成れの果て(冬闇) | ナノ



※メルが吸血鬼です
※多少の流血シーンがあります

以上を読んで大丈夫だという方は、このままスクロールしてください。










 とんとん。
 控えめに2回ノックをすれば、湿り気を帯びた木製の扉がくぐもった音を立てた。

「メル君。僕だよ、入ってもいい?」

 扉の向こう側にいるであろう主に聞こえるよう、少しばかり声を張る。
 廊下、と呼べるのかどうかも分からない、狭く暗い通路で、手にしたランタンの焔だけが頼りなげに揺らめいていた。
 耳をそばだてているせいか、蝋燭の芯のくすぶる音がいやに耳に付く。

「……君か。扉なら開いているよ」

 しばしの沈黙ののちに返された言葉は、消え入りそうなほどに小さく、またひどく気怠げだった。
 あまり容態の芳しくないであろうことがありありと読み取れるその返答に、イヴェールは眉を曇らせる。
 至って普段どおりの、半ば聞き慣れてしまった声音。
 だが、いくら逢瀬を重ねようとも、イヴェールがその心痛に慣れることはなかった。

「じゃあ、お邪魔します」

 鍵が掛かっていないことをわざわざ告げるということはつまり、入ってこい、という意味なのだろう。
 婉曲的に了解を得たイヴェールは、そっと錆びたノブに手を伸ばす。
 そして、胸の奥で蠢く憂慮を振り払うように、ぐっと手に力を込めた。



 * * *



 およそ半月ぶりに訪れた部屋には、特に目立った変化はないように思えた。
 古井戸のそばに佇む廃教会。その中に存在する小部屋のうちのひとつである此処に、メルヒェンは住み着いていた。
 薄暗い室内は、相変わらず澱んだ埃っぽい空気に満ちている。
 一つの窓もないこの部屋では、イヴェールが手ずから持ってきたランタンを除けば、簡素な文机の上に置かれた燭台だけが唯一の光源だった。
 さして広くもないとはいえ、人ひとりが生活するのに不足ない程度の調度品は十分に備えられた空間だ。明り取りすらないとなれば、たった数本の蝋燭だけでは、全体を照らし出すべくもない。いくら目を凝らしても、隅の方は闇に浸されたままだ。
 もっとも、彼がわざわざ好きこのんで窓付きの部屋を選ぶ道理もなかった。
 彼は陽の光など必要としない。それどころか、それは忌むべき対象に他ならないのだ。
 そう分かってはいるのだが、かくも閉塞的な雰囲気ではメルヒェンの身体に障るのではないか、と密かに気を揉んでしまうのがイヴェールの常だった。

「やあ、久しぶりだね。イヴェール」

 朽ちかけた椅子をぎしりと軋ませて、メルヒェンがゆるゆると振り向く。
 微細ながらも歓待の意を浮かべるその容貌は、想像していたよりもずっと晏然としたものだった。
 その姿に多少なりとも安堵し、メルヒェンの傍へと歩み寄らんとしたイヴェールはしかし、床の上に何かが散らばっていることに気づいた。
 思わず歩みを止めたイヴェールは、訝しむようにメルヒェンの足元へと視線を走らせる。

「ああ、これかい? 大丈夫、ただのパン屑さ」

 イヴェールの言わんとしていることを敏感に察知したのだろう。
 辺りに転がる薄汚れた塊を爪先でつつきながら、メルヒェンはこともなげに続けた。

「これは、先日例の王子が置いて……いや、押し付けていった物のかけらなんだが――」

 不意に言葉を切ったメルヒェンは、文机の下の闇を覗き込み苦笑する。

「どうやって嗅ぎつけたのか、『彼ら』がパンを寄越せと煩くてね。食料ならそこらじゅうにあるだろうに、全くもって贅沢者だよ。屍肉にはもう飽きた、とでも言いたいのかな」
「彼ら、って」

