「君は本当に死んでいるんだね」 ひたりと胸に耳を当てた彼は嬉しそうにひとりごちた。 確かに、もう心臓が脈打つことはない。血も通っていない。医学的に見れば自分の身体はすでに屍でしかないのだろう。 その点では、彼の言うことは正しいと言える。 「王子」 「なんだい、屍揮者殿」 ゆるりと笑んだ彼には依然として離れるそぶりはない。 この青年は、度々この森にやってきてはこうして僕に触れる。 彼を押し遣ろうと抵抗を試みたことも勿論あったが、今ではすっかりされるがままになっていた。 力一杯抗ったにも関わらず軽くいなされてしまい、逆らうだけ無意味だと悟ったのが主な理由だが、大人しくしていれば特に危害を加えられることもなくやり過ごせるのだと学んだためでもある。 飽きもせずに訪れるところを見ると、彼はよほど死体に執着があるらしかった。 とは言え、そこらの草陰にいつまでも倒されているのは頂けない。 「……君が死体を愛しているのはよく解った。だが、私は君の思い描く理想とは幾分ずれているのではないかな」 あられもなく開かれたシャツの隙間から滑り込んでくる夜気がちくちくと肌を刺す。忍び寄る寒さに、身体が微かに震えた。早くこの場を逃れたい。 「と言うと?」 「死人とは喋らないものだ。それに動きもしない。……もう気が済んだだろう? いい加減にどいてくれ給え、私は君の望みに沿う存在じゃないんだ」 さあ、と促す。これ以上べたべたと触られるのはもううんざりだ。 しかし鷹揚に構えた彼は一向に身を退こうとしない。それどころか、身体をぴったりと重ねてきた。胸の辺りにさらさらと零れる金髪がこそばゆい。 「おかしなことを言うね」 胸腔に甘やかなテノールが響く。 「君は正しく屍体じゃないか。それも美しい。何も問題はないだろう」 いかにも愉しそうに朗々と言葉を継ぐ彼は、身じろぎ一つ赦さないとでも言わんばかりにのしかかってくる。 次の瞬間、首筋に歯を立てられ間抜けな声が漏れた。 「……っ、何を……?」 僅かに走る痛みに眉を潜めながら問うも、明瞭な答えは返ってこない。 今までにない動きに少なからず動揺してしまっているのは確かだった。ただならぬ空気を感じて抜け出そうともがいてみるが上手く行くはずもない。 彼の表情を窺うことすら叶わないというのは、酷く恐ろしかった。 傷口を這う舌の感触に肌が粟立つ。 「王子、何をするつもり……っん、う……!?」 二度目の問い掛けを最後まで口に出すことはできなかった。 翡翠のように煌めく両眼をやっと捉えたと思ったのもつかの間、気づいたときには口内がぬるりとした感触に満たされていた。何か熱を持った物体に歯列をなぞられ、自身の舌を絡め取られる。息が苦しい。 悪寒にも似た何かが、ぞくぞくと体内を駆け抜けた。 その物体が彼の舌で、自分はいま彼に接吻されているのだとぼんやり理解する頃には、意識は撹拌され何も考えられなくなっていた。 とにかく酸素が欲しくて、力を振り絞り必死で彼の胸元の辺りを叩く。願いが聞き届けられたのか、それとも彼が満足したからなのかは分からないが、しばらくして漸く解放された。 「はっ……あ、…はぁ……っ」 ぶつけたい文句は山のようにあるというのに、満足に頭が働かない。口の端を伝う唾液が気持ち悪い。 「はは、ずいぶんと初心な反応だね。キスは初めてかな、お姫様?」 「……っ!」 からかいを含んだ口調に苛立ちが募る。 力の入らないこの身を助け起こすように恭しく伸ばされた手を振り払い、ずるずると後退った。 「ふ、ざけるな……何の、つもりだ……!」 荒れた呼吸もそのままに問い詰めるが、彼は飄々とした態度を崩すことなく笑っている。そして何事もなかったかのように立ち上がると、土埃を軽く払いクラバットを整えて言った。 「おやおや、姫君はお怒りのようだ。また日を改めて出直すとしようか……そうだね、僕が近付くことを許さないと言うのならせめてこれでも使ってくれたまえ」 本当は僕が拭ってあげたいんだけれど、という残念そうな呟きとともに、膝の上にひらりと白いハンカチが落とされる。 「そんな淫らな顔をしていては、不届きな輩に襲われてしまうよ? では……Auf Wiedersehen,屍揮者殿」 (誰のせいだと、思っているんだ……!) くるりと踵を返し、宵闇の森に融けるように消えていく背中に向かって吐いた悪態は声にならずに消えた。 11.01.30 [ back ] |