終焉 | ナノ

※Twitterに載せていたものと尻切れトンボいくつか。




「わたしと幸せになることは、考えられませんか」

ぽろりと溢してしまった言葉はもう取り返せない。恐る恐る向かいでラップトップのキーを叩いていた青年の方を窺うと、青年は驚くほどにあどけない表情でじっとこちらを見つめていた。

「ええと、それは、例えば、結婚をして子供を作るといったような?」

まあ、それに近しいような事だ。この国では、そうして老いて安らかに死ぬことが幸福のーつの指針である。
肯くわたしに、青年はますます寄る辺無い子供のような顔をした。

「ご承知のとおり、自分は軍事施設育ちでして」

わたしはまた肯く。何せ青年の認識票のナンバーさえわたしは知っている。

「何故ゲリラやああいった施設の人間が子供を使うのか。明白です。御し易く、洗脳し易く、簡単に替えが効くから。だから少年兵は前線に立ち、 地雷原を歩かされる」

地雷の解体とはとどのつまり爆発させることだ。 それが確実で、最も早い。犬を使うこともあるが、 犬には訓練が必要だ。適した犬種が常に補充されるとも限らない。その点、子供は。

「あの場所で、俺たちは犬よりも下等な生き物でした。使い捨ての命だった。俺は、あの施設を出たら戦場に行くはずだったんです。殺すか殺されるかしかない、汚くて、狂ってて、馬鹿みたいに虚しい、そんな場所に。俺は施設を出た。思ってた形じゃなかったけれど、ねえ、今ここが戦場じゃないだなんて、一体誰が言えるんですか?」

青年が微かに怒りを滲ませて柔らかに微笑んだ。 幸福は戦場にはない。人が殺し殺される場所に、幸せなどあるはずはないのだと、その微笑みが語っている。
あるのはただ、納得だけだ。 生きて死んだ時それを是と言えるかどうか。 高らかに笑って、終えられるかどうか。たったそれだけを、狂おしいほどに求めている。

「俺の幸福はあんたじゃない。だって、あんたは俺を救ってくれなかったじゃないか」


***


「この『いきもの』は、くじらの『したい』にだけはっせいするんですよ」

青年が手をついたドーム状の水槽の中で、その生き物はゆらゆらと、まるで海藻か何かのようにおよそ意思など感じられない姿で頼りなく揺れていた。赤い芯に白い綿毛のような繊毛を持つ原始的な生物だ。

「『くじら』がしぬと、ふかいうみに『おちて』 いきますね?おおきな『くじら』のからだは、うみの『そこ』ではとてもきちょうな『えいよう』 になるんですよ」

そうして海の底に現れた楽園を鯨骨生物群集と呼ぶ。 光さえ届かない深海の底で、腐肉の匂いに惹かれた目の無いサメやヌタウナギがその肉を食い荒らす。次にばら撒かれた肉片を食べにカニやエビが現れやがては有機質を発する骨だけになったその死骸に様々な細かな虫が繁茂するのだ……偉大なる死が作り上げる、千年の王国。

「ほねまで『くいつくされ』て、そこはいきものたちのあたらしい『すみか』になります。だから、 ちっとも『さみしく』ありませんね?たとえにどとこのうみの『そこ』からでられなくても、ぼくにはちあきや『こどもたち』がくれた『おもいで』があります。しろながすくじらよりも、もっともっとおおきな『おもいで』です。『せんねん』 でも『まんねん』でも、ぼくはきっといきてゆけます」

きらきらと、輝かしい記憶を抱いて、雪の降りしきる暗い海の底で。その身体を貪られ、骨まで食い荒らされているのは貴方自身だというのに。

ーー繁栄の底で、眠りたいのですか。

冷たいアクリルガラスに手のひらを当てたまま、 青年は薄っすらと微笑む。かみさまでも人間でもなく、ましてや化け物ですらない。青年の瞳にはーつの諦めがあった。牽かれてゆく牛や、打ち上げられた鯨や、撃たれた鹿のような、鈍重な肉に閉じ込められた知性あるものの悲しい光だ。

「いいえ、いいえ。じつのところ、ぼくはもう『いきて』はいかれないのです。ごめんなさいね、ぼくはあなたたちに『うそ』をつきました。もう、ぼくは『もえさかって』いるんです。ちあきに『ねつ』をうつされて、この、『むね』の、ここのところがくるしいんです。どうしたって、もう、『しんで』なんていられない」