 ぎょっとするイヴェールに追い討ちをかけるように、部屋の端を黒い影が横切っていく。
 嫌でも耳に届く、きぃきぃと甲高い鳴き声は、まさしく鼠のそれだった。

 ――無惨にも打ち捨てられた遺骸。それに群がる灰色の群れ。病に冒され黒ずんだ皮膚は、容赦なく食い破られ――

 脳裏に去来した光景に、イヴェールは吐き気を催した。
 この界隈ではもはやありふれた、しかし依然として度し難いほどのおぞましさを含んだ眺めを思い出し、ぶるりと身を震わせる。
 “鼠は吸血鬼のしもべであり、疫病を撒き散らす不吉な存在である”――いつか手に取った書物に記されていた一節を、イヴェールは無意識のうちに反芻していた。

「ふふ、本当に厄介だよ。ヒトの食べる物なんてついぞ持ち込んだことがないものだから、まさかこんなことになるとは思ってもみなかった。じきにいなくなると思うから、それまで少し我慢してくれるかい」

 たいして困っているとも思えない表情で、メルヒェンはそう嘯いた。
 だいたい、こんなもの喉を通るわけもないのに、あの王子は一体私を何だと思っているのだろうね――自嘲気味に漏らされたメルヒェンの言葉に、思索に耽っていたイヴェールはまるで心臓をぎゅっとわしづかみにされたような錯覚を抱く。

「まあ、彼には何も言っていないから仕方ないのかな。……にしても、ここで撒いてしまったのは失敗だったね。君が来ると知っていたら、面倒くさがらずに井戸の周りにでも――」
「める、くん」

 喉の奥から絞り出した声は、誰が聞いても滑稽だと感じたに違いない。
 口の中はからからに渇いている。
 半ば独り言とも取れる物言いを唐突に遮られたメルヒェンは、しかし嫌な顔をする素振りを見せることもなく、ただことりと首を傾けていた。

「何だい、イヴェール?」
「その、……葡萄酒、持ってきたんだ、もうそろそろ無くなる頃かと思って」

 腕の中の紙袋を、書物が乱雑に積まれた文机の上へ置く。
 空々しいほどに明るく装った声色が、広いとはいえない空間に虚しく響いた。
 閑話休題、と言うにしてもいささか拙劣であったのは否めない。だが、そんなことを気にかける精神的余裕は持ち合わせていなかった。
 先のメルヒェンの言動が脳裏にちらつき、やるせない気持ちになる。
 諦観したような眼差しを湛えながら、淡々と述懐する彼をあれ以上目にし続けることなど、イヴェールには到底できなかった。
 自らの吐いた棘で、敢えて己を傷つける必要がどこにあるというのか。
 しかし、自虐、というよりももはや自傷に近いその言動は、当人にとっては全くの無自覚であることもまた承知している。
 ゆえに強く制することもできず、ただ悶々とするほかないというのが現状だった。

「Danke Schon.君には、本当に助けられてばかりだ」
「……喜んでもらえると、僕も嬉しいよ」

 椅子に掛けたままこちらに身体を向けていたメルヒェンは、文机の方に半分ほど向き直った。がさがさと乾いた音とともに、暗緑色のビンが一本ずつ机上に並べられていく。
 その様子を、口を挟むでもなくただ沈鬱な面持ちで眺めていると、メルヒェンはぴたりとその手を止めた。

「よかったら、少し付き合ってくれないか。君から貰ったものを私が饗するというのも、おかしな話だが」

 白い指が、つるりとしたビンを撫でる。
 特に断る理由もない。それどころか、願ってもない話だ。
 二つ返事で了承すれば、メルヒェンの表情が僅かに綻んだ。

「では、どこか適当なところに掛けていてくれ。確か向こうの棚に使っていないグラスが、……っ、」
「メル君!」

 メルヒェンが最後まで言葉を紡ぐことは叶わなかった。
 おもむろに立ち上がったメルヒェンの身体が、眼前でぐらりと傾ぐ。
 すんでのところで抱きとめたものの、とてもメルヒェンひとりで歩けそうな状態ではなかった。

