終焉 | ナノ



アズール・アーシェングロットは金魚を飼っている。

もちろんナイトレイブンカレッジは魔法士養成学校であるので、寮の部屋や植物園の生徒用スペースでの植物の育成や生物の飼養、申請さえすれば使い魔として魔獣の持ち込みさえ許可されている。なのでペットとして寮の部屋で何を飼っていても、なにかの規則に違反しているといったことは全くないのだ。
そもそもアズール・アーシェングロットが大っぴらに校則を破るような真似をするとは思えない。破るなら徹底的に、前代未聞の破り方をして、校則などというちっぽけな問題では収まらない事態にしてしまうのが彼のやり方だ。そう、モストロ・ラウンジの経営を学園長に交渉した時のような。

だから、生徒たちは噂をする。あの、契約と利益が全てと言わんばかりの冷血漢が、海の底からやってきた怜悧で冷徹な男が、一体どんな顔をして金魚などというものを飼っているのか。
例えば、とても美しい品種の金魚だとか。乾かして煎じれば万病に効く薬になるのだとか。いやいや、糞の代わりに黄金をひり出すのだとか。果てはその金魚はただ一人の友達で、毎晩話しかけては母にするように甘えているのだとか、まあ、そういった類の噂だ。
アズール・アーシェングロットが普段交流している生徒たちは歯牙にもかけない、彼の才能を妬んだり、契約の対価を払えずに何らかの負債を負った生徒たちが卑屈に囁く下らない噂話である。しかし、それは実しやかに語られ、アズール・アーシェングロットの数少ない友達と言える生徒や仲間、或いは同列にあるとされている生徒たちも決して否定はしないその噂は、追い詰められた一人の生徒を凶行に奔らせる事になる。


青年は焦っていたのだ。そして打ちひしがれてもいた。
今では到底叶わぬ願いだったのはわかっている。夢を見て、夢を見すぎて、恐ろしい魔女の手を取ってしまった。心の弱さ、現実を見ることのできなかった愚かしさ、どこがどう足りなかったのかも最早わからない努力に、失ってしまったもの。自暴自棄に陥った心はやがて憎悪と憤怒に燃え上がる。
あの男、アズール・アーシェングロット。一言あの男がそれは叶わぬ夢だと、決してよい方向には向かないと言ってくれたなら。そもそも契約など持ちかけて来なければ。
怒りのままにオクタヴィネル寮の廊下を寮長室へ向けて駆け抜ける。もちろん鍵も魔法もふんだんに掛かってはいるが、そもそもが学校の寮だ。性善説に基づいて建てられた学校の扉は元の造りがあまりに粗末だった。

水中に沈められたオクタヴィネル寮では夜光性の細かな虫や、照り返しにきらめく珊瑚、繁茂した海藻の間で瞬くクラゲやなにかの光で夜でもほのかに明るい。部屋の主は夜遅いこの時間帯にも、まだ彼の経営するラウンジで売り上げの計算と戸締りをしているのだと侵入者は知っていた。
備え付けの灯りを付けなくとも、薄らと明るい部屋の中、侵入者はゆるやかに息を吐く。眠った形跡のないほど完璧に繕われたベッド、サイドボードに置かれた読みかけの本とクラゲの傘を模したランプ。珊瑚の枝の大きいものを磨いて作られた棚には分厚いファイルとくたびれたノートが所狭しと並べられている。机の上には明日の授業で使う資料、教科書。私物が収められたキャビネットは全ての段が鍵付きで、床は清潔に掃き清められている。ランドリーボックスの中のシャツさえ几帳面に畳まれた部屋は、生活という言葉から程遠い、一瞬薄ら寒いような思いさえ感じさせるようだ。

その部屋の、一番奥。窓辺に置かれた、インテリアと呼ぶにはあまりに異様なガラス瓶。大きさは胸にひと抱えほどもあるだろうか。底には砂利が敷き詰められ、そこから陰気な色の水草が生えている。置かれているのは死んで片側を毟られた二枚貝の殻、その周りに散らばる、何かの残骸?

「アズール?」

瓶の天辺に茂った水草の中から、ふわりとそれが落ちてきた。上半身がヒト、下半身が魚の生き物。白い体に不釣り合いなほどに大きな鰭、その先はほんのりと薄紅色に色付いて、きらきらと光っている。大きさは手のひらほどもない。それは長い髪を揺らし、水中でその裸体を見せつけるように身を捩った。手首と膝の先からも薄い鰭が伸びている。くるくると回るたびに薄いヴェールのような鰭の向こうでむき出しの乳房がふるふると震えていた。

「アズール?……アズールでないなら、ジェイド?ジェイドでないなら……ええと、何だったかしらね」

けらけらと人魚が笑う。口を手で押さえ、幼い少女がするように。けれどその体は女なのだ。それも、淫靡で、悍しくて、時折あのアズール・アーシェングロットが男のくせに醸す媚態に似ていると侵入者は思った。
とろりと澄んだ水の中で女が笑う。

