終焉 | ナノ


何にもなれなかったものたち




したしたと雨が降っている。
正確には雨というほど水気はない靄のようなものが森全体を覆っており、それが豊かに繁った葉に溜まって葉脈の先から滴り落ちているのだ。この国本来の激しい雨とは違う、滴るだけの慈雨である。雨雲があるわけではないので、雨は温かで朝日は白い。森の草木は艶やかで、灌木でさえ滑らかな茶色に輝いている。湿った黒土の匂いと、天上から雨に載って落ちてくる花の甘い香りが混じり合ってひどく心地が良かった。静謐で美しい、豊かな朝の景色である。
森の中に長く尾を引く鳥の声を聞きながら、わたしはその場に立ち尽くす。ここは何処なのだろう、いや、ここが何かということはわかる。しかし、何故。つるりとした木の幹に手のひらを当て、じっとりと湿った感触を味わう。足の裏に感じる柔らかな朽葉も髪を濡らす靄も、これはきっと幻だ。
その証拠のように、巨大なスイバのような植物を掻き分けてカルナが現れた。無造作に人の顔ほどもある葉を押し退け、何かを求めるようにふらふらと歩いている。白髪というには艶のある髪がしっとりと靄に濡れていた。見慣れたものよりも随分と豪華な黄金の鎧の上に生成りの布を巻いた姿は王にも乞食にも見えず、況してや只人ではあり得ず、一層のこと人の姿をしているが人ではないかのような、奇妙な違和を感じさせる姿だった。
カルナは頭上に厚い葉を茂らせた木の根元に座り込むと、何をするでもなくぼんやりと前を見つめている。わたしが無造作に近寄っても、顔を上げようとすらしない。気配に聡い普段のカルナではあり得ないことだ。醒める気配のない夢か幻を諦めて、カルナの傍らに立ち尽くす。木の根元は乾いており、カルナは雨を避ける場所を探していたのだと思い至る。こんな凡そ人らしからぬ姿で、濡れるのを厭うなどという人らしい振る舞いをしているのがおかしかった。
近寄って見れば、カルナが体に巻いているのはただの白布ではなく、一面に同じ色の糸で細かい刺繍の入った瀟洒な品であった。こんな森の中で、所々を武骨な黄金の飾りに引き攣れさせているよりは、寝台の上で女の柔らかな褐色の肌でも包んでいた方が余程に相応しい。死の決戦の前は大恩ある王のために王宮で暮らし、諸国の平定に明け暮れていたと言っていた。きっとその王宮の充てがわれた部屋から、手近にあったという理由で何も考えずに巻いてきたのだろう。実にカルナらしい理由である。
この幻は、一体どこから来たのだろう。直接サーヴァントと契約を結んだマスターであれば、夢を見ないというサーヴァントが繰り返し反芻するその記憶を垣間見ることもあるという。しかしわたしはカルナのマスターではなく、また魔術師でもない。そして何より、ここでカルナを見ているわたしはカルナの記憶を辿っているわけではないのだ。人は主観から逃れることはできない。五千年前の大英雄であろうとそれは人である限り不変のはずだ。これは誰の記憶なのだろう。わたしの妄想にしてはこの森は完璧すぎる。厚い緑の葉、饐えたような甘いような森の匂い、濃密な水気、白い朝日、どこか遠くで響く奇怪な鳥の声、大型の昆虫の唸るような翅音、柔らかな地面の温もりやカルナの呼吸に合わせて緩やかに上下する布の撓みまで。
カルナは長いことそうして宙を見つめていた。葉叢の下は乾いていたが、森全体に漂う靄がカルナの髪を湿らせ、睫毛の先に凝って透明な雫を付けていた。それが瞬きの度に弾け、或いは涙のようになって頬を伝うのが美しい。彼は間違いなくクシャトリヤの、王族の血を引くものなのだ。そして全き太陽の子。それなのに。
人として生きていたであろう頃の、このカルナには拭い去れない翳りがあった。人が太陽を見つめ続けることができないように、その輝きには決して無くなることのない黒点があった。定められた運命であり、数多の人からの呪いであり、神々からの有象無象の悪意である、翳りが。これのためにカルナは弟に敗れ、その死骸を晒すこととなった。友に勝利を齎すこともできず死んでいった。
今ここにいるカルナは己の死を知り、その結末を見定めているのだろうか。カルナは時々瞬きをするだけで、じっと座ったまま動かない。まるで森の彼方に、彼自身の運命を見据えているかのように。
どこか遠くから細く長く、祈りの歌が聞こえてくる。時折甲高い鉦の音が混じる、ただひたすらに解脱を求めカルマの浄化を願う声が。その声がカルナにも聞こえたのだろう。鹿のように頭を上げ、静かに耳をすませている。太陽はいつの間にか中天に差し掛かろうとしていた。

