終焉 | ナノ



※捏造に次ぐ捏造




「ハロー、クイック・クリケット・クリーニングです。サインを頂いても?」
「どうぞ」

カチャリと軽い音がしてドアが開くと同時に物凄い勢いで部屋の中に引き摺り込まれた。そのままずるずると浴室まで引き摺られ、バスタブに放り込まれる。アズールがシャワーのコックを捻ると、上から勢いよく冷水が降ってきた。シャワーの飛沫で烟る視界の中でアズールが溶けるように形を変えて、懐かしい女神の姿が現れる。わたしの魔女、やっと会えた。
濡れた手のアズールにユニフォームの開襟シャツのカフスボタンを剥がされスラックスの裾を捲られる。両足首の付け根と右手の一部が変色しているのを見て、アズールが今にも泣き出しそうな、寄る辺ない子供のような表情を浮かべた。そんな顔をさせたかったわけではないのだが。珊瑚の骨、ウミウシの肉とチョウザメの皮、それにクラゲの血でできたわたしの身体は、アズールとの契約が無ければすぐにでも文字通り海の藻屑になってしまうのだ。

「もう少し早く呼び寄せれば良かった……!」
「もしもの時のためにアズールが延命キットをくれたでしょう。わたしはアズールの魔法を誰よりも信じていますから」
「限度があります……。幾ら僕でも……どれだけ努力したって、死んだ者を蘇らせることはできないんだ……冥界の主でさえ、そう、神にでもならなければ」

陸で見るアズールの瞳は海中よりも薄い色をしている。その昔海難事故に遭い、スクリューに巻き込まれて死にかけたわたしを助けてくれたのはタコの足を持つ優しい人魚だった。彼は自分の棲み家までわたしを運び、水の中で呼吸のできる薬を飲ませ、ズタズタになった手足をその十本の腕で懸命に繕ってくれたのだ。命を取り留めたわたしは、彼の提案してきた契約に喜んでサインをした。彼の繋ぎとめてくれた命を彼のために使う契約である。
元から居ても居なくても構わない、そういう子供だった。貧しい曳網漁師の家に生まれ、女であるから親方のいる船にも乗れず、月夜に人目を忍び、或いは時化に荒れた海にこっそりと出て食い扶持を稼ぐ日々を送っていたのだ。陸にも、あの生活の続きにも全くもって未練は無かった。海に投げ出され、ズタズタに裂けた手足が海中を漂って消えていく。吹き出した血がやけにどす黒くて、ああ、こんな所で死ぬのか、それは何だか、ひどく厭だと思ったことだけを覚えている。そうだ、厭だったのだ。ただ日々を諾々と、生きるために生きているだけのこんな人生で、幼いと言っていいこんな歳で、海の藻屑になって消えてしまうだなんて。

ーー可哀想に、助けてあげましょうか。

助けて!何でもする、何だって差し出す。だから、わたしに命を!……わたしの人生を!
黒い海中に輝く白銀の髪、薄紫色の肌は春に咲く勿忘草の花びらのようだ。わたしの救いは、奥底にとろりと濁りを溜めた、深い青の瞳をしていた。これが御伽噺の慈悲深い海の魔女なのだ。黒い八本の足、比類なき魔力を持った海の神話。悩み苦しむ者を救う、わたしの女神。

「アズール」

わたしの腕から緑色の腐食部を取り除きながら、アズールが目顔で返事をする。アズールの契約書が全て破棄されてしまうというトラブルから数日、ウミウシの肉はすっかり腐り果ててしまった。今度は何の肉を使うのだろう。アズールが好んで使う海の材料がわたしの血肉になる度に、わたしもアズールと同じ海の生き物になれた気がして嬉しくなるので似たような素材が良いのだが。

「命を助けてもらったのだから、対価が必要ですね。『黄金の契約書』にサインをしても?」
「……僕の台詞を横取りして、嫌味のつもりですか」
「違う、違うのよアズール。だって、今サインをすればわたしが契約者第一号になれるでしょう?それって、すごく嬉しくて」

