終焉 | ナノ



月のない夜のことである。
栄華を極めたエルサレムの城壁は南北に長く、各所に設けられた門では篝火が焚かれ、夜通し衛士がその火を守るのだ。城門の内、小高い場所に作られたあの荘厳なるエルサレム神殿は、新月の夜の中、空を照らすほどに明るく輝いている。神殿の中、日課の祈りを捧げる王の気配を感じながら、そのしもべである豹の姿をした魔神は今しがた南へ通じる門をくぐった女の前にふと身を現した。
白い服に黄金の装飾を身に付け、目蓋を黄金に隈取った豊かな黒髪の女である。遥か南の国よりこの地を訪れ、今故国へ帰ろうとしている輝く瞳の女王。その国の名をシバという。

「何用か、ソロモン王のジンよ」

女王の背後では空の輿を担いだ従者たちが粛々と門を潜り先導に従って母国への道を辿っている。途切れることのない行列はこのエルサレムを訪れた時のような華々しさはなく、夜中であることを差し引いても人々はどこか消沈して見えるのだった。それをこの街の人々は神に愛された都を去る悲しみだと言い、聖なる王の膝下を離れる憂いだと言ったが、果たして。
女王に問われ、闇から体を引き上げる瞬間、騒めく七十一の同胞の声と微かに嗜めるような王の気配を感じたが、強く引き戻されるようなことはない。容認されているのか、取るに足らぬことと捨て置かれているのかは、魔神フラウロスにはわからぬことであった。自然界ではあり得ないほどの巨大な豹の姿を前にしても女王は驚く様子もない。ただ星を湛えた湖面のような静かな瞳でこちらを見つめているだけだ。彼女もまたフラウロスの主人と同じく千里を見通す眼の持ち主である。偉大なるソロモン王と同等の知恵を持った、黄金と香料の国、シバの女王。

「……このエルサレムに、留まられるわけにはいかないのですか」

「それは、ソロモン王からのお尋ねですか」

「いいえ、私の思うところを申し上げた」

「あなた、名は」

フラウロス、と答えたところで女王の表情に初めて変化があった。面白がるような、主人には終ぞ見ない表情である。フラウロスの主人は何が起きてもただ静かに微笑むだけで、そこには驚きも楽しさも悲しみも怒りもなく、ただ既に知っていたという厳然たる事実があるばかりだ。

「序列六十四位、魔術式フラウロス。あなたには王の眼と強い同調がある。視たのでしょう、この国の末も、王の末路も、神の何たるかも」

「王はそれをお認めにならぬ!」

「いいえ。わたしにもソロモン王と同じものが見える。魔術式フラウロス、あなたは確かにこのエルサレムの神から降された力そのもの。しかし人の子たるソロモンに編まれしもの。問いに答え過去、現在、未来を語るものよ、あなたの視たそれは全てではない」

人は自分の見たいものしか見ない。例えそれが"全てを見通す眼"であっても、範囲が広がるだけで同じことだと女王は言った。ソロモン王にある天啓とは、神によって見たくないものもただ視るように矯正されているだけなのだと。
フラウロスは憤る。ではなぜ、なぜ王は視続けるのか。それは神が王に下した使命ではないのか。この悲劇を止めよと、この世を善と幸福で満たせと、この地上の全てを栄えあるエルサレムにせよとの、使命ではないのか。七十二の魔術式はそのための機構であり、原理であり、力である。魔術式はそのようにして生まれたと思っていたし、そのために振るわれているのだとフラウロスは信じていた。

「魔術式フラウロス、あなたはソロモンより余程人らしい。何を思ってソロモンはあなたをそのように編んだのだろうな。ささやかな抵抗なのか、それとももう天啓なしでは後先を考える自由もないのか。何れにせよいつか手酷い意趣返しを食うことになろうが」

「何を言っている、シバの女王よ」

「視ていないのだな、王は。いや、視る必要がないとあなた方の神が言ったのか。曖昧な物言いを許してほしい。わたしの一挙手一投足から無限に枝分かれする未来を一つずつ精査していったのでは、わたしの寿命などすぐに潰えてしまう。その中でより太い枝葉の話をしたまでのこと。千里を見通す眼とはそういうものだ。便利で愉快な機能だが、人の身には過ぎる」

こういうのを未来ではスペックが足りないと言うのだよ。
女王はけらけらと笑う。笑ったままフラウロスに近付き、豹の姿を取ったその毛並みを柔らかに撫でた。燃える瞳の豹は馴染みのある魔力を纏った女をただじっと見つめている。

「それでも王は貴女を愛された」

ぴくりと豹を撫でていた手が止まり、女王がきょとんと瞳を瞬かせる。王国の女主人としていつも強い表情をしていた女の、初めて見る幼い仕草であった。そして不意に女王は笑い声を張り上げた。行列の幾人かがぎょっとしてこちらを見ている。女王は普段あまり笑うことのない王なのかも知れなかった。

「愛!愛か!そうか、あなたにはそう見えるのか。はは、よくもまあ、作り上げたもの。異教の神とはいえ感嘆に値する。そうだ、フラウロス。わたしの腹には王の子がいる、未だカタチは無くとも時満ちて生まれ落ちるだろう!だがフラウロスよ、ソロモン王がわたしに子を降したのはわたしが魔女だからだ。わたしが異教の神を奉ずる富める国の主人だからだ。これより後、わたしの国は記憶の砂に埋もれ、南とも東ともつかぬ何処なりと消え失せるだろう。しかしその遠き地で、例えそこがわたしの国でなくともわたしの子はあなた方の神を奉ずる礎となるだろう。そのようにあなた方の神が望み、ソロモンがそれを実行した。愛だと思うか?何への愛だ?あなた方の神へか?それならば道理だな。ソロモンに神を愛する自由があるかは別として!」