「ああ、あなた知らない人ね。こんにちは見知らぬ人。どうしてアズールのお部屋に来たの?アズールのお友達?ちがうわね、アズールのお友達ならアズールと一緒に来るものね。そしてわたしは隠されてしまうものね。音も立たず息もしちゃいけないの。泳いでも歌ってもダメ。じゃないと引っかかれちゃうの。ご存知?鰭のところはね、やぶけやすいの。だからアズールの言いつけを守らないとビリってされちゃうのよ。あとでくっ付ければいいのだけど、わたしは泳いで歌うほかは何もできないのだもの、アズールにしてもらわないとならないのよ。アズールは器用だから、あの黒い足先で何でもこなしてしまうの。ご存知?ご存知じゃないかしら。鰭のところはね、とってもやぶけやすいのよ」

かぷかぷと女が笑う。口の端から泡が立ち上って、水草の塊の中に消えていった。女が身を捩る度に瓶の底から半透明のかけらが舞い上がる。
誰が、誰が金魚などと言ったのだ。こんな悍しいものがただのペットであるものか。

「やぶくとね、怒られてしまうのよ。わたしはこれ以外は何もしないの。歌って踊って、それだけなの。それでね、卵を産むのよ。おんなじ鰭の白い子と番うの。それで、今度はもっと鰭の色がきれいなわたしを産むの。そうしてまた歌って踊って、ねえご存知?鰭ってとってもやぶけやすいのよ。それでね、白い子を探さなくちゃいけないの。アズールが連れてきてくれるのよ。三番目の弟の五回目に産んだ卵から孵った子が白い鰭だと聞いたわ。だからわたし、もう卵を産めるのよ。鰭はとっても破けやすいから、引っかけないようにしなくちゃならないの。あら、もしかしてあなたが連れてきてくれたの?」
「違いますよ。これはただの雑魚……それに貴女たち、僕たちと同じで卵を産んだら死ぬ種族じゃありませんか。貴女の弟はオスなので卵を産みませんし、貴女は突然変異なんですから、同じ色素の個体が生まれる確率はとても低いですね」
「そうなの……?黄色と青と、赤と黒と……白はないの?」
「そのうち産まれるんじゃありませんか?貴女の三番目の弟が五回目くらいに産んだ卵とか」
「そうなのね!」

瓶詰めの女が心の底から嬉しそうにかぷかぷと笑う。楽しみだ、楽しみだと手を打って喜んでいる。床にへたり込んだ侵入者に、アズール・アーシェングロットは朗らかに笑いかけた。

「あなたが何故この部屋にいるかは大体想像がついています。その上で、今あなたが愚かなことをしたと思っていることも。後悔しているのでしょう?ですが、本当に可哀想なことに、罪は罪です。許可のない他生徒の寮室への侵入は明確な規則違反ですよ」
「やっぱりお友達じゃなかったのね、アズール。そうよね、わたし以外にお友達なんかいるわけないものね。そうよねアズール?」
「ええもちろん。僕にとって彼は友達ではない……債務者の一人であり、同学年の生徒の一人であり、可哀想に、今は貴女の餌になってしまった」
「ほんとう?!」

ざらざらと体の中から何かが砂になってこぼれ落ちる。それは魔力とか記憶とか、とにかく肉体を損なわない精神的なエネルギーの発現であることは理解できた。アズール・アーシェングロットの手の上で、抜き取られた生命力が渦を巻く。それはやがて小さなエビか、カニのような姿をとった。殻も脱ぎたての、柔らかいぶよぶよとした甲殻類。
ぼんやりとした視界の中、アズールの手が瓶の蓋を開け、その中に半透明の生き物をぽとりと落とす。

「さあ召し上がれ。そして忘れてもらいましょう」

女が歯を剥き出して、半透明のエビに噛み付いた。エビは激しくのたうつが、女の力には敵わない。柔らかな殻を剥がれ、肉を啖われ、体液を啜られ、今はもうただ屑となって瓶の底に落ちるだけだ。

「どうぞ、お帰りはあちらです。ふふ、可愛い金魚でしょう?少しね、鰭を美しくしようとされすぎて、あの一族はほとんど頭がああなんですけど、とても飼いやすくてお勧めですよ。おっと、僕としたことが喋りすぎてしまいましたね。またお困りの際はモストロ・ラウンジへ。まあ、その魂が回復した頃にお待ちしていますよ」

くぷくぷと満腹を揺らして女が笑う。それに和するような柔らかな声の響きも脳漿を揺さぶられ、操り人形のようにガクガクと歩く男には聞こえてはいない。
その頭の中を占めているのは恐ろしいものに出会う直前まで考えていた一つの噂、それだけだった。



アズール・アーシェングロットは人魚を飼っている(ツイステッドワンダーランド 200406)



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -