終焉 | ナノ




あの人が花に愛情を持っていたのかはよくわからない。
花の手入れをするときは、必ず薄手の豚革の手袋をしていたのも、どちらかといえば棘で指先が傷付くのを厭うてではなく、その傷付いた指先で不用意にあらゆるものに触れてしまうのを恐れていたからのように思う。木綿糸を頑丈に織り上げた生成りのシャツとズボン、革のブーツ、黄金聖衣よりも武骨な印象のホルダーの沢山付いた幅広のベルトを巻いて、朝の早いうちにアルバフィカは双魚宮を出ていった。
まだ日も昇らぬ、夜明けとも呼べない時刻だ。わたしも床に蟠った布切れの寝床から這い出して、雑に髪を括り、昨夜竈に眠らせた熾火に藁を撒いて火を起こす。アテナイが滅びてより約二千年ほど、何をしても死にはしない頑丈な身体を頼みにして殆ど料理などしてこなかったわたしは、ポリスの生娘であった頃の記憶を掘り返しつつ確実に流れた年月の分だけ進化した台所事情に戸惑いながらもこうして毎日二人分の食事を用意している。支給のパンを厚くもなく薄くもなく四片だけ切り落とし、残りは布に包んで籠に戻す。湯を沸かし、砕いて髄を露出させた獣骨と適当に刻んだ玉ねぎ、裏の畑に育てるともなく生えている草の香りのいいものを適当に摘んできて煮詰めればそれなりの味にはなる。今日一日のスープになるものを煮込む間に卵を炒り、ハムを軽く炙って質素な皿に盛り付け、クロスも敷かないテーブルに向かい合うように並べた。真ん中に汲み置きの水を満たした水差しを置けば、いつもの朝食のテーブルの完成だ。スープを煮込んだせいで小一時間かかってしまったが、それでもアルバフィカは戻らない。白み始めた窓の外を見て、探しに行こうかと思い立った。竈の火を埋め、朝食の上に紗を貼った竹籠を被せる。多少冷めたところで味の落ちるものでもなし。前にアルバフィカが任務先で買ってきてくれた麦わら帽子を目深に被って薔薇園への石段を下る。


果たして薔薇園の中にアルバフィカは居た。
わたしと同じように雑に髪を括って、お揃いの麦わら帽子を被り、熱心に薔薇の枝を矯めている。萎れた花を摘み、枯れた葉を除いて、古い枝を矯める。薔薇の花は新しい枝にしか咲かないのだ。
魔宮薔薇は四季咲きで、温暖な聖域では年中花を付けている。その薔薇の開花を維持するためには、こうした手入れが欠かせないのだとアルバフィカは言っていた。彼の師も、そのまた師も、わたしの知る限り千年の間、魚座の黄金聖闘士はこうして薔薇の手入れをして生きてきたのだった。悲しい人々だと思う。戦いのために生まれ、戦いのために生き、人々の平和の願いと共に死んでゆく。彼らの誇り、そして救いは、この世に女神が在り、そして必ずこの聖域という機構が続いてゆくという希望だ。

──君たちに、アテナを託す。
女神とは、希望の名。この世の平和、全ての美しいもの、全てあたたかなもの。この世に生きる、全ての命の名前。彼らの、願いのかたち。

「何をしている!」

さりさりと薔薇園の土を蹴散らしながらアルバフィカがこちらへ駆けてくる。必死の形相で、目には怒りさえ浮かべている。その後ろから、鮮烈な朝日の昇り来るのを見て、できるだけ柔らかに微笑み、走ってくるアルバフィカを受け止めるように両手を広げて見せた。一瞬、慄くように足を止めたアルバフィカが、ゆっくりとわたしの方へ近付き、腕を広げたわたしをその胸の中へ抱き寄せる。そうだ、わたしのこの身体は貴方の薔薇を怖れない。貴方の毒には害されない。わたしがそのように望み、貴方がそのように作り変えた。
猫の子でも抱くように軽々とわたしを抱え上げたアルバフィカが、朝焼けに燃える薔薇園の中を慎重に歩き出す。双魚宮から教皇宮へ続く階段が魔宮薔薇の園になっているのは周知のことだが、この裏手に広がる薔薇園のことを知る者は少い。ここで行われているのは、魔宮薔薇の品種改良だ。より鋭く敵を穿くための白薔薇、普く敵を粉砕する黒薔薇、そしてより強く、より稀有な毒の香気を持つ赤い薔薇。この園は代々の魚座の黄金聖闘士が遺してきた秘密の花園なのだ。アルバフィカが抱えていたわたしを、不自然に途切れた薔薇の株の間に下ろす。昨日、ここの株を掘って表の薔薇園に植え替えた。
この薔薇園では、土も水も何もかもが猛毒だ。魔宮薔薇はそれ自体が毒を持つ。枯れた魔宮薔薇を鋤き込み、花弁から取った薔薇水を撒いて更に花の毒を強めている。幾ら毒に慣らした体といえど、小宇宙を燃やすことのできないわたしでは、この薔薇園を自由に歩き回ることはできない。ただ香気に害されず立っていられるというだけだ。

