夢見鳥と映日紅06




 埋火の洞へと続く果樹の網を、蓬髪の男は見つめていた。
 さくりと落ちる花冠が、ぽたりと落ちる果実が、夢から醒める花虻が、岩に濾される飛沫が、裂けた球体に降り積もる。暁にほころぶ果樹の蕾を、夜咲きの花の散る様を、首を擡げる草の芽を、夜明けを告げる囀りを、夜明けに軋む風鳴きを、茫然と、漠然と、男は聞く。川より這い上がる靄に肌を撫でさせながら、瓢の口に唇を当て、男は酒を呷った。
 朝靄とも夕霞ともつかないものが、花と果実で彩られた洞の底を流動する。樹木の網の片隅で、捻れた桃の老木を、ぼやけた陽光が覆っていた。靄の渦を漂う蝶の、黒の軌跡と陽のあたたかさに誘われるように、芽吹いている蘗にかまうことなく、男は老木に背を預け、地に坐った。
 靄を掻き乱す夜気が、葉擦れに紛れ、水音と、ひとの声のような響きを運んできた。声らしき響きはひどく薄れていて、意味を成せるほどの音は残っていなかったけれど、驚愕と、戸惑いと、憤りとが、残響として男の肌を撫でていく。
 虫を誘う馨しさを、獣を誘う香気を、酩酊の淵で、男は吸いこんだ。紅の目が地を泳ぎ、老木の根にひっかかるような格好で下草に隠れている果実を見つける。男は目をしばたたき、見つけたそれを拾った。それは、男の親指ほどの大きさの、滴のようなかたちをした、紫と紅を下地としているかのような、緑の実だった。
 滲むような熱を帯びた男の指先が、実の冷ややかさをとらえる。両の親指の爪で、男は実の皮を裂いた。熟しきれなかった実の、花をくるむ薄い皮が割り開かれる。白緑の縁と、色づきかけた花の束。歪んだ球形のその様は、柘榴石の晶洞を想起させる。実の割れ目に男の舌先が触れ、ほのかな甘さが渋みの痺れに潰された。兄が抱き上げて洞を去った、眠ったままのはずの少女の、蕾のほころぶような声が、幻の裡に男の耳を撫でる。ゆらめく翅の残像が、男の目の端にちらついた。紅とも黒ともつかないその色彩に、割けた実に唇を触れさせたまま、男は首を擡げる。
 埋火の洞から吹き上がる夜気が、謝意めいたふるえを、靄に散らす。
 ひりつくような感情の残滓に、男は紅の目を眇め、手にある実に歯を立てた。酔いに朱を帯びた眦が、仄青い洞へと傾ぎ、戻る。俯いた男の口の端が、ぎこちなく吊り上がった。
 六花のように、涙珠のように、花冠と花弁は落ちてくる。
 果樹の軋みと、鳥の囀り。竹林へと流れる水の路と、靄に湧き立つ暁の黄金。
 遠く、撓った青竹の鳴りが、空を裂いた。
 男の唇が薄くひらく。その蓬髪に花弁が落ちた。ひりつく舌で歯の裏を舐め、男は咲みのかたちをした唇で実を撫でた。いとおしむように懐かしむように、噛み千切るように優しく、映日紅の実を唇で撫でた。


(『夢見鳥と映日紅』/了)
(初出:『僕らの距離』 2013年発行)


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