「ッ、すまない……すこし、眩暈がした、だけだ……」

 ――だから安静にしていればすぐに良くなる、とでも言いたいのだろうか。
 途切れ途切れに喋ろうとする間にも、メルヒェンの口からはぜいぜいと激しい吐息が漏れている。
 薄い胸をしきりに上下させ、苦しそうに喘ぎながらそんなことを言われたところで、納得しろという方が無理な話だった。
 そもそも、イヴェールにはメルヒェンの不調の原因など、明確に分かっているのだ。
 それに、その場しのぎの処置だけではどうにもならないということは、イヴェールは勿論のこと、メルヒェン自身が一番良く知っているはずだった。

「メル君、ベッドまで歩ける? そう、ゆっくりでいいから……」

 懸命にメルヒェンの身体を支えながら、そろそろと歩を進める。
 大した距離ではないとはいえ、ぐったりとしたメルヒェンを寝台まで運ぶのはなかなかに骨が折れた。




「大丈夫? メル君」

 ようやくメルヒェンを寝台の縁に座らせた頃には、イヴェールの息も多少なりとも弾んでいた。
 メルヒェンの左隣に位置取ったイヴェールは、自身の息を整えつつ、メルヒェンの背をゆるやかにさすってやる。
 メルヒェンの方は、イヴェールの問いかけに対し、弱々しいながらも幾度か首肯を返せるまでに回復していた。
 しかし、やはり気分が優れないのだろう。口元を覆う手は微かに震えており、目蓋もかたく閉ざされたままだ。
 光の射さない、仄暗い部屋の中、こうして衰弱したメルヒェンを見つめるのはもう幾度目だろうか。
 今日訪れてから初めて間近に見るメルヒェンの顔は、先日に比べだいぶやつれていて。
 整った顔立ちに色濃く影を落とす青黒い隈が、より一層痛々しかった。

「ごめんね、次はもっと早く来るから。……メル君は、嫌がるかもしれないけれど」

 そうぽつりと呟いたイヴェールは、きゅっと唇を噛んだまま、ごそごそと自身のベストの内ポケットを探る。
 ずしりと重い感触。
 ほどなくして彼の手の内に収まっていたのは、鞘の付いた小さなナイフだった。

「もう少しの辛抱だからね」

 メルヒェンの背中をもう一度、宥めるようにそっと撫でる。
 それからイヴェールはしっかりとナイフの柄を握り直し、空いている左の手のひらをまじまじと見つめた。
 その手指には、まだ治りかけのものから細い痕になってしまったものまで、大小さまざまの傷が刻まれていた。
 古びた鞘から抜き取られた刃は、鈍い光を放っている。
 イヴェールは、束の間悩んでから、それを人差し指の付け根付近に斜めにあてがい、一思いに食い込ませた。

「つ、っ」

 刹那、走る痛みにイヴェールは僅かに顔をしかめる。
 紅い線は、すぐにぷつぷつと珠をつくり、あっという間に指を濡らした。
 シーツには、既に幾つか赤黒い斑点ができている。

「ほら、メル君……口を開けて」

 色のない唇に、そっと指を近づける。
 少しでも早く、メルヒェンを楽にしてやりたい。その一心だった。
 勿論、メルヒェンが良い顔をしないのは承知している。
 それでも、音もなく滴るこの雫が、彼の渇きを癒すための唯一の手段である限り、イヴェールの決意が揺らぐことはなかった。

「……まだ、必要ない」

 鼻先に差し出されたそれを避けるように、メルヒェンはふいと顔を背けた。
 しかし、それが虚勢であることは誰の目にも明らかだった。
 身体の方は、もう限界を迎えているのだろう。
 いくら嫌悪感を露わにしたところで、今のメルヒェンにはもはやイヴェールの手を押し返す力すら残っていないようだった。

「だめだよ、飲んで、お願い。じゃないと――」

 不意に、掠れた笑い声がイヴェールの耳に届いた。
 今にも折れてしまいそうなほどに細いメルヒェンの体躯が、小刻みに震えている。
 く、はは、と断続的に吐き出される力無い嗤笑がメルヒェンによるものだと理解したイヴェールは、しかしその真意までは測ることができず、思わず口を噤んだ。

