終焉 | ナノ



三日間にも及ぶ不眠不休のシフトからようやく解放され、目の前の端末をオートメーションに切り替える。隣の端末に噛り付いているゾンビのような顔をした同僚へ端的に帰還時刻だけを告げると、モニタから目を離すことなくヒラヒラと手を振られた。もう片方の手は休みなくキーを叩きまくっている。それ以外にズラリと並んだ端末は沈黙したまま、席に座る者もいない。二人制交代なし、休日=肉体の限界という地獄のシフトになってから、この同僚と話す機会もめっきり減ってしまった。魔術を基礎とするカルデアの中でエンジニアばかりが集まるこの動力セクションでは、肩身の狭い者同士で魔術師の愚痴を言い合ったりそれなりに仲良くやっていたというのに。
自室に向かってふらふらと歩いていても、顔を合わせるのは職員ではなく人類最後のマスターによって召喚されたサーヴァントたちだ。顔馴染みのサーヴァントに目の下の隈を心配されながら自室にたどり着き、アラームを二十時間後にセットしてベッドに倒れ込んだ。前回部屋を後にしたままのベッドは、ふかふかのシーツもなければ微妙に汗と埃の匂いもしてお世辞にも心地いいとは言えないが、洗濯をする気力も掃除をする体力もない。風呂にも入りたいし何か食べたいような気もしていたが、指の一本さえ動かすのが億劫だ。何せ眠ることすら大儀に過ぎる。そういえば疲労と脳のパルス交感に関する論文の載った機関誌の定期購読便が届いているはずだった。何も考えず携帯端末に手を伸ばし、そしてわたしは心の底から後悔した。定期購読もくそもあるものか。世界は一度滅びたのだ。滅びて、失われてしまった。三日前から何の変化もない端末のインターフェースがみるみるうちに涙で滲んでいく。あの子供を人の未来への希望と定め、動力セクションでただ二人爆発を生き延びた同僚と共にその拙い魔力回路をこのカルデアの電力で補おうと決めた日から努めて考えないようにしてきたことだ。
マシュ・キリエライトがマスターの盾ならばサーヴァントは刃。ならば我々カルデアは、まだ年端もゆかぬただの子供にあまりに重いオーダーを課してしまった無力な大人たちは、決めたのだ。あの子供の血肉なること。幼いマスター、我々は君の身体を生かす血になり肉になり魔力になり、君に戦う意志のある限り、君が世界を救う英雄、星の救世主となるまで、共に戦い続けてみせようと。
それなのに。

「……どうした」

ぷしゅう、という間抜けすぎる音を背負って部屋に入ってきたのはカルナだった。わたしがいる事に少し驚き、わたしが泣いていることにとても驚いている。表情の変化に乏しい顔だが、付き合いでそれくらいはわかるようになってしまった。片手に待機中の暇潰しにと勧めた本を抱えているので、きっと新しい巻を取りに来たのだろう。わたしは動力セクションに缶詰めになっていることが多いので、わたしの部屋の認証キーにカルナのデータを追加して何時でも入れるようにしておいたのだ。ハマる人がハマれば次々に続刊を読みたくなってしまうのがこのシリーズである。

「……泣いてた」

「見ればわかる。オレが聞きたいのは理由だ」

聞いてどうするのだサーヴァントよ。静かに首を振って否を示すが、インドの大英雄どのは聞いてくれるつもりは無いらしい。埃臭いシーツに顔を押し付け、とりあえず涙を拭う。三徹明けの目も当てられないゾンビ顔とはいえ一応羞恥の何たるかくらいは知っている。起き上がる元気は無かったので、ごろりと転がってカルナに向き合う。本を片手に持ったまま、ぼけっと突っ立っているカルナは、見る人が見れば隙のない佇まいなのだろうが、生憎と刃物より魔術書よりスパナの方が手に馴染んでしまったエンジニアではその構えを理解してやることはできなかった。ただ律儀に部屋に一歩入ったまま家主の許可を待っているようではあったので、目顔で促すとすたすたとベッドの側まで近寄ってくる。サイドテーブルに本を置き、ベッドに転がるわたしの目線まで屈んでくれる。サーヴァントがマスター以外にこんなに簡単に膝をついても良いのかと思ったが、きっとこれがこの男の生き方なのだろう。紛れも無い王族の子として生まれながら貧しい者に寄り添って生きてきた人。輝ける太陽の子。棄てられた半神。

