終焉 | ナノ



空は恐ろしいほどに晴れ渡っていた。
地表近くに至ってもその青は薄れる気配もなく、のっぺりと塗り込めたようにただ青い。空がこんなに青くては、鳥や羽虫すらも影を落とすのを躊躇ってしまうだろう。中天に輝く太陽だけが厚い布に空いた穴のように空に貼り付き、ガンジス川の畔に集った人々を静かに見下ろしている。あのクルクシェートラの森で死んだ百王子の遺体は既に荼毘に付され、この聖なる川に流された。山と積まれた薪の上に横たわるのは、傍に膝をつく五人の王子、その廃された長兄の遺体である。バタを注がれ、香油を塗られ、香木の薪を乗せられて、神の子として生まれ、御者に育てられ、義のために死んだ男の痩身は静かに時を止めていた。やがてそこには蛆が湧き、肉が腐れ、血とも腐汁ともつかぬものが絡み付いた白い骨と成り果てるだろう。偉大な戦士もやがて死ぬ。太陽が昇ってはまた沈むように。四人の弟に囲まれるようにして頭を垂れるユディシュティラ、そしてその右隣で薪の山を見据えているアルジュナ。そうだ、この美しい王子、偉大なる戦神の子にして雷電の烈しさを持つ者、輝く宝冠を戴く全ての勝利者ですら、きっと、こうして薪の上に横たわる日がやってくる。無私の聖人の葬儀に集った人々の上に確かに終わりを思い起こさせながら粛々と儀式は進んでゆく。

「火を」

ユディシュティラの声に薪の周りで神々を讃える詩を歌い続けていた僧侶たちが一際高らかに声を張り上げた。参列者の中からも一人また一人と低く祈りを唱える者が現れる。神々を、特にこの戦士の父であるあの中天に輝くスーリヤを讃える詩を。死は終わりではない。それは再生の始まり、長い旅路の途中。新たな世界への胎動なのだ。それはこの神々に支配された土地で生きる人々の希望であり、大きな絶望であった。死はそれを思い起こさせる。深い河のほとり、緩やかに、しかし暴力的なまでの強さで流れていく運命の恐ろしさを。
白い服を着た賤民が進み出で、その懐に抱いた種火をユディシュティラの前に捧げる。ユディシュティラは小枝に火を移すと、そっと遺体を包む布の端に近付けた。この世の凡ゆる色、凡ゆる美しいものを縫い込んだ、極彩色の布である。これは、この場に立ち会うことを許されなかった女たちが三日三晩をかけて誂えたものだ。クルの王族として絢爛な布地がカウラヴァたちの遺体を覆ったように、またこの幻のパーンダヴァの長の身体も豊かな布地で飾られた。その何もかもが蕩けるような炎に舐められ、激しく燃え上がる。

火を移した小枝を火の中に投げ入れ、そのまま滂沱と涙を流すユディシュティラの肩をアルジュナがそっと支える。道徳の神から生まれたこの兄は、一体こうも素直に感情を露わにできるのか。
無感動に炎を見つめていたアルジュナの目に、ここに居てはいけないはずの女の姿が映り込む。粗末な上衣に腰布を巻いた女は歌う僧侶たちを無いもののように過ぎ、座り込む参列者たちの合間を縫って、まるで幻か影のようにするすると五王子の前まで歩み寄ってきた。火はまだ燃え盛っている。

「何者ですか」

「栄光あれ、パーンドゥの息子たち。あなた方に名乗れるような身分の者ではない」

「ならば聞くまい。あなたはここが葬送の場と知ってやって来たのですか。それならば、あなたは咎められねばならない」

「わたしはカルナの葬いに来たのではない。約定を果たしてもらいにきたのだ。神かけて誓ったことである」

「……カルナと、何の約束を」

これ以上この男から何を奪うというのか。
人々は、他のパーンダヴァでさえただアルジュナと女の会話に息を詰めている。アルジュナはカルナを殺した者だ。その声には憤りがあった。