「ああ……このまま拒み続ければ、かろうじて正常に保たれている機能までもいずれ欠落していくのだろうね」

 メルヒェンは俯いたまま、まるで他人事のように語り続ける。
 蝋を思わせる白い横顔からは、ゆるりと笑んだ口元が僅かに垣間見えただけだった。

「血なんて、口にしたくないと頭では思っているのに。身体の奥底からは、どうしようもないほどに欲求が湧き上がってくるんだ……皮肉なものさ」
「……」

 頑ななまでに吸血を拒絶するメルヒェンの姿は、今現在に至るまで、およそ世間一般で言うところの“吸血鬼”とはかけ離れた印象をイヴェールに与えていた。
 と同時に、ごく一般的な人間とほとんど何も変わらない感性を持ちながらも、血を啜ることでしかその本質を維持できないメルヒェンの心情を思うと、やりきれない思いだった。

 メルヒェンが、己の前で初めて貧血を起こしたときのことを思い出す。
 今にして思えば、あのときの彼は相当長いあいだ血液を摂っていなかったのだろう。
 あまりに酷い憔悴ぶりに、ずいぶんとはらはらしたことを覚えている。
 しかし、イヴェールは突然のできごとに心配こそすれど、メルヒェンが“そういった”特異な体質の持ち主なのではないか、などという疑念は露ほども抱かなかった――彼を介抱するさなか、鋭く尖った一対の八重歯を、偶然見てしまうまでは。

 それ以来メルヒェンは、語弊を恐れずに言うならば、イヴェールの血液を定期的に摂取することで生命を保っていた。
 実際のところは、イヴェールが意図的に飲ませている、と言った方が正しいのかもしれないが。
 渋るメルヒェンに吸血を強いるのは、やはりイヴェールとしても心苦しかった。
 しかし、衰弱していくメルヒェンをただ看過することは、イヴェールにはどうしてもできなかった。
 それに何より、メルヒェンを追い詰めるようなことはしたくなかったのだ。
 吸血を絶ったままでは、いずれ限界が訪れる。そうなれば、最終的に彼は自分から行為を求めざるを得ないだろう。
 自身が最も忌諱してやまないはずの欲求を、わざわざ口に出さなければいけないという苦しみは、想像するに余りあった。

「……まあ、いくら理屈をこねたところで、私がヒトの血無しには存在できない化け物であることに変わりはないがね。血を啜って生き永らえるだなんて、正常な人間にはまず出来ない芸当だ」

 押し黙ってしまったイヴェールをよそに、メルヒェンはぽつぽつと喋り続ける。
 自分自身を異形のものとして蔑み、嘲るようなその口調は、イヴェールの胸を激しく締め付けた。

「メル君、」
「なん…………ん、ぅ……」

 それは全く、衝迫的としか言いようのない行動だった。
 べろり、と自身の人差し指を舐め上げたイヴェールは、そのままメルヒェンを引き寄せ、唇を重ねた。
 かさかさと乾いた唇をこじ開け、縮こまっている舌をゆっくりと絡め取る。
 そして、温度のない咥内に熱を灯すように、舌の上に残る朱を唾液とともに流し込んだ。

「っ……は、…………イヴェール、なにを」

 口腔には、未だ鉄の味が色濃く残っている。
 それはメルヒェンとて同じなのだろう。
 動揺と、それからほんの少しの非難を込めてイヴェールに向けられた瞳は、確かに蕩け、潤んでいた。
 当然だ。つい先ほどメルヒェンが嚥下したのは、彼が常日ごろ口にしている葡萄酒のような、ほんの一時の気休めにしかならない紛い物ではない。
 久方ぶりの血の味に興奮するのも無理はないだろう、とイヴェールは思った。それがたとえ、彼自身が望んでいないことであったとしても。
 しかしメルヒェンの方は、己の身の内から堰を切ったように溢れ出す欲求に、必死で抗い続けているのがありありと窺えた。
 きゅう、と寄せられた眉根に、薄く開かれた唇。
 これから求めるであろう行為に対する罪悪感からか、それとも、浅ましく血を欲する己の本能に対する嫌悪か。あるいは、その両方なのかも知れない。
 今にも泣き出しそうな表情を滲ませる彼の頬に、イヴェールはひたりと手を添えた。