「どうした。何か、あったのか」

「ううん。何も。ただ、……」

ただ、とアルバフィカがわたしの言葉を待って小首を傾げる。ただ、貴方に会いたくて。唇に乗せようと思えば下手な三文芝居の台詞のようで、途端に言うのが気恥ずかしい。しかも周りには溢れるほどの薔薇、薔薇、薔薇。少女趣味ここに極まれりだ。実際は特殊な毒虫の他は蝶や蟻すら近付けない魔の花園なのだが。小さな子供の言葉を待つように微笑んだままのアルバフィカの耳元に唇を寄せ、起きたらあなたがいなかったから、と囁いた。
途端にアルバフィカが顔を真っ赤にしてわたしから後ずさる。

「な、そんな台詞をどこで……マニゴルドか!」



(空隙のつづき 魚座のアルバフィカ)




一体どんな手を使ったのか、と聞かれることがよくある。時に心の底から感心したように、或いは下卑た笑みを浮かべながら、そして今この瞬間のように憎悪と嫉妬に狂った顔で。
背にした鉄扉は夏の日差しに蒸されてそれなりに温度があるはずなのに、気分の問題か背中を伝う汗のせいか妙に冷たく感じる。こいつ魂元はきっと蛇だな。しかも中間種以上と見た。ヤツと威圧感がそっくりだ。
猿は本能的に蛇を恐れるというが、我々ネコ科も過去相当このテのにょろにょろとは死闘を繰り広げて来たに違いない。ビビりすぎて膝頭さえ硬直している。もしや何らかのプレッシャーを掛けられているのではあるまいか。

「どうして、お前なんかが」

金色に光る瞳、縦に伸びた瞳孔がわたしのナカへ押し入ってくる。これは、今までのしみったれた嫌がらせとはワケが違う。わたしの精神を壊し、脳を溶かそうとする毒だ。

わたしの番は名を赤司征十郎という。
戦国時代の辺りにたまたま先祖が半重種の婿を捕まえた為に、軽種の中に五代に一人くらいの割合で中間種が混じって生まれるようになってしまった我が家は、久々に生まれてきた中間種のヤマネコに大歓喜、親戚筋も大歓喜。まだ人型もとれない毛玉であったわたしはあれよという間に金持ち同士のよくわからぬ集まりに連れていかれ、そこで同い年ながら既に紋付袴で来客を出迎えていた赤司征十郎くん(3)にぬいぐるみ代わりに構い倒され、都度あのネコをと集まりという集まりに呼び出されまくりそしてそのまま現在に至ってしまったあわれなネコで、結婚式を挙げるなら恒例の思い出スライドショーは少しはにかんだ笑顔の征十郎とその腕に抱えられた胴も伸びきって目も口も半開きのネコというあんまりな写真で始まってしまうのだ。
赤司征十郎くんは有名人である。順って、非常に人気者でもある。ファンは軽種はもちろんのこと、中間種、半重種、そして重種、最重種まで幅広い層を獲得している。ファンの皆さんは例外なくこう思うのだ。何であの軽種に近いようなネコがあの赤司征十郎の隣にいるのだ?と。わたしが知りたい。

「どうして」

男の瞳が更に深い金色に輝く。既にわたしの魂元はぎりぎりと締め上げられて、あとは毒牙を突き立てる場所を探しているのだろう。白痴になってしまえば、子供は産めても征十郎の隣に立つことはできない。この男も、惚れているのだ。形振り構えないほどに、赤司征十郎に。しかし。