「かれは形見を遺すと言った。そしてそれはわたしのものだと」

「黄金の鎧を奪われ、国も、身分も、友さえ守れなかった、あの男から、一体何を」

「……かれの、腰骨を」

あまりのことにアルジュナは目を瞠り、アルジュナの腕の中でユディシュティラは身体を震わせた。女はただじっとアルジュナを見つめている。
ただ一つ持って生まれてきた光輝さえ奪われたお前、何も持たず何も容れず、結果的に聖人として生きざるをえなかったお前が、わたしに何を遺すというのか。女はそう言って目の前の痩身の男を嘲笑ったのだ。息子可愛さに恥を晒した闘神にさえ笑って黄金の鎧を与えたお前。友のために自身の高潔ささえ捨てたお前。奪われるだけ奪われて、それを憤ることもやめたお前。

「何も要らぬ。お前からわたしが与えてもらいたいものなど何一つ無いと、そうわたしは言った。だが、そうだ、その思い出。お前とわたしの記憶は、残してほしいと思った。既にわたしに与えられたものではあったが、……そう、よすが、というものとして」

「あなたの言い分はわかりました。ですが、その話が真実であることを誰も証明できない」

「偉大なるアルジュナ、あなたがカルナを殺したから」

眉を寄せるアルジュナに向けて、初めて女が微笑みを浮かべた。

「神に誓って。偽りであればアグニに捧げられたこの炎がわたしの血肉を燃やし尽くし、死を穢されたヤマの怒りが魂を裂くだろう」

全く無造作に燃え盛る薪に近付き、その裸足の蹠に灰になりかけた薪を踏む。さり、と薪が崩れ、赤々と燃えているのに女は眉すら動かすことはなかった。さり、さりと薪の山を踏み越え、燃え盛る遺体の上にその身を屈めた。身に纏った上衣がたちまち火に飲まれてゆく。誰もが女の死を予想した。肌にぷつぷつと水膨れができ、ひどい火傷が全身を覆い尽くすだろうと。
女は灰になった布の中を探り、その中から白く輝く筒状の骨を取り出した。胎児を抱く産婆のように敬虔に、無造作に。滑らかながら複雑な形状をした英雄の骨を白い裸の胸に抱いて、女は炎の檻から逃れ出る。それを待っていたかのように、とうとう薪とともに英雄の身体は燃え尽き、全てが灰へと還っていった。
人々はただ、呆然と骨を抱く女を眺めているだけだ。初めに動いたのはアルジュナだった。自らが肩に掛けた布を、見るに耐えないというように女の裸の身体に掛けてやる。その目に浮かんだ複雑な感情は、誰にも推し量れるものではない。おそらくは、そこで燃え尽きているかれの兄で永遠の敵だった者の他は。
女は布を胸の前でかき合わせると、アルジュナに向けて少しだけ目を細めた。

「わたしとかれの約束は果たされた。カルナの魂は砕かれた頭蓋より父のもとへ解き放たれ、業の一切は聖なるガンガーの御手が遥か海へと押し流してくれよう。わたしはここを永遠に去る。二度とお目にかかることもあるまい。……布をありがとう、美しいアルジュナ」

英雄の骨を抱いた女は、静かに一歩を踏み出した。死した者には決して踏み出せぬ一歩、未来を見据え、今いる場所から永遠に離れるための一歩。
人々の合間を確かな足取りで去ってゆく女の唇から低く歌が零れ落ちる。神を讃える詩でも、死者を悼む歌でもない、稚い、拙いとすら言える、それは恋の歌だった。白い骨は、ただ沈黙している。
ふと縛が解けたかのように、僧侶たちが賛歌を歌う声を張り上げた。女の歌を掻き消すように、高く高く声が唱和する。参列者の先頭から、人々が燃え尽きた灰へと殺到し、我先にとその灰を川へと押し遣った。取り残されたパーンダヴァたちは、その人垣をただ眺めているだけだ。解脱を願う、解脱を願う、解脱を願う。この英雄の、その全てが解き放たれてあらんことをこの人々は願っている。肩を抱いたユディシュティラがまた涙に噎せび入るのを感じながら、アルジュナは千里を見通す瞳をそっと閉じた。陽は相も変わらず中天に高く、女の影は既にどこにもない。



(fate/go 170318)




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