終焉 | ナノ



ーー親愛なる、



その少年の幻は、燻されたバジリスクの毒の胸の悪くなるような匂いと共に宙に浮かび上がってきた。赤みがかった黒髪、白い頬。全てがあの頃のまま。熟練の職人が細心の注意を払って彫り上げたような完璧なカーブを描く眉が少しだけ寄せられ、ふるりと薄い瞼がやわらかに震える。艶のある長い睫毛の下から鉱物質の輝きを持つ瞳が現れ、ゆっくりと光を取り戻してゆく様が夜明けのように美しかった。

「リドル」

わたしの声に、少年の幻が薄く微笑みを浮かべた。
遠い、もう届かないほど遠い日に失われてしまった微笑み。貼り付けたような薄っぺらな笑みだが、わたしはそれが彼の真からの微笑みであることを知っていた。人は愚かで哀れな生き物だから、教えられないものを知るはずがないのだ。彼に愉悦をもたらすのは、常に彼が彼自身の中から掬い上げてきたものだけであった。彼は彼の憎悪のみを師として生きてきたのだ。わたしは彼の半生を哀れに思い、そして同時に焦がれてもいた。かつて赤ん坊から神の言葉を学ぼうとした王のように、わたしはこの憎悪の息子が世界にどんな呪いの言葉を吐くのかを知りたかったのだ。

「リドル、ああ」

震える声で呼ばれた名前に少年が苦笑する。

「……僕はもう、彼の魂ではなくなってしまった」

「知っているよ。かつて彼を倒した者、生き残った男の子が、日記を壊してしまった」

マルフォイ氏が自分のしもべだった者に吹き飛ばされた時、わたしは足下に滑り込んできたそれを素早くローブの下に隠したのだ。もう二度と見ることはないと思っていた、懐かしい黒革の装丁のそれを。牙の毒に灼かれ、無惨な穴の空いた日記帳の背表紙をローブに突っ込んだ指先で撫でながらわたしは生き残った男の子の隣で笑ってすらいたのだ。寮対抗杯の勝利に沸くグリフィンドール寮のソファで、わたしは男の子を万感の思いを込めて言祝いだ。
男の子の生まれる何年も何年も前、わたしもこの大広間であの間抜けな組分け帽子を頭に乗せられ、男の子とおなじこの赤と金の寮に住まう事を許されたというのに、何という裏切りだろうか。男の子の緑色の瞳を見つめながら、あの頃の彼の笑みを真似てみる。即座に怪訝な顔をした男の子には、きっと多くの師がいたのだ。彼が望み得ず、また望むはずもないものを教えてくれる人々が。

「ならばこれは、何の魔法かな?」

「賢い人、あなたがわからないはずがない」

なぞなぞのようなわたしの言葉に、少年が眼を細める。幻はゆっくりと肉を持ち始めていた。白い指先、形のよい桜色の爪、薄い手のひらから続く細い手首に絡むローブの袖まで、わたしの記憶のまま鮮明に。一つ一つ階段を下りるように、宙に浮いた幻がこの世界に止まってゆく。
短く切り揃えられた爪が、トンと開かれた日記帳のページを叩いた。焼け焦げ、インクで汚れたページは魔法界の羊皮紙ではなく、劣化した加工紙だ。探るように表面を撫でていたリドルが、はっとしたようにわたしを振り返る。

「まさか、彼が君に?」

「最初で最後のラブレターだったね」

スリザリンの秀才トム・リドルが平凡なグリフィンドール生であったわたしの何をそんなに気に入ったのか、わたしには今もって理解できないところがある。お互いに物心つく前から孤児で天涯孤独であったが、しかしその共通点さえ特に彼の目を引いたとは思えない。わたしはただ彼の中の憎悪を知っていた。主人に忠実な獣のように、彼の中に燻り蠢いているものに敏感であっただけなのだ。
わたしと彼は一緒にダンスパーティにも行かなかったし、ホグズミードを連れ立って歩くこともなく、授業のペアさえ組みはしなかったが、それでも互いに心を傾けて生きてきた。彼が非道を犯し、わたしには決して触れられぬ感情に心震わせた夜でさえ。
わたしと彼は、確かに無二の友であった。

「彼はわたしに、同じ道を歩めとは決して言わなかった。そして、一度もわたしと同じ道を歩もうとはしてくれなかった。憎悪を飼い慣らし、緩やかに老いて、平穏に死ぬ道。彼の前にも、確かに拓けていた道だ」

その彼が唯一、わたしに残した呪い。

「君は……君はずっと待っていたのか。そんな、…そんな姿で」

「待っていたさ!これは呪いだ。彼が、わたしのためだけに残した、最初で最後の、他ならぬわたしへの!」

叩きつけた言葉の向こう、リドルの瞳にわたしの姿が反射する。頼りない頬の線をした黒髪の女。わたしの姿はあの卒業の日からずっと変わらぬままだ。皺も染みもない、つるりとした顔に色濃い疲弊を滲ませて、目だけが年老いたように青褪めた少女の姿で、もう何年の歳月を過ごしただろう。
最初に異変に気付いたのは、卒業して一月経った頃だった。魔法省の下部組織に就職し、押し潰されるような日々を送っていたある日、夜中にいきなり激痛がわたしを襲ったのだ。身体を捻り上げられ、内臓という内臓を掻き回され、骨という骨をバラバラにされるような暴力的な痛みの果て、わたしは鏡の中にきっちり一月前の自分の姿を見たのだ。一月の間に切った髪も、ちょっとした怪我も、爪の長さすら全てが元に戻っていた。衝撃に打ちのめされながらも、わたしは聖マンゴへは行かなかった。向かうべき場所は決まっていたのだ。わたしはその日の朝に職場へ梟を飛ばし、その足でホグワーツへ向かった。