ーーならば、貴方は行かなくては。ここではどんな星も見られはしないのだから。

胸を押さえてうずくまる青年に、潮吹く鯨のように美しい餞別を贈りたかったが海底を這いずり回るこの身ではとても叶わない。せめて祈ろう。
流れていく星のように、煌々と燃え盛れ。青い炎を上げて、夜空に尾を引き、熱く、熱く、海も干上がらんばかりの熱を持って。ああ、それもまた一つの偉大なる死に他ならないのだから。



***



「『花は野にあるように』?ふふ、随分と青臭いことを言うね」

ぱちん、と鋏を鳴らして巴日和が微笑う。初春の太陽のように柔らかで慈悲深い笑みであったが、 わたしは鋏の音と共に無惨にも地に落ちた花の方を見ていたのだ。
不調法者であるので、花の名は知らない。ただ、今が一番美しく咲いていたのであろうことだけがわかる。

「花が自然に咲いている、それが美しいのは当たり前だね。野にあるように活ければ、誰の目にも美しいものだ。けれどね、野にある限り、それはただの花だね」

容赦なく葉を毟り、茎を矯め、花は花の姿を失っていく。削ぎ落とされて、追い詰められて、巴日和の手にあるものは一体何に変わっていくのだろう。黒い鋏をまるで自分の指であるかのように扱いながら、巴日和は微笑みを絶やさない。

「花にとってはね、人間のことなんか知ったことじゃないね。花を美しいと思うのは人間の心だもの。花にあるのはただ、咲いて、散って、実を付ける。それだけだね」
「日和さんは、それを表現なされているのですか。 その、無情を」

神に捧げる心の話だと思った。或いは、歪な偶像と崇拝者の暗喩。

「それは違う。僕が誰かに見せたいのは、いつだって愛だね。きらきらと眩しくて、優しくて暖かな愛だね。そうじゃないなら、誰が花を切り取って飾ろうなんて思うだろう?美しくないなら、ただ無惨で無情なだけなら」

薄く平たい青磁の器の中に、ぽつりと無骨な剣山が浮かんでいる。黒々として、少し錆の浮いたその刺の上に、巴日和の白く細い指が舞う。細かな毛の生えた花の茎が、音もなく刺を飲み込んでいく。
大輪のその花の名を、わたしは知らない。きっと、これからも知ることはない。

「けれども」
「そう、生きることはそれだけじゃないね。だから僕は野にある花を切り、葉を毟り、茎を矯めて活けるんだね」

ちり、と涼やかな音を立てて膝の上に敷いた布の上に鋏を置く。青磁の器からすんなりと伸びた葉、青々とした茎から余計なものを全て削ぎ落として、討たれた貴人の首のように、神に捧げられた羊の骸のように大輪の花が天に咲き誇っている。見るだけで身の切れるような、見るもの全てを切り刻んで憚らぬ、或いは何者をも寄せ付けぬ孤高の陽のような、巴日和自身のような、美しくも怖ろしい、花。

ーーこれが、貴方の言う愛なのか。

「さあ、歌うといいね。時の許す限り、その命尽きるまで」

その白い指先でさらりと輪郭を撫で、巴日和は大輪の花のように微笑んだ。



***



ステージの上で地獄が踊っている。
花舞わせ、愛と夢と希望を振り撤きながら、華々しく地獄が躍り狂う。わたしはそれを観客席ですらない舞台の裏側、奈落の隅から眺めていた。
だれかの切り刻まれた血肉の上、踏みにじられた臓物の上で地獄が踊っている。豊穣の秋にブドウを踏む娘のように、無邪気に微笑みすら浮かべながら。だれかの朽ち果てた想いの上で地獄が踊っている。その微かな記憶すら踏みしだき、風にさらわれていくだけの塵芥と成り果てるまで。

「英智!」

倒れ込んできた、身長のわりに軽い身体を受け止める。ソロ曲の交代は慈無く行われた。奈落に沈んで いく英智とは対照的に、ゴンドラと一緒に華々しく桃李が登場する算段だ。観客は降り落ちる星に目を奪われ、一瞬だけ英智を忘れる。青白い英智の唇に酸素吸入マスクを被せ、手早くタイを解く。駆け寄ってきたスタッフが無言で英智の衣装を変え始めた。この瞬間だけ、天祥院英智は人形になる。死体にも似た、か細く息を吐くだけの着せ替え人形。

