終焉 | ナノ



これの続き




「副官どの」

はいはい、と呼ばれて振り返った顔は、不自然なまでに完璧な笑顔を浮かべていた。黒い軍服を纏った青年は、金髪に青い眼の、完璧なまでの純アーリア人的外見である。

「シュライバー少佐はどちらにいらっしゃるか、ご存知ありませんか」

青年の言葉に、わたしは努めて愛想良く、丁寧にわからない旨を告げた。いや、本当は知っているのだ。アンナはハイドリヒ卿に呼ばれてヴェストファーレンにいる。しかしこれを目の前の青年に告げていいものか、わたしには判断しかねた。
このアインザッツグルッペンという部隊は長官どのが作り上げた悪夢の虐殺部隊だが、その作戦内容の過激さ、陰惨さから隊員の士気は著しく低い。作戦は滞りなく遂行するのだが、何となく皆にやる気がないのだ。そも命令を下す立場の将校たちの顔つきからして、渋々という感じが漂っている。女子供まで含めた皆殺しの司令を嬉々として受け取っているのは一部の異常者くらいで、その一部というのが何を隠そうわたしの上司である特別行動部隊長ウォルフガング・シュライバーその人であった。

「何か言伝があればお受けしますよ」
「いえ、結構です。大隊長司令ですので。それでは」

ビシ、と敬礼をした青年の顔にちらりと嘲りが浮かぶ。わたしは敬礼を返せないので、軽い目礼に留めた。何せ、わたしには腕がないので。
人の常として、はたはたと揺れるわたしの軍服の袖に一瞬だけ目をやって、青年は長い廊下を去っていった。


わたしがフランス国境で起きた下らない小競り合いで腕を失くしたのは、もう数年は前の話になる。志願参加で一般兵として従軍していた部隊が大砲の直撃を受けたのだ。傷痍軍人として暫くは恩給を受けてベルリンで細々と暮らしていたのだが、それが何故また軍に舞い戻っているのかと言えば理由がある。
クリスマスまであと一月となったある日、白いドレスの連続殺人鬼に殺されかけたのがきっかけだった。その殺人鬼は、まだわたしが軍人になる前、デュッセルドルフに住んでいた頃にひどく客に殴られていたところを手当てをして一晩泊めてやった娼婦だったのだ。

アンナと名乗ったその殺人鬼は、昔と変わらず娼婦として暮らしていたらしい。夜毎に客を取っているので定宿は無いというアンナをとりあえずわたしのアパルトマンに住まわせ、まあそのうち出て行くだろうと思っていたのだがそうは問屋が卸さなかった。

何あろう運命のヴァイナハテンである。

煮え滾る熔金でできた太陽が、出来損ないの人殺しでしかなかったアンナを本物の魔物にしてしまったのだ。その日からわたしは魔人と化したアンナのペットとして、側に置かれているに過ぎない。


軍部の中に申し訳程度に設えてあるアンナの執務室は、未整理の書類の箱に弾薬に関する報告書が数枚入っているだけで、本棚にはファイルの一つもなく閑散としたものだ。ハイドリヒ卿の子飼いとしての任務が多いアンナには本来なら執務室など必要ないらしいのだが、そこは形式の問題なのだろう。
ほとんど座られた形跡のない椅子に腰掛け、脚を高く持ち上げた。軍靴の紐を咥えて解き、靴下も脱ぎ去る。机の上に転がっている万年筆を足の指で摘まみ、口に咥えてクルクルとキャップを外した。今度こそ嵌合式の万年筆に替えてもらおうと思って早半年である。
足の指で箱から書類を一枚摘み上げ、咥えた万年筆でWolfgang Schreiberとサインを入れていく。銃弾使いすぎ、銃の消費早すぎ、バイクの使い方荒すぎ。あと無差別に殺しすぎ。四枚の書類はほとんど苦情の類いだったが、この辺りはアンナ本人よりハイドリヒ卿に言った方が多分効果がある。
もしかすれば。おそらく。きっと。

足の指に挟んだ万年筆のキャップを閉め、今度は逆の仕草で靴下を履き、軍靴を履き、靴紐を縛る。靴紐は解くのは簡単だが縛るのは中々に難しい。しかしここでモタモタしているのは非常に良くないのだ。口の酷使で垂れた涎を服の裾で拭うと、椅子に引っ掛けてあった肩がけの鞄を首に通す。スピリッツを首にかけたセントバーナードのような間の抜けた姿だが、これが一番歩きやすいので仕方ない。

「やあ、無花果の君」

部屋を出たところで声をかけられ、今度は努めて表情を殺して振り返る。先ほどの青年よりはくすんだ金髪の男が笑みを浮かべて立っていた。
無花果とは、アンナがわたしをファイゲと呼ぶので一部の間で定着しつつあるわたしを指す隠語だ。堂々と本人に向けて言うのはこいつくらいだが。男は秘密警察の一員であった。それも、ハイドリヒ卿の統制下には無い一派の構成員である。

