劣情、或いは(冬闇)1 | ナノ



 まただ。身体の芯が疼くような感じ。

「っ、エリーゼ……。ごめん、ちょっと外に出てくるよ」
「マタァ? ネェ、私モ連レテイッテヨ、メルゥ」
「すぐ戻る、から……エリーゼは此処でおとなしく待っていてくれるかい」
「モウ、メルノケチ!」

 エリーゼの駄々を振り切って息も切れ切れに井戸から這い出る。
 辺りの下草に付いた夜露で服が濡れるのも構わず、半ば頽れるように井戸を背にして座り込んだ。
 煉瓦独特のひんやりとした温度が背中越しに伝わってきて心地好い。

「は、……あぅ……」

 あつい。
 吐息までが熱を帯びている感覚が堪らなく気持ち悪かった。
 宵闇を湛えた静かな森に、己の息遣いだけが響く。

 以前からときどきこの症状に悩まされてはいた。狂おしいほどの疼きが身体中を蝕んで、いても立ってもいられなくなるのだ。
 しかし、最近は特に顕著だった。少し我慢すればそのうち消えていたはずの苦痛は次第に長引くようになり、夜ごと僕を苦しめていた。
 僕の身体は一体どうしてしまったのだろう。

 何だか無性に怖くなって火照る身体をぎゅっと縮こめてみても、熱が収まる気配は一向にない。
 身を灼かれるような熱さに、これはやはり何かの病気なのではないかという疑問が頭をもたげる。
 でも僕が病に掛かるなんて――

「メル君? 何してるの、そんなところで」

 もうすっかり聞き慣れた声。
 弾かれたように顔を上げた先、僅かに離れた茂みにはワインらしき瓶を抱えたイヴェールが訝しむような面持ちで立っていた。

 こんなに近づかれるまで気配に気づかないなんて。
 注意力の鈍っている自分を呪う。だが、自分と同じような存在の彼なら何か解決策を知っているかもしれないと同時に微かな希望を抱いた。

「あ……イヴェ、ル……」

 吐息混じりに呟いた声が妙に上擦っていたせいか、イヴェールの顔に困惑の色が浮かぶ。
 もちろん彼の気持ちは充分に理解できたが、変化に一番驚いているのはほかならぬ自分自身だ。己の口から出たとは思えない声色にぎょっとした。

「……どうしたの? 何だかその、目も潤んでるし、苦しそうだし……。か、風邪かな?」

 すぐに駆け寄ってきたイヴェールは心配そうにこちらを見遣るものの、どことなく普段にはない距離を感じさせた。
 気遣ってくれているのだと思いたかったが、何かを言い淀むような彼の様子が気になり、さらに不安を煽る。
 自分の身体にいま何が起きているというのだろう。

「わ、からな……あつい……からだの、おくが……っは、あ、たすけて、」
「うわっ……!」

 メルヒェンが藍色の袖を掴んで必死に訴えると、バランスを崩したのか、イヴェールは彼の真正面、開かれたメルヒェンの両脚の間に割って入る形で膝をついた。

「あ……すまない」

 大丈夫だろうか、とイヴェールの顔を覗き込むと、紅と蒼の綺麗な瞳の奥が動揺に揺れているのが伝わってきた。

「メ、メル君……いつぐらいから具合悪いの? あと症状とか教えて貰ってもいいかな……?」

 たまらず視線を外したイヴェールは、やっとのことでこれだけ言葉を絞り出す。
 いつもと違う、有り体に言ってしまえば淫靡な雰囲気を纏っているメルヒェンの表情は心臓に悪かった。
 この状況に少なからず興奮してしまっている自分に罪悪感を覚えながらも、まずはいきさつを聞こうと必死に心を落ち着けた。



 状況を一通り説明して貰ったイヴェールは、このタイミングで彼の元を訪ねたことを猛烈に後悔していた。こんな形で理性を試される日がくるとは思ってもみなかったのだ。
 しかし沈む気持ちに相反して、心拍数は先刻から上昇し通しである。

(どう考えても、欲求不満……だよねぇ?)