くすくすと笑うわたしに、アズールが心底呆れたような顔をする。もちろんアズールにとっては笑い事ではないのはわかっている。それでも好きな人の初めてになりたいのは哺乳類の性なのだ、わかってほしい。
両足と右手がすっかり元の形に戻る頃、アズールが手の中で魔力を編み始めた。美しい紫色の燐光がやがて一枚の金色の契約書を形作る。わたしに千切れた手足の代わりを与え命を繋ぎ止める対価に、アズールの支配下を離れず忠誠を尽くす契約だ。
わたしは左手で濡れたシャツのポケットからペンを取り、あの頃よりは大分マシになって筆遣いで契約書にサインをした。その瞬間、身体が冷たい何かに覆われ、それが爪先から皮膚から体内へ浸透していく。動かす度にキシキシと痛む、わたしの手足を動かす懐かしいアズールの魔力の感触だった。

「暫くは痛みますよ。今回もその、海の材料を使ったので。陸の生き物には馴染みづらいんです」
「すぐに慣れます。きっと、すぐにでも。ああ、わたしまたアズールに命を貰ってしまいましたね!」

にこにこと笑うわたしに、使った器具を片付けながらアズールが呆れたような顔をする。

「全く……クレームはたまに付きますがね。僕と契約してそんなに喜ぶのは貴女くらいのものですよ」
「心の底から欲しかったものを与えてもらったのに、どうして不満なんて覚えるんです?理解できない」

だからそれはきっと、心からの望みではなかったのだ。
慈悲深くも無情な深海の魔女に縋ってまで叶えたい願いならば、例えどれほどの代償を支払ったとしてもその願いを抱いて穏やかに眠れた筈なのである。

「可哀想に、貴女は本当に哀れな人だ。命を得て、貴女は対価に自由を支払ったんですよ。……この世で最も尊いものだ」

アズールの黒い、しなやかな腕が今し方繋ぎ合わせたばかりのわたしの右手に触れる。海の中にいた時は、わたしの身体が熱すぎてアズールに長い間触れていることはできなかった。今も人魚の姿のアズールと触れ合うには冷水で身体を冷やしておいた方がいい。
バスタブの縁に腰掛けたアズールが腕を伸ばし、ぴしゃぴしゃといたずらなイルカのようにわたしの頬に水を掛けた。アズールの腕は柔らかで弾力があって、驚くほど触り心地がいい。

「自由に価値があると思うのは、自由に生きたことがある人だけだ。知らないものはいらない。いらないものは、知らなくていい。アズールがわたしを変わらず使ってくれるのなら、愚かなイソギンチャクでも構わない」
「見捨てたりしませんよ。僕は慈悲深いので」

わたしの上半身を持ち上げ、ずるりとアズールがバスタブに入ってくる。わたしはアズールの胸元に頭を預け、腕の比較的細いのを二本持ち上げてマフラーのように首に巻き付けた。
ナイトレイブンカレッジは閉じた学び舎だ。暗い海底の洞窟で一人、魔法の基礎を煮詰めていた頃のアズールと本質は何も変わらない。更にもう一本アズールの腕を絡め取りながらバスタブに横顔を埋めた。慈悲深い海の魔女は支配者になりたがった。愚かな人魚姫は、きっとその実、何も望んではいなかったのだ。陸に行きたい。何者の支配も及ばない場所で、ただ歩いてみたい。誰もが褒め称えた彼女の声と引き換えに足を望むことこそ彼女の最初の自由だった。
アズールは知らない。彼がわたしに与えた自我に比べれば、奪われた自由など些細なものだ。命を救ったのではない。命を与えたのだ。だからわたしはアズールを女神のように慕い、愛している。

「清掃の仕事は楽しいですよ。網を繕ったり、漁をするよりわたしには向いています」
「それは良かった。僕にはよく動く手足が必要なんです。陸に上がったのは大変に喜ぶべきことですが、些か腕が足りなくて」

くつくつとアズールが笑う。足が欲しかった海の魔女なんて、笑い話にもならないだろうに。いつかわたしがアズールが望むだけの自由を支払い終えた日に、わたしはもう一度慈悲深い海の魔女と契約を交わすのだ。海の底を泳いでみたい。力強い鰭で、海流のうねる音を聞きながらあなたとわたしの過ごしたあの洞窟で一人眠るのだ。それが叶うならば、わたしは海の泡になっても構わないと、そう思っている。


(ツイステッド・ワンダーランド 200420)



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