「まだ答えはいただけませんか。貴女のような可憐でか弱い女性が、特別行動部隊の所属など。名誉ですが、痛ましいことです」
「はあ……」

沈痛な面持ちの男は、何とびっくりわたしに求婚しているのである。血の半分が東洋人であるが故に純アーリア人的外見も持たず、爆弾で両腕を吹き飛ばされ、その上悪名高き美貌の殺戮鬼に随従して各激戦地を飛び回る女を妻に求めるなど正気の沙汰ではない。つまり、これは罠なのだ。

「僕なら、貴女をあの悪鬼どもから守ってあげられます」

いやそれは無理ですよ。だってあの人たちは最早ヒトではないのだもの。
インコだって騙せないようなこんなセリフに、夢見る年頃の箱入り娘ならコロッと騙されてしまうのだろうか。生憎とこちらは下層民生まれスラム育ちのボロ切れよりもスレた女である。だから死にかけの娼婦などという厄介なものもひょいと拾ってしまったのだが。

無反応のわたしに痺れを切らした、フリで、青年がわたしの肩に触れようとした。恋い焦がれる男の演出なのかもしれないが、それはマズい。あの子は、他人に触れられる事を何よりも厭うているのだから。

「申し訳ありませんが、わたしは貴殿のような方の妻には不適格です。何せ、わたしには子宮がありませんので」

絶句する青年の前を会釈をしてそそくさと通り過ぎる。スパイ君も大変だ。こんな女に求婚の真似事など。承諾されてしまったらどうするつもりなのだろう。彼も、その上司も。遠目にちらりと見たことのある、冷淡なくせにどこかおどおどとした不安げなネズミのような眼差しを思い出す。彼と結婚したならば、やはり結婚式のスピーチは彼が引き受けてくれるのだろうか。



***



「おかえり、アンナ」
「ファイゲ!ただいま」

アパルトマンの薄い扉が勢いよく開いて、小柄な影が座っていたわたしの方へ突進してくる。艶やかなシルバーブロンド、大きな青い瞳、少女人形のように整った美貌のわが麗しの殺人鬼どのである。
骨も折れよとばかりに抱き締めてくる力に応えてあげられないのが無念だ。何せわたしには腕が無いので。

埃まみれのアンナの制服からは、土とガソリンと硝煙、汚水と鉄錆の地獄のような匂いがした。またどこかで殺してきたのだ。生きとし生けるものすべて、人と名のつくものを轢き殺し撃ち殺して。死神とはいつだって美しい少女の貌をしているものなのだから。
わたしは失くした腕の先、イチジクの蕾のようになっている先端で眼帯の無い方のアンナの頬を拭った。ざらざらとした砂の感触が鈍く伝わる。

「アンナ、シャワーを浴びたらどうだろう?埃を被ってしまっている」
「そうしようかな。ファイゲ、お腹は空いていない?僕、シチューを作るよ」

わたしは小さく首を振って、アンナを浴室へ送り出す。魔物に罪も罰も有りはしないが、わたしの失った腕への郷愁、あの哀れな娼婦の面影に血の匂いが滲みていくのは良い気分ではなかった。
アンナが脱ぎ捨てていった外套を咥え、長椅子に腰掛けて足先で摘んだブラシで埃を落としていく。いっそのこと中国に生息するサルのように何でも器用に足でこなせるようになれれば楽なのだが。軍人必携の優生学のハンドブックには進化論に対する言及もあったが、わたしの望みは退化に含まれるのだろうか。それとも足指の自由は獲得形質になるのか。主人の服の手入れもできないペットではプライドも傷付こうというものである。

「ファイゲー、タオル忘れちゃったー」
「持っていくよ、アンナ」

洗濯物が雑多に積まれている籠の中からバスタオルを咥えて引き抜き、浴室へ持っていく。躾の良く出来た犬のようだ。
バスタブのふちに腰掛けたアンナの体に顔を寄せ、上から順に水滴を拭っていく。白い額、ぐずぐずに融けた右の眼窩、古いアパルトマンの水とも湯ともつかないシャワーに打たれて赤く色付いた古傷も。アンナは自分の脚の間に跪くわたしを、すこぶる機嫌良さげに見下ろしている。何であれ、楽しいのは良い事だ。

「さあ、甘えん坊さん。髪だけは自分で拭いてもらわなくてはね」

何せわたしには腕が無いので。しかしこれを言うとアンナは途端に不機嫌になってしまうので、わたしは言葉を飲み込む。
アンナがわたしに求めているのは、とっくの昔に失くしてしまった両腕なのだ。あの日、客にひどく殴られ、部屋を追い出されたアンナを抱き締めた両腕。わたしが気まぐれで与えてしまった抱擁の残滓を、まるで責任を問うかのようにアンナは求めている。

「あ!そうだ、ファイゲ。お土産があったんだった!」
「うわ、アンナ?」

軽やかな動きでわたしを飛び越え、アンナが浴室を飛び出していく。放り出されたバスタオルを咥えて後を追うと、先ほどわたしがブラッシングをした外套のポケットから何かを取り出しているところだった。美少年よ、せめてシャツを着ないかね。

