終焉 | ナノ

時代考証はめちゃくちゃ。



最近銀座にできたビヤホールというものに行かないかと春草さんのお仲間に誘われたのは、森様の美術学校での授業の後だった。森様が屋敷に忘れたフイルムを届けに行っただけだったのだが、玄関で出会った貫禄のある紳士に聴講を勧められ、あれよと言う間に一番後ろの席に座らされると、そのまま森様の授業を受けることになってしまったのだ。
森様のその日の授業がフイルムを多用した易しいものでよかったと思う。周りにいるのは皆この美術学校の入学試験を通った学識のある人ばかりであろうし、そんなところに元士族の出とはいえ無教養者が入り込んで内容もちんぷんかんぷんでは菅公様の雷にうたれても文句は言えまい。
ざわつく授業後の講堂をそっと抜け出そうとしたところで森様に見つかってしまったのがよくなかった。森様はいつ何処でも華やかなご自身の雰囲気を隠そうともしないし、その後ろには早速授業の感想や質問を話そうとする学生たちが金魚の糞のようにくっ付いていたのである。その先頭にいた何だかお顔の濃い青年には見覚えがあった。

「傑作だから、貴女も見に来るといい」

話を聞いた森様がくださったお小遣いの入った紙いれを握り締め、隣の青年を見上げる。こんなに年の近いお人と俥に乗り合わせたのは春草さん以外では初めてで、何だか気恥ずかしくなってしまう。森様は兄のような年齢だし、フミさんはそもそも俥を使わない。ああ、わたしの世界の何と狭いこと。青年の着物からは春草さんと同じような、膠と何か金属質の匂いがしているのにわたしの心持ちは全く逆さまだ。
わたしの動揺など全く気付かないように、隣の青年は春草さんがビヤホールに拘束された経緯から流れるように喋り続けている。曰く、春草さんと青年の先生の言い付けにより酒修行なるものをしているお二人は、折角ならと銀座に新しくできたビヤホールに行こうと話を決めたらしい。黄金色の麦酒を楽しみながら、しなしなの薄切り大根を摘んで話すのは昨今の情勢、女
、愚痴、絵の話。男の人というのは政治の話で大いに盛り上がれるものなのだ。その最中、春草さんの例の病気がなんとビヤ樽を置いたカウンターに発症してしまったらしい。

「貴女も一度は見たことがあるでしょう。彼はああなったら梃子でも動かないんだ」

苦笑する青年の気持ちは大いにわかる。万感の思いを込めて頷くと、一瞬青年が真顔になった。発症した春草さんはふらふらとカウンターに近付くと、熱に浮かされたようにカウンターを誉め殺しながらゆっくりと素描を取ろうとした……らしいのだ。そう、できなかったのである。何せ開店したばかりのビヤホール、客も店も大忙しで、特にビヤ樽の置かれているカウンターの前は蜂の巣よりも騒がしい。邪魔の一言で春草さんはカウンター前から弾き出され、以降は近付くこともできなかったという。

「あれで彼は中々に諦めが悪い。店主を探し出して交渉に行ったんだ。それで何がどうなったのかはわからないが、今夜ビヤホールで流行歌を歌うらしい」

きっと店主には商売人としてのそれなりの勘があったのだろうと青年は言う。謡曲や長唄などとも違う洋式の流行歌は、まだ本格的な市民権こそ得ていないものの、ビヤホールのようなモダンな場所ではよく演奏され歌われるのだそうだ。わたしは森家の女中であるからして夜は出歩くこともないし、森様はお酒を嗜まれないのでそんな場所に出入りした経験は一度もない。
そもそもわたしは酒が飲めるのか?青年がいるからまさか間違いはなかろうが、いやしかし。にわかに不安に駆られた辺りで、石造りの建物の前で俥が足を止めた。

俥から降りたわたしたちを、黒い給仕服の青年たちがビヤホールの中へ誘う。青年は慣れても不慣れでもない様子で柱の陰に置かれたテーブルに近づき、わたしのために椅子を引いてくれた。西洋人と交流があるという春草さんと青年の先生の影響だろうか。その仕草は森様にも似ていた。
麦酒を、という青年の声に、給仕が笑顔で頷く。程なくして置かれた白い泡の立つ飲み物を前にじっとしている向こう側で青年がさっそくジョッキを傾けて麦酒を煽った。どんどん無くなっていく黄金色の液体はあまり美味そうにも見えない。
ああ大分前に鬼籍に入った父母よ、娘は今初めて酒というものを飲みます。

「貴女、なかなかにいけるクチだったんだな」

「初めて飲みましたが、ラムネみたいなものなのですね」

甘さはないが爽快感はある。パチパチと喉に弾けるビヤの感覚は、この前春草さんと飲んだラムネによく似ていた。初めて摂取するアルコールに、どこか頭の奥の方がぼんやりとしてくる。奇妙な高揚感と、楽天的な気分は何だか悪くないと思える味だった。



(明治東亰恋伽 161109)




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