ーーカルナはこれから鎧を失うのだ。
唐突に思い至り、わたしは一歩後退る。カルナはこれから正午の沐浴に行き、アルジュナの父神によってこの絢爛な鎧を失うのだ。カルナに掛けられた最後の呪い、そしてアルジュナに与えられた最初のギフト。父の愛。父親の愛がカルナに神子の証たる鎧を与え、父親の愛がカルナからその証を奪う。



***



カルデアの厨房には巨大なオーブンがある。チキンならざっと十羽くらいは一気に焼けるし、もちろん火力も折り紙つきだ。天を衝く雪山の地下という立地にあるカルデアの職員は、当然のように年に一度、それぞれの生国の新年くらいしか下界に下りることをしない。拘禁されているわけでは勿論なく、有給もあれば冠婚葬祭で休みも取れる。単に下りるのが死ぬほど面倒なのだ。こんな所に職場があって、冬でも夏でも容赦無く吹き荒ぶ吹雪の中を盆暮れ正月GWと毎度毎度決死の覚悟で下りようという考えが浮かぶのはイエティくらいのものである。
もう設立当時から山を降りていないという剛の者もいるにはいたカルデアでは、食と衛生は最重要課題であった。ありとあらゆる技術の駆使、そして惜しみない天才ダ・ヴィンチちゃんの助力によって自給率を確保したカルデアは三人のシェフの尽力により最高の食環境を約束されていたのだ。
そのシェフたちの姿も最早厨房にはなく、わたしの作業を心配そうに見守っているのは黒いインナーの上に赤いチェックのエプロンをしたサーヴァントだ。その後ろの調理台には大人のひと抱えもありそうな耐熱皿にたっぷりのホワイトソースが掛けられた魚介ピラフ。今日の夕飯メニューはグラタンドリアだろうなと思いながらセンサーハッチを閉じた。あとは正しく温度が表示されるかを確かめるだけ。

「おっけー、動く動く。なおったよアーチャー」

「ありがたい!わざわざすまないな」

「これが仕事だからね。むしろアーチャーは自分で何でも直しちゃうから張り合いがないよ」

自作の極小マニピュレータを道具箱に戻しながらずりずりとオーブンから這い出す。わたし一人くらいならすぐにでも丸焼きにしてしまえるオーブンは、あまり長く入っていたい代物ではない。わたしと入れ違いにすぐ様予熱をかけ始めたアーチャーは、爆発でシェフを失った厨房の惨事を見て即座に当時召喚されていたサーヴァントたちを編成して食事供給班を作り上げた。生き残った職員たちはマスターやDr.ロマンを筆頭に皆どうにかして戦う準備を整えるのに必死で、食堂に備蓄されていた栄養補助食品やインスタント食品を、モニタに文字通り噛り付きながら惰性で食べて動き回っていた。気力が保つ内はそれで構わない。必死であればあるほど食は後回しでも問題ない。
しかし、一度糸が切れてしまってはどうだ?

結果としてアーチャーの判断は正しかった。冬木の特異点を制圧し、為すべきことが定まり、次の特異点が観測され、当面の方針が定まった途端に心身のバランスを崩す者が出てきた。要するに気が抜けたのだ。それを癒したのはDr.ロマンのカウンセリングと、サーヴァントたちの用意してくれた暖かい食事であった。
サーヴァントに食事は必要ないと言いながら、その有り難さを身に染みて知っているところはさすが、数多の修羅場をくぐり抜けてきた英霊といったところか。扱う部門の性質上、基本は魔術師ではなく一般人であるただ二人生き残った動力セクションは、ある意味ではこの事態に蚊帳の外であった。複雑な魔術式によって構築された魔術回路のバイタルチェックも、特異点の観測も、何一つ我々にはできない。意味不明の事態の中、わたしと同僚はカルデアの炉、プロメテウスの備品の一つでしかなかった。カウカソスの窟に繋がれ、再生する肝臓を大鷲に突かれながらただひたすらに火が途絶えないように見守り続ける存在。戦う術はあったが、後方支援も後方支援だ。もどかしくないと言えば嘘になる。加えて吹き飛んだ設備の修理も終わりが見えず、ささくれた心は徐々に逆剥けて、そろそろ血も流そうかという頃の。