「はいこれ。さっき外をウロウロしてたから殺しちゃった」
「へ?あ、あー……」
「知り合いなんでしょう?あげるよ!」
「えーと、そうだね。うん、ありがとう、アンナ」
「えへへ、どういたしまして!」

ネチョ、と粘着質の音と一緒にテーブルに置かれたのは見覚えのある、というか兵舎から帰る前に見た青年の瞳と同じ色をした眼球だった。何本か血と一緒にくすんだ金髪が絡み付いている。かわいそうに。だから近付いてはいけないと言ったのだ。彼は永劫、アンナの中で無意識の一欠片になるまで咀嚼され、解剖され、解析され尽くすのだろう。いつかその細かな灰が燃料として再び燃やされるその日まで。
魔人となったアンナに殺されるとはそういう事だ。

「さあ、優しいアンナ。いつまでも裸でいると病気になってしまう。シャツを着よう」
「着せてくれる?」
「はは、そいつは無理な相談だ。ボタンは自分で留めてね」

大変に厭だったがテーブルの上から目玉を咥え上げ、生ゴミの入ったバケツに捨てる。もう青年を殺した事実にも興味がないのだろう。肩口で口を拭うわたしを大した感慨もなく眺めていたアンナが、わたしの言葉にパッと顔を明るくして走り寄ってきた。
わたしは案外、この日常を楽しんでいる。



***



「随分と落ち着いているではないか、フラウ・ファイゲ」
「これでも十分に驚いていますよ、ハイドリヒ卿。失望させたでしょうか」
「いや。私は卿の可能性を信じていたよ」
「それは光栄なことで……」
「我が爪牙の一角にして、白騎士たるシュライバーが留め置く魂だからな」

太陽が綻ぶように微笑む。
わたしは熱風が吹き過ぎたような圧力を感じて目を細めた。目の前にハイドリヒ卿が居なければうお、眩しい、などと口走っていたところである。

風が吹けば桶屋が儲かる式に回り回ってきた紙っぺら一枚のためにハイドリヒ卿の執務室を訪れたのは麗らかな午後のことだった。アンナはまたぞろ何処かの戦場でツェンダップを走らせているのだろう。長閑なベルリンには、血煙の匂いも怨嗟の声も届かない。
セントバーナードよろしく首にかけた鞄に書類を入れてもらったものの、これではハイドリヒ卿のごく近くまで寄らなければならない。副官か誰かが居ればいいのだが。あまりあの金色の人には近付きたくないのだ。振り撒かれる覇気というか、燐光というか、そういうものを少し恐ろしいと思ってしまうので。
妄執と猟奇とオカルトに彩られた魔人集団の首領であるという事実を脇においても、何だかあの人は話の噛み合わない恐ろしさがあるのだ。笑顔で握手をしたその瞬間に腕ごとぎ取られても、それを当然だと思わされてしまうような。例えどんな酷いことをあの人がしていても、彼ならば仕方がないと納得させられてしまうような。
だって彼は前にも、その前にも、更にそのずっと前にも、同じことを繰り返してきたのだから。それが、当然の、この世界の理なのだから。

「この人たち、どうなさるんですか……」
「さて……卿ならば、どうする?」

常に人を試すようなハイドリヒ卿の声だ。面白がるような響きは上辺だけで、芯はおそろしく冷え込んでいる。その凍えるような冷淡さは、この世の何事にも価値がないと一切合切を切り捨てる。
わたしは暴虐の問いを前に、執務室の床に転がる死骸を眺めた。まずいけないのは彼らが軍の制服を着ていることだ。よく考えなくともハイドリヒ卿は内部の何者かによって暗殺されかかったのだ。

「うーん。わたしでしたら、まずは誰かの徽章が無いかを調べますかねえ。大ごとになると面倒ですし」
「ふむ。なるほど、閣下の」

うまーく言葉をぼかしたつもりだったが、ハイドリヒ卿には通用しなかったらしい。

「そうだったな、卿は、そういうモノだった」

フフフとハイドリヒ卿は楽しそうに笑っている。元から頭の良い人間特有の高次元で疑問を得て高次元で勝手に納得してしまうタイプの人だが、今日は特に絶好調だ。何か良いことでもあったのだろうか。

「シュライバーには、卿の魂はそのままの形で刈り込むように指示を出そう。卿らには、それが似合いだ。友の言葉を借りるなら、至高と断ずるに相応しい、だな。フフ、フフフ」
「はあ、あの、どうも……?」

くつくつとハイドリヒ卿は笑い続ける。軍人らしく短く切り揃えた髪が陽光を照り返して、その肩に金糸の残像を散らせた。わたしはいつかどこかで同じような光景を見るような、見たような、掴み所のない気持ちのまま物言わぬ死骸の横に突っ立っている。
早くハイドリヒ卿が書類を受け取ってくれればいいのにと思いながら。



(Dies irae 190430)



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