「つらい。生きていることが、辛い」

溢れた言葉はもう元には戻らない。じっとわたしを見つめるカルナの瞳があまりに澄んでいるので、止めることができなかったのだ。一度滅んでしまった世界。いつ終わるとも知れない戦いの日々。全てを託し頼るにはあまりにか弱く幼い希望。疲弊していく肉体と、磨耗していく精神が生き残ってしまった罪悪感の海で溺れている。
何故あの時、他のカルデアの職員たちのように消し飛んでしまえなかったのだろう。『外』の世界の人々のように何も知らぬまま消え去ってしまえなかったのだろう。
今も戦い続けているあの子供やDr.ロマン、盾の少女、召喚に応えた英霊たち、そしてこの瞬間にも動力炉を動かすために心身を削っている同僚には死んでも聞かせられない告解だった。誰もがきっと一度は同じことを思い、それでも世界を取り戻すために心を奮い立たせているこの戦場で、決して口にしてはいけない言葉だった。

「強くありたいと願っている。戦い続ける覚悟もある。そして、何よりわたしには世界を救う者を手助けするだけの力と技術と設備がある」

捨てることはできない。既に、このカルデアの職員全てが代えの利かない存在になってしまった。そうでなくとも、わたしはわたしの矜持で逃亡を許さないだろう。それでも。

「こうして、もうどこにも人の世界が無いことを知るのが、たまらなく、つらいんだ」

茫漠とした無人の砂漠を彷徨うような、悲しい感情が消えてくれない。
限りなく純粋な虚しさと、その感情を抱くことを糾弾する幻影がわたしの心を蝕んでゆく。それは為す術もなく死んでいった仲間たちと未曾有の大災厄に見舞われたことすら理解できずに消え去っていった筈の見知らぬ人々の姿をして現れる。何故お前は諦めようとしているのか、戦う力があり世界を救う希望があり望むべき未来があり、何より、何より、お前は生きているというのに!

わたしの妄想に過ぎない怨嗟の影が吐く呪いの言葉を、カルナは正しく理解しているようだった。これはきっと、人のために正しくあろうとした全ての英霊たちに囁かれてきた呪詛なのだろう。何度も何度も、凡百の匹夫たる弱い者たちから数限りなく明に暗に、毒のように耳に吹き込まれてきた悍ましい願いだ。
英でている、優れている、それ故に常にその雄たる証を求められてきたひと。

「お前のその嘆きは、もっと烈しいもののように思うが」

泣いている理由を問うてきた時と同じ、平坦な声だった。真っ直ぐで澱みなく、何も持たざるが故に鈍ることを知らない刃のような声だった。

一瞬で顔が燃え上がった。
あまりの羞恥と、信じがたいことに怒りすら覚えて、わたしはカルナを睨み付ける。その瞳はただ青く、表情は全くの無だ。耐えられない。何も羞じることはなく、何も怖じることはなく、何も後ろめたいことはない。耐えられるはずがない。これは暴き立てる者の目だ。咎めもせず、裁きもせず、憤ることさえしない。ただ暴き立てられ、直視させられる。醜く恥ずかしく不完全で弱く汚い自分を。真夏の太陽が全てを白けて見せるように、全てを白日の下に引きずり出されるような。
この太陽のような男の前に在って、笑って立っていられる者は余程の聖人か余程の俗物だけだろう。わたしは聖人になれるほど愚かではなく、俗物足り得るほど聡くもなかった。ただの矮小な人間であった。
そしてその羞恥を、カルナはきっと理解しない。過たず、美しく、正しく在る者は、遠慮斟酌なく照射される陽光を怖れはしない。わたしは第五特異点でカルナと死闘を繰り広げたというまだ見ぬサーヴァントのことを思った。彼は、その英雄は、カルナと同じように呪いの言葉に縛られ続け、そして知っていたのだろう。自らが全き正しい者ではなく、拭い去れない瑕疵ある身であることを。こんなものを宿敵に持っては、心休まる暇も無かろう。癒えることのない膿持つ傷を、無遠慮に掻き回されるようなものだ。あまつさえ彼は義務として、カルナを殺さなければならなかったのだ!