「今日もご飯、楽しみにしているよ」



***



先日オーブンを直したお礼にと現在の厨房の主であるアーチャーに招かれ食堂に足を踏み入れた瞬間、そこにあった光景に驚愕のあまり後ろに仰け反ってしまった。
元から魔術師の集まりであるカルデアでは超弩級の機械オンチたちが日々最新鋭の技術を使うことに惨憺苦心しており、そのトラブルシューティングも動力セクションに一任されていた。どちらかと言えば理論派の他の同僚に対してわたしは実務に長けていたのでちょっとした修理や不具合など実に気軽に呼び出されていたので、少し懐かしさすら覚えたほどである。赤いチェックのエプロンが似合う弓兵が何の逸話で知られる英霊なのかわたしは寡聞にして知らないが、彼は軽い故障なら自分でささっと直してしまったりするので、いつも美味しい食事を頂いている身としてはこんな事で役に立てるのならば嬉しかった。
カルデアのブラウニーどのに礼をせねばな、と笑ったアーチャーの声は少しだけ、寂しいような懐かしいような響きをしていた。

「……カルナ?」

「何だ」

「アルジュナさん?」

「何か」

う、うわーー!!本物だ。本物のカルナとアルジュナさんだ。第五特異点で死闘を繰り広げた異父兄弟が差し向かいで茶を嗜んでいる姿に目ん玉をひん剥いて驚いてしまったが、当の二人は散々似たような反応をされたのだろう。しれっと優雅にハーブティーを楽しんでいる。何がどうなってこうなったのか。混乱が極まって立ち尽くしていると、六人がけテーブルの奥、所謂お誕生日席に座っていた王妃マリー・アントワネットその人がわたしに軽く微笑みかけた。その微笑みだけでこの頓狂な事態に説明がつく。きっと昼食だか食後のお茶会だかに二人とも招かれてやって来たのだろう。
カルナは基本的に受けた誘いを断ることはしないし、アルジュナさんは本心はどうあれ王子として招待してくれた相手に恥をかかせるような真似はしないだろう。難儀なことである。

「どうぞお座りになって、マダム。お食事がお済みでないのならご一緒に如何かしら」

オーストリアの至宝にしてフランス宮廷に咲き誇る白百合の王妃が、これまた優雅に彼女の向かいの席を指し示した。壁際の席に座っていたはずのサンソン氏がいつの間にか近寄ってきていて、さっと椅子を引いてくれる。正直さっさと逃げ出してしまいたかったが、直前で好奇心が理性に勝ってしまった。彼らはきっと昼食に誘われてここにいる。ご飯を食べながら和やかな会話を強要される生涯の天敵同士なんて滅多に見られるものではない。いそいそと席につくわたしを、王妃殿下は満足そうに、カルナは何時ものぼんやりとした調子で、アルジュナさんは無関心だがどことなく刺さるような目で見ている。下世話な好奇心などお見通しなのかも知れない。サンソン氏の手によってあっという間にわたしの前にもランチマットと湯気の立つカップが置かれ、中に琥珀色の液体が揺れている。サンソン氏、処刑だけではなくウェイターの真似事もできるのか。多芸なフランス人に関心しながらカップに口を付けた。この際マナーだの何だのは最低限の事が守れればいいだろう。何せ王族と食卓を囲むなどというイベントはこの方フラグすら立てたことがない。
そういえばこのテーブルに付いているのは皆高貴な人々ばかりだ。ラレーヌドフランスたるマリー王妃はもとより、アルジュナさんはクル族の王子にして軍と雷の神の息子、カルナも紛れもない王族であり神の息子であり、更にはどこにあるのか知らないがアンガという国の王の称号も持っていたはずだ。そんな人たちの間に座らされる日が来るとは、つくづく異常事態が極まっている。

「もう少しお待ちになってね」

にっこりと笑って王妃はカップを持ち上げた。高貴な人々というのは何をしても様になる。



(fate/fgo 170224)



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