 さきほどの彼の様子が瞼の裏に鮮明に描き出された。
 まさか自分を誘っているのだろうか。ちらりと脳裡に浮かんだ考えをぶんぶんと振り払う。
 ないない、あのメル君に限ってそんなことするはずがない。この前ふざけてその手の話題を振ってみたときだって、全然反応しなくて――。

(……もしかして)

 イヴェールはふと思い至った。
 もしかして、彼は単にそういう話に興味がなかったのではなく本当に意味が分かっていなかったのではないか、と。
 そう考えればすべて辻褄が合った。あの時きょとんとしていたのも、いま現在彼が何の躊躇いもなく嬌態を晒しているのも。

「えーと、メル君……」
「なん、だ」
「すごく聞きにくいんだけど……ごめんね、もし見当違いな質問でも怒らないでね?」

 明らかに熱を持て余している様子のメルヒェンに、イヴェールは怖ず怖ずと尋ねる。
 確かめてみよう、そう思った。
 だが、少なくとも外見年齢は自分とそう変わらないメルヒェンに面と向かってこんなことを聞くのは妙な気恥ずかしさがある。
 そして何より、彼の口から紡がれる返答を聞きたくないというのが正直な気持ちだった。自分で聞いておきながら、何とも勝手な話だが。

「その……自分で処理したこととかある、よね?」
「処理……なにをだ……?」

 この状況でピンとこないものだろうか。
 いや、これで感づくようならそもそもこんなことになっていないのか。
 できるだけ感情を出さないように、出さないようにと繰り返し意識しながら言葉を繋げる。

「……えと、分かりにくかったかな、うー、……オナニー、したことある?」
「たぶん、ないが……。それはどういった行為なんだ? はじめてきく、ことばだ……」

(き、君の国の言葉じゃないかっ……!)

 嫌な予感は的中していた。彼にはそういう見識が決定的に欠如しているらしい。
 この分だと、言葉の意味を知らないだけでなく本当に自慰をしたことがない可能性も高いだろう。それなら、時折体調に異常をきたすというのも頷ける話だ。

 だが、それを知ったところで僕に何ができるというのだろう。目の前で手本を見せてやれとでも言うのか。

――ああ、何で僕はこんな恥ずかしい思いをしてるんだ。これじゃあ単なる羞恥プレイじゃないか!

 もう投げ出してしまいたい気持ちと、彼をこのまま放っておく訳にはいかないという心配がせめぎ合う。
 悔しいけれど、後者の占める割合の方が断然大きかった。

 自慰とはどういうものなのか、どうすれば良いのか。
 こうなったら、もういっそ保健の先生や医者にでもなった気分で事務的に済ませるしかないと心に決めた。
 しかし人の意志とは脆いもので、ついつい徒に思考を巡らせてしまう。

 潤んだ目でじっとこちらを見上げてくる彼は、肉体的には成熟した青年でありながら性に関する知識は恐らく皆無で。
 つまり、まだ何も知らない、純真無垢な子どもと同じなのだ――改めてそう認識した瞬間、倒錯感にくらりと眩暈がした。

「それより、これは…なんという病なんだ……。君なら知っているかと、おもって……」

 僕が余計なことに気を取られているあいだ心細かったのか、コートの端を掴んだ彼は縋るようにぐっと僕を引き寄せた。

「わあっ……ち、近いよメル君……!」

 僅かに朱く染まった目元が、涙で今にも溶けてしまいそうな白金の瞳が、薄く開かれた唇から垣間見える紅い舌が、睫毛の触れ合うほどの距離にあった。

――ああ、駄目だ。

 ごくり、と喉が鳴る。下腹の辺りに熱が溜まるのを感じた。
 これじゃあ僕の方がよっぽど欲求不満じゃないか、と自嘲してみても、自分の手で乱れる彼を想像すると疼きは増すばかりだった。

 まさに目と鼻の先にいる彼が黙りこくっているのを不審に思ったメルヒェンが、答えを促すかのようにイヴェールの顔色を再び伺うと、微かに彼の頬が紅潮していることに気づいた。

「どうしたんだ……顔があかい、が」
「〜っ……! 誰のせいだと思ってるのさ……もう、我慢できない」

 散々煽った君が悪いんだからね、無自覚なんだろうけど!と心の中で言い訳する。
 儚くも千切れてしまった理性の糸を縒り直すことはもはや不可能だった。

 状況が把握できない、といったふうに小首を傾げるメルヒェンをよそに、イヴェールは彼の耳元で囁く。

「そんなに苦しいなら、僕が楽にしてあげる」
「……?」


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