尋ねたダンブルドアはわたしの姿を見るなり、痛ましげに眉を顰めた。彼にはこの結末はある程度予想がついていたのかも知れない。古い魔術書の中に呪いの解き方を示して見せたダンブルドアに、わたしは頭を振ったのだ。呪いというのなら、これはきっと彼の、わたしへの唯一の餞けだ。思い当たる事が無いわけではなかった。卒業の日、片付けを終えた後の寮の部屋に彼の名で届けられた紙切れには、一言だけdear.の走り書きがあった。その無言の手紙を、わたしは鞄の底に押し込めてホグワーツ特急に乗ったのだ。もう二度と戻ることはないと思っていた。わたしと彼の七年間、そして創立から現在まで、数多の魔女と魔法使いたちの悲喜こもごも、暗く明るく、時に宝石染みて時に汚泥に塗れたその七年間を澱のように溜めこんだこの城へ。

それ以来、わたしは物言わぬ屍のようにこの城で息を潜めて生きてきた。仕事は最初の四ヶ月で辞表を出した。何ヶ月経とうが変化しない容姿に妥当な言い訳がつかなかったからだ。 一月に一度、あの手紙を開いたのと同じ日、同じ時刻に襲い来る激痛に、死にかけの魚のように身体を痙攣させながらわたしは必死に彼のことを考えていた。激しい痛みを伴う呪い、その呪いを残した彼、そしてそれを受け入れているわたし。この呪いはいつ果てるのだろう。解く方法はあったが、自然に解けるものなのかどうかは訊ねなかった。そんなものを彼が残してゆく筈はないと、わかっていたのかも知れない。

「手放してやれる最後だと、思ったんだ。きっとね」

「違う。わたしを試みるつもりだったんだろう」

吐き捨てるような言葉にリドルが淡く微笑む。諦めを孕んだ、諌めるような微笑みだ。その微笑みもわたしの高揚に何ら影を落とすものではない。今ここにあるリドルは彼の魂ではなく、ならばその意味も彼のものではないのだ。わたしはわたしの中の彼を呪い、憎み、いつまででもここにある。
それでも。

「もう、あえないと思っていた」

ぽつりと、言葉とともに涙が開いた日記帳のページに染み込んでゆく。一度溢れてしまえばもう止めることはできない。確かに彼に言いたかった言葉、終ぞ告げることのできなかった思い、彼に差し出したかったもの全て、伸ばせずに落ちた腕も、何もかも。

「あなたの名を呼ぶことさえ、もう、できないのだと。そう思っていたんだ」

少年の幻は神の像のようにただ目を細めて、わたしに向かって微笑んでいる。悲しいほどに美しい、わたしの愛、わたしの心、わたしの真。もう手を伸ばすことができないのなら、せめて伝えたかった。わたしはあなたからの呪いを抱き、いつまでもここに在ると。あなたの恐れた死の腕があなたを抱くときも、地獄の底でその魂が炎に灼かれるときも、この世界が終わるその時でさえ、わたしは祈っている。あなたを思い、あなたを憶え、あなたの叫びを聴き続けている。
それがわたしの真実、わたしの永遠。

「ただ一度だけ、あなたに告げたかった。ねえ、リドル」

「ーー何だい、なまえ」

あの日のように少年が微笑む。わたしはあの頃の姿のまま、彼の目に映っているだろうか。遠い日、この城の中で若き日々を過ごした少年と少女がいつか望んだように。

「親愛なる君。愛していたよ。心から。そして、君の幸せを願っている。いつまでも、この世の果てまで」

少年は大きく目を瞠り、そして悲しげに唇を歪める。日記帳の傍らに置き去りにされていたわたしの杖を取り上げ、止める間も無く真ん中に穴の空いた無惨なページへ火を放った。革の装丁が、紙が、炎に焼かれてゆっくりと燃え尽きてゆく。少年の幻も、また。

「なら、一緒に潰えてくれるね」

わたしは心からの笑みを浮かべ、少年の幻へ手を伸ばした。抱き締めた背は一度も触れたことのない彼の肉体、埋めたことのないローブの香り、感じたことない柔らかな鼓動も。魔法の炎が日記帳からわたしに燃え移り、髪といわず服といわず、全てを灰にしようと燃え盛る。まるで中世の魔女狩りのようだ。世界を呪う男と、そんなものを愛してしまったわたしは、揃って本物の魔物だろう。ひたりと合った互いの肌が一握りの塵と成り果てるまで、どうかその時が世界の終わりであるように。



(ハリー・ポッター 170428)




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