「……例えば、この聖杯探索が失敗したとして。どこかであの子供が、刃たるサーヴァントを全て奪われ、魔力を絶たれ、カルデアから切り離され、四肢を?がれ頭を潰され、絶望と嘆きと、恐怖と悔恨のうちに死んだとして」

その力を持ちながら、ただの凡夫であったが故に、真の英雄たり得なかったがために。

「世界を救えずに死んでしまったとして」

カルナがそっとわたしの眦に触れ、こぼれた涙を指先で拭い取った。爪の先までを覆うカルナの装備に、小さな涙などすぐに吸い込まれてしまう。黒い、絹のように滑らかな指先だった。

「わたしはきっとあの子供を呪ってしまうだろう。わたしには無いものを持ちながら、なぜ、わたし達を助けてはくれなかったのか、と」

人類最後のマスターが救世の英雄などではないことを、誰よりもわたし達が知っている。それでも尚、救いを求め失敗を許さず、持たざる立場から持つ者を非難する。嘆くだけでは飽き足らず、勝手な失望があの子供をぐちゃぐちゃに塗り潰してしまう。

「嫌なんだ、みにくい。とても醜い。ひどい恥知らずだ。知りたくない。地獄を生き延びて、世界を呪って、その責を一人の子供に負わせて、口を拭ってのうのうと死ぬなんて、絶対に、嫌だ」

白日の下に晒され、どろどろに溶けた醜いものがわたしの口からずるずると這い落ちる。怨嗟とも懺悔ともつかない、悍ましい自己保身のかたまりだ。外の世界が存在しない事実は、容易くこの醜悪を溢れさせる。それが真から恐ろしかったのだ。
カルナは溢れるわたしの涙を指に吸わせながら、何かを考え込んでいるようだった。泥のように重たい身体をようやく睡魔が掘り起こしたらしく、緩やかに脳が揺さ振られる。こんな思いを吐き出したまま眠りたくはなかったが、カルナとの会話は思った以上に体力を消費したらしい。つ、と眦を押さえていたカルナの指が離れ、わたしの耳の下、脳につながる太い血管の上で動きを止めた。少し塞き止めるだけで脳に重大なダメージを与えることもできる場所。
わたしはカルナのマスターを呪うと言った。当たり前のように聖なる言葉が力を持っていた時代の男だ。カルナはそれにより生まれ落ち、力を得て、力を奪われ、そして死んだ。溶金でできた、ただ照らすだけの太陽が慈悲の一滴をわたしの上に齎すというのなら、是非もあるまい。

「かるな」

「お前が望むというのなら、オレは与えもしよう。だが、お前は決してそれを望むまいよ」

お前の魂は高潔だ。
それだけを言い切ると、カルナは足元に蟠っていた毛布をわたしの上に掛け、シリーズ本の次巻を本棚から抜き取って部屋から去っていった。わたしは扉が閉まるのを見届け、それから枕に顔を押し付けて声にならない叫びを上げた。高い高い、誰にも届かない悲鳴を上げ、涙を流し、喉が痛んで血の味が滲むまで、ただひたすらに無言のまま叫び続けた。

潰えたはずの世界の果て、これから始まる争いの予感に震える大地と、蒸すような熱風の吹き抜ける木々の合間から神の声が聞こえてくる。戦えと、高く低く、歌うように義務を説く。かつて一人の英雄に囁かれたその言葉は数多の影の声と唱和して、今も尚遠く近く響き続ける。決して途切れることはない。それはまるで呪いのように、この世界が真に滅びるその日まで。



(Fate/go 170131)




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