「毎回毎回、無茶をしますねぇ」

長い指先が英智の襟元を撫で、次の衣装のタイをカラーに通す。完璧に装った、長身の麗人は嘲りにも似た哀切な声で英智に囁いた。その声で、英智が一瞬だけ目を開き、またゆっくりと目を閉じる。桃李のソロが終わるまでに少しでも体力を回復させなくてはならない。

「あなた方も。フフフ」

艶のある長い髪を揺らして麗人が笑う。
切り刻まれた血肉であり、踏みにじられた臓物であり、朽ち果てた心であり、風にさらわれていく塵芥であったもの。英智が燃やし尽くした地獄の灰が。

夜空に瞬く星のような美しさで。

「せめて、ステージの上で死なせてやりたい」

ああ、生きられないのだ、この男は。大勢の屍の上、世界へ呪詛を吐き散らし、足跡を燃え上がらせて、踏みしだいた地を全て地獄に変えてでも、 その身のうちから吹き出る炎で愛しいものすら燃やし尽くしても、夢を見ずには生きていられないのだ。 だから、何をしても生かしてあげる。この地上全てが、満天に星の輝く英智の夢見た地獄に変わるまで。英智の呪いにも似た愛が世界を満たすその日まで。

「ああ……愛ですね!」

麗人が笑う。わたしは蛹のように硬く冷たい英智の頬を撫でた。

「いいや、妄執だよ」



***


仕舞ってしまえれば良かったのに。

朔間零の不穏な呟きに、手を止めてしまったのが良くなかったのかも知れない。
向かい側にしゃがみ込んでいる豚革の手袋と溶接面を付けた男はわたしの作業着を羽織っていることもあって、とてもではないが今をときめく高校生アイドルには見えない。アーク光は強烈な紫外線であるので、吸血鬼的にもアイドル的にもあまり歓迎できる状況ではないように思うのだが、朔間零はバチバチと青い火花を散らす電光を見つめたまま動こうとはしなかった。 わたしの溶接している棺桶は次回のライブに使うステージセットのーつで、これに登ったり蹴ったり上で飛び跳ねたりするとのことで薄い鉄板で作ることに相なった。
棺桶に何人掛け、という表現もおかしいが、セミダブルのベッドくらいの大きさはある。それが二つと、シングルサイズがーつ。

「あなたは棺桶から起き上がってきたのかも知れないけれど、彼らは違うのではないの?」

トーチを置いて鈍色の溶接面を見つめる。 朔間零がどんな顔をしているのか、その細長い四角の向こうからは窺い知れなかった。

「 起き上がってこなくても良いように、じゃよ。この世は辛いことだらけじゃからのう」

地獄の反響音がくぐもった声となって響いてくる。
可哀想に、朔間零は夜間の魔物。不死者たちの君主にして孤独な生無き王。愚かにも彼は光を愛してしまった。彼の愛した光は果てなき自由の夜空でなければ輝けない。 地の底に埋められた棺桶、彼の愛の中では眩さを失っていくだけなのだ。

「この世は凄惨に過ぎる。退屈で、残酷で、空虚じゃ」

朔間零の手が荒れた鉄板の表面を撫でた。これからグラインダーをかけて塗装をしなくてはならない。これはただの虚しい箱であって、今はまだ朔間零の棺桶ですらないのだから。

「仕舞ってしまいたい。閉じ込めて、囲い込んで、 我輩の愛し子たち。永遠に傷つかないように」

もごもごと溶接面の奥で地獄が呟いている。
しかし、しかし朔間零は選んだのだ。永遠の庇護者ではなく、輝きを閉じ込める者ではなく、そう、ライ麦畑の捕手とでも言うべき者になる道を。