嘲笑うかのような言葉とは反対に、女王は静かで不可思議な表情を浮かべていた。唇は激情に震えているのに瞳はひどく静謐で、頬の稜線は微笑みを形作ってさえいる。憤怒か、喜悦か、悲哀か。少ない、サンプルが余りにも少ない。王の示す表情の中に、これと同じものはまるでない。フラウロスの奥で七十二通りの声がする。これは何だ。何だ。何だ。

ーーそれは憐憫である。
豹の姿のフラウロスは燃える眼を見開く。憐憫、哀れみ、かわいそうに思うこと。憐れまれた、わが主人、偉大なるソロモン王が、この、異教の魔女、小賢しい異邦の女君主ごときに。魔神たちの中で声が谺する。この女にわが王を哀れむことができるのであれば、そうだ、我々にもあの悲劇を、日々悲劇を繰り返す人間を哀れむことができるはず。

「……王はわたしから、そしてシバの国から神を奪っていった。いや、神を与えたのか?魔術式フラウロス、謁見の間であなたも王の中から見ただろう。わたしの獣の脚を。シバの国は永遠に女王を失った。山羊の脚持つ魔女の王でなければ、シバの国を栄えさせることはできない。恐れでなければわたしは王たり得ない。庇護の代わりにわたしは魔女の証たる獣の脚を奪われ、腹に子を宿され、わたしの名は後に広くあの神を讃えるために使われるだろう。わたしが望んでここに来たと思うか?違う、違う。そう定められていた。今神代は終わる。シバの国の神はもう失われた。あなた方の神に縋らねばならぬほど」

「王は、王はそれをご存知で」

「わたしが謁見の間でソロモンに何を言ったか、あなたは聞いていただろう。"ユダヤの王国はその威光を失い、いずれ滅ぶ定め。老いて後、あなたのその為政者としての評価も地に墜ちよう。"
ああ、笑うだけだった!あの男は笑うだけだったとも!神により比類なき賢王として立たされ、神により劣悪な圧政者として永遠にこの地に刻まれるとも、それが神の意思であるならばとあの男は受け容れているのだ!……わたしにはできない。わたしは、あの男の傍らに立ち続けることはできない」

女王は豹の頭から手を離し、そっと一歩だけ後ろに下がった。
白い服に黄金の装飾を身に付け、目蓋を黄金に隈取った豊かな黒髪の女。誇り高き支配者。地に名高き黄金と香料の国、シバの女王。
故国へ帰る行列はエルサレムの門を過ぎ、精悍な顔をした従者が二人と駱駝の牽く輿が夜に相応しいように音もなく女王を待っている。シバの国へ女王は帰り、そこで王の子を産むだろう。強く、神を信じて疑わぬ息子を。そこが南の果てであれ砂塵の向こうであれ、都は栄えそして消える。そうあれと王に知恵を下した神が望んでいる。

「魔術式フラウロス、王のしもべよ。別れの時だ。最後に何か、言葉をあげることができればと思ったが……そうだな、『爾の神ヱホバは讃べきかなヱホバ爾を悦び爾をイスラエルの位に上らせたまへりヱホバ永久にイスラエルを愛したまふに因て爾を王となして公道と義を行はしめたまふなり』わたしの行いはただ数行の記述を残して全て消える。……さらばだ。もう二度と、言葉を交わすこともあるまい」

輿に乗り、女王は永遠にエルサレムを去っていった。月のない夜を緩やかな足取りで進む行列の、シバの国の旗を掲げた男の背が闇に飲まれるまで豹はじっと燃える瞳を開いたままであった。エルサレム城壁を守る衛士の焚く火の夜は燃え、王は未だ神に祈りを捧げ続けている。



***

"わがたましひは衛士があしたを待にまさり 誠にゑじが旦をまつにまさりて主をまてり"

***



「シヴァ?インドの破壊神の名かい?」

その性格と同じくフワフワとした形容しがたい色の髪を揺らし、かつての学友にして現在の同僚がかくんと首を傾げた。差し出されたコーヒーのカップを受け取り、簡単な聞き違いに苦笑を返す。全く、だれが好き好んで観測装置にあんな危険な神の名を冠すというのだ。

「"Shiva"じゃない、"Sheba"だよ。Queen of Sheba……シバの女王さ」

「シバ……旧約聖書の?」

きょとんと瞳を瞬かせたその顔が、レフ・ライノールの中でいつかの女の表情と重なる。幼いその仕草の、なんと人間臭いこと。人を驚かせるという些細な優越を果たしたレフは、眼前のモニタに観測レンズの起動プログラムを呼び出した。この装置は過去、現在、未来の全てを見通す。かつてその眼を持った女のように、王のように。カルデアの量子演算器と炉心があれば、スペックが足りないということもあるまい。そこから枝葉の隅々まで見渡し、見通すがいい。遠き日の月のない夜の異邦の女王よ。
思わず笑みを浮かべるレフの隣で碧い瞳の同僚は静かに青い光を放つ装置を眺めていたが、その顔に浮かんだ余りに複雑な表情にレフ・ライノール・フラウロスが気付くことはなかった。怒りに似て諦念に近しく、かつて聖地にて女王が魔術式の前に示した静かで不可思議な表情である。人は見たいものしか見ないがゆえ。近未来観測レンズ・シバは地球の記録として自らの起動のこの瞬間も記録したが、それもすぐに過去のこととなり遥か手の届かない場所へ消え去ってしまった。



(fate/go 170323)




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