蛸や烏賊の墨ではないという話から、パンは何故膨らむのかという話、管楽器が音を出すのは何故か、水に溶ける紙と溶けない紙は何が違うのか。青年は不思議の国へやって来た子供のように何かを見ては驚き、触れて、わたしに訊ねてくる。

「あれは何です。あの、青い貝殻で覆われた建物は」
「貝殻?ああ、あれはね、タイルですよ。平たい粘土の板の上にヴェトロの入った薬で模様を書くんです。それを焼くと、ああやって青い色が付くんですよ。青いタイルで覆うのはね、この国では霊廟だけです」
「……霊廟?」
「そうです。この街で死んだ者は全て一度あの霊廟に納められる」

日が落ちればその扉が開かれ、沈んだ日を甦らせようとばかりに煌々と火が焚かれるのだ。そうしてそこから、深い河を越えて死者たちが帰ってくる。

「人間は奇妙なことをしますね。泡を集めておくんですか」
「……泡?」
「だって、死ねば泡になるでしょう?」

西陽が麦わら帽子の庇の下に深い影を落とす。ああやはり、という気持ちが湧いてくる。夏の祭りの最中にはきっと死者が帰ってくる。懐かしい人たちに会いに来る。けれど、この青年は。

霊廟の入り口にポッと火が灯った。
それは次々と広場のあちこちに組まれた篝火に広がり、あっという間に燃えるような夜になった。夏の夕暮れはとても長いので、こうして火を焚いて押し流してしまわなくてはならない。

「そうか、人間には魂というものがあるんでしたね。それはどこにあるんです?見てみたい」

青年がざくろのジュースを舐めながら屈託なく笑った。次はあの店が見たい、と言うのと全く変わらない温度で、彼はそれを見たがった。青年の青い瞳が、すぐ側の篝火に照らされて不可思議な紫色に染まっている。
この青年は、死ねば泡になるのか。泡になって消えてしまって、墓標もなく、魂もなく、まったく虚しくなってしまうのか。この街の人間は、死ねば焼かれる。灰は霊廟に納められ、魂は、……魂はどこへ行くのだろう。例え荒野を彷徨い、或いは死者たちの国があってそこで遥か深い場所を漂うのだとしても、真夏の暑い日、三日の間だけ魂はこうして帰ってくる。
それは一つの救いだろうとわたしは思った。死者たちを慰めるための霊廟は、生きている者たちへの慰撫でもある。滅びることのない、不滅のもの。消えてしまわないことへの安堵。この青年にはそれがない。

「欲しいですね、それ。対価に貰い受けられるかな。ああでも、対価では弱いですね。曖昧なものを捕まえるなら、ペナルティじゃないと。いや、実際見てみないことには把握のしようもないな」

よくわからないことを言って、青年が微笑んだ。
わたしはぼんやりと、海の底に沈んでいる金貨のことを考えていた。子供でも知っている。アトランタ金貨が使われなくなったのは、この街一番の貿易商が持っていた船が金貨をたっぷりと積んだまま嵐に遭って沈んだからだ。自分たちで金を鋳溶かし、金貨を作る技術の無かったこの街でその後から急速にマドルが普及したのは必然だった。だからこの街ではアトランタ金貨には金の重さ以上の価値がつく。

青年は唇についたざくろのジュースを赤い舌でぺろりと舐めて、側にあったくずかごにコップを捨てる。パチパチと篝火の爆ぜる音に混じって、低い太鼓のリズムが夜を昇って行った。踊りが始まるのだ。誰もが色とりどりの服を着て、踊り狂う。懐かしい人たちに会いたいと、祈りのように願いのように、狂気のように踊り続ける。

「あなたは良い人だ。親切で、優しい。屋台で買ったものも結局全部支払ってくれましたし。どうせ眺めるなら、僕も美しいものがいいと思います。僕らは神というものを持ちませんが、そんなよくわからないものにご自分の魂を渡すより、僕の方が有用に使えると思いますからどうかご一考ください。その時はぜひナイトレイブンカレッジまでご連絡を。今年入学の予定ですので」

にっこりと青年は笑って、首元からストールを引き抜く。礼儀正しくそれを畳んでわたしに差し出し、麦わら帽子を取って胸元に当て、優雅な礼をした。

「必ずまたお目にかかりましょう」



受け取ったストールの下でかさりと丁寧に折り畳まれたマドルが音を立てた。きっと青年は選んだ事典を持って行った事だろう。
祭りの夜はただ緩やかに深まっていくばかりだ。




(ツイステッドワンダーランド 200428)



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