「願えばいいんですよ。祈るんです」
「神なき者が何に祈りを捧げると言うんじゃ」

かくんと朔間零が溶接面を傾げる。わたしはトーチを再び手に取り、溶接棒でふいと天を指した。

「それはもちろん、あなたのかけがえのない星にですよ」



***



「結婚しましょ、アタシたち」

鳴上嵐にそう提案をされたのは行きつけのスペインバルの個室であった。
ほのかに紫の色が付いたサングラスの奥の瞳がいやに真剣であったほかは、何もかもがまったくいつも通りの鳴上嵐である。
わたしは直前に口に放り込んだ24ヶ月熟成のハモンセラーノを殆ど噛まずに丸呑みし、じっと嵐を見つめた。結婚、結婚と言ったか?鳴上嵐は?
わたしと鳴上嵐の間には、恋愛感情などあるべくもない。もちろんわたしは鳴上嵐を愛してはいたが、それは世間で取り沙汰されるべきマグマのような熱情とは無縁のもので、例えば日本人が普遍的に桜を愛するような、ただそこにある美しいものを美しいと認めるような、そういうものであるはずだった。
同じように、鳴上嵐の中にもわたしに対する燃え上がるような熱情を感じたことはない。わたしと鳴上嵐は、お互いに大きな惑星の周りを延々と回っているだけの淋しい衛星のようなもので、その関係性は周回軌道の合問にほんの少しすれ違うくらいの、そういうものであるはずだった。

「ねえ、アタシたちの敵は、何時だって同じものだったと思わない?」
「敵?」
「そう。乗り越えるべき波と言い換えてもいいかもしれないわね」

それは例えば、わたしが二十代も半ばを過ぎた未婚の女であることで、それは例えば、鳴上嵐が自分のスタイルを貫き通すことで、幾度となく浴びせかけられる形の無い何かのことだろう。
テレビでラジオで雑誌のインタビューで、わたしは鳴上嵐に浴びせかけられるそれを何度も目にしていた。鳴上嵐は、わたしの知る限り最も美しく誇り高い存在は、強く逞しいわたしの友は、てんで何ともないような顔をして人知れず傷付いていたのだろうか。 峻険な巌が、少しずつ波濤に削られていくように。

「二人で……泳いでいく?」
「いいえ。互いが互いの舟になるのよ。どんな荒波にも負けずに……いえ、壊れずに、かしらね。ノアの方舟みたいに、丈夫な舟になりましょう?」

嵐が皿の上に取り残されたクレソンをつつきながら呟く。それはきっと、嵐の希望的観測だろう。四十日間の洪水のあと、ノアは方舟が辿り着くべき陸地を見つけたが、わたしたちに依るべき安息の岸はない。ただひたすらに、襲い来る波を超えていく他は。

「いいよ」

嵐が、サングラス越しに疑ぐりに満ちた目でじっとわたしを見つめる。わたしが急に、タップダンスを踊るロブスターのような、得体の知れない何かに変わってしまったかのように。
わたしは白磁の皿の上に取り残された最後の生ハムをくるりと巻いて素早く口に放り込んだ。やがて嵐はいつものように柔らかに目を細め、お野菜も食べなきゃダメよ、とわたしを嗜めた。
そうして、わたしと鳴上嵐は夫婦になったのだ。
或いは、荒波を共に乗り切る相棒に。



***



乙狩アドニスは祖国へと帰っていった。
国に、国籍の選択を迫られたのだ。最後の一年間、メンバーが学院を卒業してから事実上の休止状態であったUNDEADはもう二度と同じステージに立つことのない仲間のために全国各地で離別のライブツアーを行った。
その最後の日、リーダーの朔間零から正式にUNDEADを永遠に休止させる発表がなされたのだ。解散ではない。UNDEADに死はない。何かと気持ちを遠回しに伝える癖のある朔間零が、紛争地帯である祖国へ帰ってゆく仲間に向けるにはあまりに直裁な言葉であった。
彼が書類を法務局へ提出しに行ったのは秋晴れの少し肌寒い日であった。目立つ美女が四人と長身の美丈夫が三人、それに見守られる黒スーツの男という派手な一群は、 しかし誰からも遠巻きにされて、まともな視線すら送られることはなかったように思う。彼らにとってこの区画の中にいるものは、例えそれが一国の太守の一人息子だとしても、この日本では異質な、寄る辺なき異邦人でしかなかったのだ。受付に座っていた五十がらみの役人は、関節が痛むのかアームカバーの嵌った腕をさすりながら書類を矯めつ妙めつし、一つか二つ判子を捺したきりまったく機械のような無頓着さで写しをアドニスに返し、ビザの取得方法やその後の生活についての小冊子の説明をし始める。
三年の間に目を見張るほどに上達した彼の字が役人の手の熱で少し歪んでいた。

