終焉 | ナノ



しっとりと濡れた洗い髪を太い髪ゴムで雑に括った先生は、最近司書室に誂えた背の低い椅子に腰掛け、窓の桟に肘をつき、浴衣の褄をだらしなく割ってぼんやりと外を眺めている。
窓の外にはあるはずのない森、あるはずのない川、あるはずのない空がいつ果てるともない茫漠としたイメージとなって広がっていた。そう思えばこの部屋も、司書室であるとばかり思っていたが思い込みに過ぎぬような気もしてくる。旧い旅館の、八畳部屋の、眺めの良い広縁のような。

時たま起こる現象ではあるのだ。
浄化し切れぬ有碍書が騒ぐ夜。それを著した者の指先から溢れて止まらぬ情動を、世に残さんとする意思か記憶か妄念か、そういったものが滲み揺らいで、わたしの中に世界を構築する。一番身近にある全き人間の脳味噌に、パノラマ写真のように焼き付けようとでもいうのか。

「今日の記憶は中々に乙であるな。どこぞの老舗の旅籠と見える」

人死にの一つでも、出そうではあるが。

厚いアルミの灰皿からマッチを取り上げ、懐から取り出した紙巻きを咥えると口元を覆って燐を擦った。暮れはじめた窓の中に紅葉先生の顔が一瞬だけ照らされ、直ぐに掻き消える。部屋の中が薄暗いので、外はほのかに光っているようだ。流れに削られた山際は陽の光を求めて畸形に伸びた木々と崖上から崩れ落ちてきた岩とで一種美事な歪曲された心象を生み出している。折から山頂で降った雨が川の水量を増して、老婆のように腰を折った松の枝をざぶざぶと嬲って流れてゆくのが哀れだった。

ーーこの本は、わたし達に何を見せたいのでしょう。

「皆目見当がつかんな。我は文章を極限まで推敲し、言葉を吟味し、装丁を誂えて世に送り出すが、本自体が世に何を伝えたいかなど、我の与り知るところではない」

先生の吐き出した煙がゆらゆらと紫の空へ流れてゆく。重苦しい緞帳のようにのっぺりとした空に丸い鏡でも掛けたような月が浮かんでいる。山の端、低いところを、その輝きを恥じるかのように。

ーーでは、なぜ、先生はここにいらっしゃる。

「我は汝の助手なれば。旅も嫌いという訳でなし」

また紙巻きを深く吸い込んだ先生の唇から紫煙が空へと立ち昇る。それは霞か雲か、或いは空也上人の発する名号の、尊いお姿の名残が先生の形よい唇に宿って見せる幻か。先生は戯れのように雲に乗る御仏や水中に遊ぶがごとき天人を吐き出しては自分の仕事に満足する木匠のように目を細めてそれを眺めている。

「これはな、屹度紙面の中に幽玄の旅路を描こうとした者の妄念よ。我にはなき物故、理解はしてやれなんだ。彼岸を覗いた鏡花や、"罪悪の解剖にのみ"取り憑かれていた頃の秋声には知れよう。或いは……長きを生きた露伴にも。しかし、我はその悲哀を解さぬ」

人の死も、愛も恋も救いも悲哀も絶望も、先生にとっては全て自らの実験の材料に過ぎなかった。自分は江戸以来の曳き綱のように頑丈な義理人情に縛られておきながら、自身もそうしてあることを望みながら、その全てを紙面に落とし込む時は慈悲の欠片もない神の如き視線を崩さなかった。
天人の一人がきゃらきゃらと音のない笑い声を上げ、先生の濡れ髪を自らの腕に巻き付けて遊ぶのを、先生は慈しみの籠もった目で見つめるとそのまま無造作に首を払った。首を失った天人は打ち上げられた魚のようにびくりと震えると煙になって消えてしまう。元から煙であったのだ。

ーーでは、死ぬるまで夢は終わりませんか。

「死なねば、何も終わりはせんよ。生きている限り全ては続いてゆくのだ。阿呆らしいとは思わんか。国破山河在、この地に湯が湧く限りこうして湯宿が出来、幾たびの戦乱、たとい国の滅びてさえ、ここには湯を求めて人が集まるだろう。人は生まれ、死に、我はまた小説を書く。愚かしき、実に愚かしきこと」

ーーしかし、とてもお楽しそうに仰る。

「それがかつて生きた我のすべて。我が小説のすべて。我の小説に下された評価のすべてよ。それはここに在る我の全てということだ。残念であったな、助手と任じたのが我でなくば、共に去んでくれたやも知れぬものを」

天人であった煙がふわりと窓の外へ流れ出す。その行く先をぼんやりと眺めていた先生がふと何かに目を止めて、わたしを差し招いた。寝間着の膝を擦って、先生の座る椅子の背もたれへ手を掛けた。洗い髪から香るのは清冽なひば油の微かな匂いだ。こんなに濡れていては、煙草の煙を吸ってしまうだろうに。
先生が灰皿に煙草をぎゅっと押し付けて、のっぺりとした印刷のような窓の外の景色を指す。さわさわと騒めく茂れる青葉の中を、藍染と当世流行りのスオウ色の影がちらちら、揺れながら山道を奥へと登ってゆく。肩を抱き合うように近付いたり離れたり、緩やかだが確かな足取りで。

ーーあれを、見せたかったのでしょうか。

「さあて。我にはなき物、知らぬ物。おお、司書よ、見るがいい」

先生が自らの髪を括る髪ゴムに指をかけ、ばらりと髪を解いた。あんなに濡れていた髪はすっかり乾いて、さらりと浴衣の背を滑る。その天鵞絨の窓帷の如き髪と同じ色をした光が柔らかに山頂から昇る様の美しさよ。

「夜明けだ」



(文アル 170814)




×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -