※以前書いたもの(ふたり暮らし1/2天秤にかけてみる)と同じ現パロ設定です





 肌を撫でるひんやりと湿った空気によって、イヴェールの意識は覚醒した。肌寒さを覚えると同時に、思わず小さくくしゃみをする。

(あれ、僕……)

 横たわっているのは、紛れもなく自分自身のベッドだった。隣のベッドはいつも通り空いている。恐らく、同居人はまだ起きているのだろう。
 散漫な思考のまま枕元に目をやれば、寝転がって読み進めていたはずの小説が開いたまま伏せられていた。どうやら睡魔に勝てず、いつの間にやら寝入ってしまっていたらしい。
 辺りをぼんやりと照らす橙色の明かりに、柔らかな感触のシーツ。寝室としては一見快適そうに思える環境だが、こうも寒くては、さしものイヴェールとはいえうたた寝を続ける気にはなれなかった。

「ふあ……」

 あくびを噛み殺し、のろのろと身を起こす。そうして部屋全体を見渡したところで、ようやくイヴェールは窓を半分ほど開けていたことを思い出した。
 冷えた外気は、そこから流れ込んできているようだった。風が吹くたびにゆらめくカーテンを、イヴェールは忌々しげに睨みつける。

「もうやんなっちゃう、こないだまでは暑くて寝られないくらいだったのに」

 ぶつぶつと愚痴をこぼしながら、窓の方へと近づいたイヴェールは、ほどなくして窓ガラスに幾らか水滴がついていることに気づいた。

(ん、もしかして雨?)

 よくよく耳を澄ましてみれば、風の音に混じって雨粒が地面を叩く音が微かに聞こえた。なるほど、道理で湿っぽかったわけだ、とひとり納得する。
 しかし、幸い寝室の方は雨が吹き込むようなことはなかったが、果たして他の場所は大丈夫だろうか。記憶が確かならば、寝室に来る前に一通り戸締まりは済ませたはずなのだが。

「……うーん、念のためにもう1回確認しておこうかな」

 めんどくさいけど、という言葉はかろうじて呑み込む。寝ぼけ眼をごしごしと擦ったイヴェールは、緩慢な動作でリビングに続く廊下へと足を向けた。




「あれ。メル君、ここにいたの」

 意外なことに、リビングには先客がいた。
 ソファに腰掛けたメルヒェンは、イヴェールを一瞥し、ああ、とだけ答えると、再び背もたれにその身を預けた。
 何だかそっけない気がするのはともかくとして、いつかのように居眠りをしていたわけでもないらしい。
 リビングと一体になっているキッチンの方にしか明かりがついていないせいで、辺りは薄暗く、その表情までは読み取ることができない。だが、イヴェールが目を凝らした限りではメルヒェンの周囲に携帯電話や本などは見当たらず、彼がどこか所在なさげな雰囲気を醸し出していることだけは確かだった。

「眠れないの?」

 特に確信があったわけではないが、何となくそう思った。
 そっと顔を覗き込む。すると、ややあって、メルヒェンは伏し目がちに頷いた。

「……君も珍しく夜更かししていたようだし、邪魔するのも悪いかと思ってね。雨音でも聞いていればそのうち勝手に眠くなるだろうと考えたんだが」

 今のところ、そういった兆しは残念ながら無いよ――そう言葉を継いだメルヒェンは、小さく嘆息した。

(メル君って、ほんと、何ていうか)

 口にこそ出さないものの、そのどこかずれた気遣いにイヴェールはこっそり苦笑する。しかし、また同時に、そんな不器用なメルヒェンが愛おしくて仕方がなかった。

「ごめん、実は僕、いつの間にか寝ちゃってたみたいでさ……窓開けっ放しにしてたせいで寒くなって、ついさっき目が覚めたんだ」
「寒くて、って……」

 溜め息混じりに呟くメルヒェンの声音には、しかし呆れの中にも明らかにイヴェールの身を案じる憂慮の色が滲んでいる。メルヒェンの心の機微が表れたその言葉に、イヴェールは嬉しさと照れくささから思わずへらりと笑ってしまった。

「笑う余裕があるなら、風邪を引いても看病する必要はなさそうだな」
「あはは、ごめんごめん。でもほんとに大丈夫だよ、心配してくれてありがと、メル君。そうだ、何かあったかいものでも飲んでから寝ようと思ってたんだけど、メル君も飲む?」
「……ああ、頼む。私のカップはそこにあるから」

 幾ばくかの妙な間があった後、メルヒェンはイヴェールの提案を首肯した。
 メルヒェンの視線の先には、確かに彼の愛用しているマグカップがあった。テーブルの上に置かれたそれを手に取ると、ひんやりとした陶器の感触が伝わってくる。

「ってメル君、これ」

 予想していたよりもだいぶ重いそれに、少々驚く。冷えたマグカップには、見たところ半分以上中身が残っていた。何が入っているのかまでは暗くてよく見えないが、微かに甘い匂いが漂ってくる。

「すまないが、それは捨ててくれないか。その、作るときに少し失敗してしまって」
「そっか、じゃあ新しく用意するね。あっ、何か飲みたいものとかある?」
「……ココアが、飲みたいかな」
「分かった、ちょっと待ってて」

 イヴェールは深く考えることもなく、メルヒェンの申し出を受け入れた。
 そうして銀色の髪を揺らしながらキッチンへと向かう背中に、メルヒェンは人知れず胸を撫で下ろした。


* * *


 ほどなくして戻ってきたイヴェールがメルヒェンに差し出したのは、先刻までテーブルの上にあったものとは違うマグカップだった。というより、これは――

「イヴェール、これは君のマグカップだろう」

 メルヒェンの目の前のテーブルに、ほわほわと湯気を立てたマグカップがことりと置かれる。それは紛れもなく、イヴェール用のマグカップだった。
 しかし、寝ぼけているのかい、と呆れ顔のメルヒェンをよそに、イヴェールはごく自然にメルヒェンの隣に腰を下ろした。その手の中には、見慣れたメルヒェンのマグカップが収まっている。

「やだなあ、寝ぼけてなんかないよ。あ、申し訳ないんだけど、メル君、今だけ僕のカップ使ってもらっても良いかな?」

 そうにこやかに告げるイヴェールの言葉も、メルヒェンの耳には全く入ってこなかった。

「イヴェール、私は君に『中身は捨ててくれ』と頼んだはずだが」

 メルヒェンの視線は、イヴェールがいま手にしているカップ――つまり、普段メルヒェンが愛用しているマグカップに痛いほど注がれている。メルヒェンに手渡されたものと同様に湯気が立ち上っているあたり、おおかた、中身はそのままに、電子レンジでも使って温め直したのだろう。だが、温めれば良いという問題ではない。

「うん、でも別にまずくなかったし、僕はこれで良いかな、と思って。なにより、せっかくメル君が作ったのに捨てるのももったいないじゃない?」

 自身に向けられる、邪気のない満面の笑みに、メルヒェンは諦めて肩を落とした。こうなってしまっては、もはや何を言っても意味がないことをメルヒェンは知っていた。
 きっと、イヴェールの言動に悪意などは欠片もないのだろう。そう思うと、強く責め立てる気にもなれず、メルヒェンは黙って眼前のマグカップに手を伸ばした。

「……美味しい」

 内容物に温められてすっかり熱くなったカップに、そっと口を付ける。
 猫舌であるメルヒェンには少しずつしか味わえなかったが、温かく、優しい甘みのあるそれは確実にメルヒェンの心をほぐしていった。

「良かった。メル君、ココア好きだもんね」

 でも、こうやって作ってあげるのは久しぶりだなあ――嬉しそうなイヴェールの言葉が、ちくりとメルヒェンの胸に刺さる。

「そうだね、君に頼らなくても、これくらい自分で作れれば良かったんだが」
「あ、違うよメル君、そんなつもりで言ったわけじゃ」
「構わないさ、本当のことだしね。……ただ、ひとつ残念な点を挙げるとすれば」

 ふ、と息をついたメルヒェンは、イヴェールの手の中にあるカップをちらりと見遣る。

「どうせ君に振舞うことになるのなら、もう少し口に合うものを作ってあげたかった、かな」

 メルヒェンの口から零れ落ちた言葉は、俄かに強まった雨音にかき消されてしまいそうなほどに小さなもので。
 くしゃりと自らの髪をかき混ぜたメルヒェンは、それから、「君は無理しているのかもしれないが、ひどい味だろう、それ」と苦々しげに吐き捨てた。
 君と同じものを作ったはずなんだけどね、という自嘲を含んだ呟きが、薄闇にぽつりと漏らされる。

 そう、メルヒェンのマグカップに元々入っていたものもまた、ココアだった。
 メルヒェン曰く、ふとココアが飲みたくなったので、以前イヴェールがよく作ってくれたものを真似てみようと試みたらしい。だが、派手に失敗してしまい、結局飲みきれずに持て余していた、ということだった。

「……だから捨ててほしかったのに、まさか君が飲みたがるなんて」

 そう言ったきり、メルヒェンはふい、と視線を逸らして黙りこくってしまった。
 半ば恨みすらこもったその物言いに、どう返すべきか一瞬考えあぐねる。

(――確かに)

 メルヒェンが作ったというそれを、イヴェールは改めてひと口飲み込んだ。
 なるほど、言われてみれば、口当たりが少々粉っぽい。きっと、ココアパウダーを練るときにダマでもできてしまったのだろう。味の方も、砂糖の分量を誤ったのか、イヴェールが普段作るものと比べるとずいぶんと甘かった。
 だが、それでも、メルヒェンが卑下するほどに耐え難い味だとは、イヴェールには思えなかった。

「ね、メル君。僕、君が作ったこのココア、好きだよ」

 口を噤んだまま俯いているメルヒェンに寄り添うように、イヴェールはぴったりと身を寄せた。パジャマ越しに伝わってくる、メルヒェンの体温が心地良い。

「だからね、また今度、僕に何かごちそうしてほしいな」
「…………わざわざ不味いものを欲しがるなんて、君は物好きとしか言いようがないね」

 淡々とした言葉と、皮肉びた語調で取り繕われてはいるものの、メルヒェンが戸惑っているのは明白だった。
 あれだけ自らの作ったものを酷評していた態度から察するに、まさかこんなことを言われるとは思ってもみなかったのだろう。

「大丈夫だよ、全然まずくなんてないから。それに、好きな人が用意してくれたものを好きな人と一緒に楽しむってとっても幸せなことじゃない? メル君は、自信がないからって言ってあんまりキッチンには立たないけどさ」
「……――っ、君はまた、そういう……!」

 言葉に詰まったメルヒェンが、僅かに身を固くしたのが分かる。一連の言動から、瞬間的に耳まで赤くなったメルヒェンの姿が脳裏に浮かび、イヴェールは思わず口元を綻ばせた。
 あまりに可愛らしい反応に、「そういう、何?」と再度問いかけてしまいたくなるのをぐっと堪え、ひたすらにメルヒェンの言葉を待つ。

「………………私には、」
「うん」
「…………せいぜい、紅茶くらいしか淹れられないが……それでも、良いなら」
「ふふ、ありがとう。楽しみにしてるね」

 照れているのがありありと伝わってくるその声色に、ますます愛しさがこみ上げてくる。
 そうして、おずおずと告げられたメルヒェンの提案に胸を躍らせていると、不意に、イヴェールの肩に、ぽふん、と重みが加わった。
 メルヒェンが頭を預けたのであろう拍子に首筋に触れた毛束が、くすぐったい。
 薄暗い部屋の中、広々としたソファに、大の大人が2人してきゅうきゅうとくっついたまま座っているのは、はたから見ればきっとおかしな光景だろうな、とイヴェールは思う。
 しかし、微かな雨音の他には何も聞こえない静寂の中、互いの体温を分け合いながらとろりとした眠気の訪れを待つこのひとときは、どうしようもなく幸福だった。



13.10.19 
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