そうして、この国は永遠に乙狩アドニスを失ったのである。


真夜中、倦み疲れて家に帰り着き、見るともなしにテレビをつけると衛星放送が外国の政治のニュースを流していたりする。 わたしはその中に懐かしい、あまりに懐かしい顔を見るのだ。ゆったりとした白い服を着て、カメラを睥睨する金色の目を。
権威を示すためにいつかは生やさなくてはならないと言っていた似合わない口髭などを生やして、鷹のような美しさで。この太陽の匂いのする一国の指導者を前にして、一体誰がこの湿っぽい、ちっぽけな島国を思い出すだろう。みすみすこの美しい人を失ってしまっ た、あわれな国を?
わたしは彼の声に重なる無感情な同時通訳を聞きたくなくて、テレビの音を消した。無音の部屋の中で、真摯な目をした彼がレポーターに向けて話し続けている。
ああ、彼は今もまだオカリナを吹くことがある だろうか。聞かせてくれとねだったこの国の古い童謡を。 彼は今もまだ口ずさむことがあるだろうか。皆で歌ったあの歌を。

彼の国の、黄金の砂の中で。



***



今日も今日とてわたしの主人が美しい。
汗だくのスタッフTシャツで顔を拭きながら、ステージ上で踊り歌う主人をぼんやりと見つめた。癖のある紫暗の髪、滑らかなココア色の肌と均整の取れたしなやかな肢体、射抜くような金の瞳の美しい我が主人。いつもの黒を基調としたユニット衣装も大変にお似合いだが、やはり祖国の伝統を取り入れたあの衣装が彼には一番似合う。腰布に取り付けた飾りが激しい振り付けにチカチカと瞬いて、やけに眩しいと思ったら飾りの反射ではなくて主人の視線だった。

え?ほんとに?やるの?あれを?
わたしの困惑に主人がきゅっと目を細める。射竦めるような視線にファンが沸くが、あれはわたしに向けられた叱責だ。主人がやると言ったら、従者にできるのは頷くことだけである。
主人のソロの間、バックダンサーとして踊っていた朔間さんが観客席から視線を逸らさずにニヤリと笑っている。大神さんは我関せず、羽風さんだけが心配そうに一瞬だけ視線を寄越してくれた。この濃いメンツの中で唯一の常識人である羽風さんは日々主人にこき使われるわたしを憐れんでくれるいい人だ。主人の命令は馬になれとか人を殺してこいとか、そういった非道なものではないが、いつも少しだけわたしの実力を上回る無茶を振ってくる。小さきものは守ってくれるのではなかったのか。一応訓練を積んだプロの護衛で従者だが、こちとらか弱い女の子だぞ。

ステージ脇に置いてあった中身のしこたま詰まった95リットルのポリ袋を三つむんずと掴み、上のデッキに繋がる柱のパイプに手をかける。袋は軽いが、何せとても嵩張る。普通に梯子を伝っていたのでは間に合わない。既に曲は終盤に差し掛かっているのだ。

「ちょっとアンタ?!危ないよ!」

「アドニス様のご命令なので!」

優しいスタッフさんが声をかけてくれるが、主人の命令は絶対なのだ。申し訳ない。ひょいひょいとパイプを伝って一息にフライギャラリーまで飛び上がる。ポリ袋の中身は花である。中心は白く、縁がほんのりと赤い可憐な花は主人のお父上からの贈り物であった。
最後のワンフレーズ、主人が歌う叶えよう、の声に合わせてキャノンを発射する。観客席の上に突如として舞い降りた異国の花は、ひらひらと回転しながらそれはさながら慈雨のように降り注いだ。キャノン砲の衝撃で吹っ飛ばされたわたしは、フライギャラリーの端でかろうじて鉄パイプに引っかかっているような有様だったが、白い花びらの中で踊る主人はこの世のものとは思えないくらい美しかった。