「それ以上は、踏み込んじゃいけない」

ぱり、と硬質の音が木霊する。わたしと目の前の彼以外には聞こえない音だが、確かに我々の耳に届いた。その薄氷の割れるような小さな音に、びくりと男の肩が跳ねる。千切れるように拘束が掻き消え、震えがくるほどだったプレッシャーが嘘のように今度は目の前の男がカタカタと歯を鳴らしていた。その氷は征十郎の張った罠だ。防壁ではない。わたしを守る為に作られたものではなく、さりとて侵入者への警告でもない。容易く砕け散るそれは、ただ征十郎へ侵入者の存在を知らせるだけ。男の反応は素晴らしかった。防衛本能に優れた中間種でなければ、きっとその薄氷を踏み抜いていた。そうして氷を砕いてしまえば、そこから先は、魔物の棲家だ。



***



勝手知ったる赤司邸の裏口を開け、丁寧に靴を揃えて上がり、制服から部屋着に着替えていつものソファへだらしなく寝そべる。お手伝いさんたちは皆仕事を終えて帰宅しているし、赤司家当主はあまりこの家には帰ってこない。誰に見られる気兼ねもないので、わたしは本性のままこのふかふかソファで昼寝を満喫できるというわけだ。
読みかけの本に栞を挟み、長い廊下の向こうから聞こえる音に耳を澄ませる。この家の主人が帰ってきたのだろう。玄関の鍵をかけ、靴を揃えて、鞄を廊下に放り、ブレザーもネクタイも脱ぎ捨てて。ほら、リビングのドアが開く。

「おかえり、征十郎」

無言のままソファに近寄ってきた征十郎は倒れこむように広いソファの端へ座ると、わたしの柔らかな部屋着の腹に顔を埋めてぐりぐりと額を押し付ける。何か、おそらくわたしには想像もつかない、征十郎が疲れてしまうような何かがあったのだ。わたしはつとめて心穏やかに、じわりじわりと意識の表皮を裏返す。それに合わせて征十郎の表皮も、細かに罅割れ鱗となって空中に溶け消えてゆく。さわさわと揺れる柔らかなわたしの腹毛に埋もれて、赤い瞳のアオダイショウがその滑らかな鱗をくねらせる。いつ見ても美しい、征十郎の魂元である。

「……時々、夢を見るんだ」

シウシウという微かな呼吸音と共に征十郎がぽつりと呟く。ネコ類の、春の草原のように柔草の生え揃った腹の上をぐりぐりと気持ちよく遊んでいる。存分に、暖かな腹の上をのたくっていると、いつの間にかネコは毛のたっぷり生えて張った皮の、丸い惑星と成り果てていて、ああ、俺は一体この星で、日がなのんびりして過ごすのだ。もう一切の煩い事も痛苦もなく、ただ思うままに。

「でも最後には、俺の身体が大きくなるに連れてネコの惑星はどんどん膨らんで、ぱちんと弾けて、夢から醒めてしまう」

「ふ、不吉な……」

毛玉を絞め殺す夢とかでなくて良かったと思いながらでろりと体を弛緩させる。



(セクピスパロ 赤司征十郎)




お前は本当に賢い子だね、とその人が柔らかに、歌うように褒めてくれるのが好きだった。

今から三百年も前に、この街の名前の由来になった偉大な王に従ってその人の祖先は海を渡って来たのだという。それをまるで見てきたように語ってくれたのはいつもその人の傍らにいた人ならざる砂漠の精霊で、かれもわたしに色々なことを教えてくれるので好きだった。その人はわたしの二つか三つ年上で、王家の血筋に列なる人だった。王族やそれに類する支配階級に特有のある種の野卑さは全くもっておらず、神官や学者のような、鉱物質の静謐さが常にその身を満たしていた。それでいて時折その瞳は地の底から湧いたナフサのように容易く燃え上がる。その瞳に燃え盛る炎には、自分の知識欲を満たすためなら例え海の底、地の涯て、空の彼方であろうと往くことを躊躇わないだろうと、そう思わせる危うさがあった。かれがこの地を離れなかったのは、単にここがかれの祖先たるプトレマイオス一世が世界中からあらゆる知識、あらゆる頭脳、あらゆる秘蹟を集めて築き上げた知の都アレクサンドリアだからである。
ムセイオンの図書館で、山のような巻物に埋もれ、葦のペンを何本も使い潰しながら机に齧りついている様を横目に、かれの妖霊と肩をすくめあったのも数え切れないほどだ。夜には使い潰されたペン先を整え、またインク壺にどろどろとしたインクを補充しておく。ここに来て毒見の次に覚えた仕事である。


(夢見る瞳のマケドニア人 プトレマイオス)



(various 181123)



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