今日も今日とて、わたしの働きで主人が美しく輝いている。全くもって身に余る光栄だ。



***



「何度言えばわかるッ!血塗れのウェディングヴェールなど誰が欲しがると言うんだね!もっと繊細に、丁寧に編みたまえッ!」
「はい師匠!」

容赦のない師匠の罵声に脊髄反射で叫び返しながら細い編み針を握り直す。決して縫針のように尖っても、ナイフのように鋭くもないのにいとも簡単に肌を裂くのが不思議だ。欲張ってレース糸を細いものにしたのも良くなかったかもしれない。血が飛び散らないように指を咥えながら師匠の方を窺えば、その向こうから影片くんと青葉先輩が心配そうにこちらを見つめている。鬼龍先輩と転校生さんは苦笑気味ではあるものの我関せずといった表情だ。中途半端な関心は何にもならないことをよく知っているのだろう。

「今一度この僕が問おう。君がレースを編むのは何の為だ?その細く白い糸を繊細に絡め、結び、編み上げて表現したいのは何なのだね?」

師匠の言葉に思わず指を噛む。
わたしが作ろうとしているのは、花嫁のヴェールだ。純潔を表す白い糸で描くのだ。幸いの薔薇を、喜びの小菊を、誇り高い百合の花、とこしえの命に輝く月桂樹の葉と豊かに実る葡萄の房を。尽きることのない、わたしの愛を。

「……聞きたまえ。君がそのレースに託そうとしているものはね、人の目には決して見ることのできないものなのだよ。本当にあるのかもわからない。あったとしても、万人が同じものを見ているとは限らない。不確かで、不明瞭で、ああ虫酸が走るね。だからこそ、目に映るものは正確で美しく、整然としていなくてはならないのだ。その心を託すと決めたのなら、些かの歪みも許されないよ。君がこの僕に教えを乞うことを選んだのだ。そして、この僕が君に術を授けると決めた。できないはずが、ない。さあ、もう一度!」

師匠の言葉に手が震える。そう、出来ることならばこの胸を裂いて、心臓を取り出して見せたかった。あなたを想う度に色付く心は、きっとこの胸のどこかにある。そしてそれは命にも等しく、ならばこの心臓こそがわたしの愛だろうと、そう思ったからだ。
しかし、この胸を裂いて見せて、あの人がそれを喜ぶだろうか?

「……君はまさか、躊躇っているのではないだろうね?」

師匠が桃色より少し薄い色の眉を顰めて、困り果てたように見える優しい顔をした。

「人はね、所詮主観でしか物事を測れない生き物だ。君の想いがどれほどのものか、僕にはわからない。知りたくもないがね。そう、全てはエゴなのだ。肥大したエゴが相手を覆い尽くし、愛という真綿が虚像に血肉を与え、何もかもを変質させてしまう……」
「お師さん!」

影片くんが悲鳴を上げて師匠の声を遮った。師匠はこうして時たま自分で自分の傷を抉ってしまう。わたしは犠牲を無駄にすまいと気合を入れて編み棒を握りしめた。



***



「アナタ、そういえば一度もアタシのことを"お姉ちゃん"って呼ばなかったわね」

レースのフリルをあしらったシャツに白のタキシードを着た嵐は眩いばかりに美しかった。
報道陣に向かってニッコリと手を振るのも疲れてきた頃、お色直しを告げて嵐が席を立った。この辺りの機微に敏いのは流石だ。一応これでもわたしもフラッシュを浴びるのにはそれなりの場数を踏んでいるのだが。

「みんなのお姉ちゃんではなくなってしまいましたね、なんて言われたから?」
「ふふ、ナンセンスよねえ。アタシがアタシでいる限り、そこに違いなんてあるはずが無いのに」
「そうだねえ」

話しながらも嵐は手際よく衣装を変えていく。純白のハイネックにレースをあしらった細身のボトム、たっぷりと長いトレーンのパンツスタイルドレスは先進気鋭のデザイナー影片みかの最新作である。瞳と同じ色のアメジストをあしらったティアラは繊細な銀細工、そこから銀糸のヴェールが美しいカーブを描いて流れ落ちる様は妖精の女王のようだ。

「でもね、わたしは知っていたんだよ」

きょとんと瞬く嵐の前に立ち、前から抱きついて背中のホックを留める。嵐からはさっきまで髪に飾っていた花の微かな残り香がしていた。

「わたしはあなたの妹なんかじゃいられない。わたしはずっと嵐の王子様になりたかったんだ」



(あんさんぶるスターズ 200330)



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