「……ねぇ、メル君。僕は、君のことが好きだよ。何が起きたって、この気持ちは変わらない」

 ――だからね、メル君にはできるだけ、笑って、元気でいてほしいんだ。
 白磁のようにすべらかな頬を撫でながら、ひと言ずつ、想いを紡ぐ。
 その言葉に嘘はなかった。
 この身体を巡る血汐が全て流れ切ってしまっても構わない、とさえ思っていた。そうすることでメルヒェンが、満たされるのなら。
 しかしこれまで、メルヒェンがイヴェールの首筋に歯を立てることは決して無かった。
 それどころか、彼が自ら求める血液の量は、本当にごく僅かなものだった。
 イヴェールの指先をそっと噛み、ぷつりと小さな穴を開ける。そうしてそこから流れ出る僅かな血を舐め取るのが、かつての彼の習慣だった。

 イヴェール自身、吸血鬼に関する正確な知識をどれほど持っているのかと問われれば、とても胸を張ることなどできないだろう。
 彼らは書物や民間伝承でしか触れたことのない存在であり、なおかつそれらの記述の信憑性にも大いに疑問の余地があった。
 それゆえ、いささか首を捻りつつも、当初はメルヒェンの行動を素直に受け入れていた。
 だが、委細は分からずとも、メルヒェンが無理をしていることを感じ取るのには時間はさほど掛からなかった。
 だからこそ、イヴェールはある時、メルヒェンを問い質したのだ。もっとたくさんの血が必要ならば遠慮せずに言って欲しい旨も、同時に告げた。
 しかし、メルヒェンは歯切れ悪く否定するのみだった。ばつが悪そうに視線をさ迷わせ、口を開きかけては何かを言い淀む。そのやり取りを、何度繰り返しただろうか。
 業を煮やしたイヴェールが、自分のことなら心配は要らないから、と首筋を差し出し促してみても、彼は頑として首を縦に振らなかった。

 それから、長い時間、お互いに口を閉ざしていたように記憶している。
 俄かに険悪な雰囲気の漂う沈黙を破ったのは、確かにメルヒェンだった。
 苦渋に満ちた、か細い声音は、今でもイヴェールの記憶に刻み付けられている。
 ――溢れる血の匂いに惑わされ、いつか歯止めが利かなくなってしまうことが。己のせいでイヴェールを喪ってしまいかねないことが、堪らなく恐ろしいのだ、と。
 震える声で、とつとつと胸のうちを吐露したメルヒェンは、自らの鋭利な爪が掌を傷つけるのも顧みず、固く拳を握っていて。
 メルヒェンの元を訪れる際、イヴェールが短刀を持ち歩くようになったのは、それからだった。

 そんなものは焼け石に水だ、と揶揄されれば、イヴェールには確たる反駁はできない。
 どう足掻いたとしても、畢竟、メルヒェンを一時でも満たすにはその命を差し出す他にないのだと、イヴェール自身うすうす感づいていた。
 だが、彼がそれを望まない以上、どうしてそんなことができるだろうか。

(……それでも、やっぱり僕は)

 イヴェールは苦い記憶を噛み締めながら、寝台の端に放っていたナイフに再び手を伸ばす。
 イヴェールもまた、メルヒェンを喪いたくない気持ちは同じだった。
 だからこそ、己にできることならば何でもすると決めたのだ。吸血鬼として生きるにはあまりにも脆く不完全で、そして優しすぎる、彼の代わりに。

「ぁ、イヴェー、ル……っ、」

 切れ切れに名を呼ぶ涙混じりの声に、イヴェールは柔らかく応じた。
 いよいよ、衝動に逆らうのも限界なのだろう。
 はっ、はっ、と苦しげに息を吐くメルヒェンは、縋るような眼差しでイヴェールを見つめていた。
 とろりと溶けた瞳には、彼を戒める理性の影は既にない。
 だが、それでいて、メルヒェンの面差しには未だ深い煩悶が刻まれていた。

「大丈夫、メル君は何も悪くないよ。……だから、そんな顔しないで」

 こんなことを繰り返していたら、いつか彼の心は軋み、壊れてしまうのではないか。
 胸に広がる不安は、どこか予感めいてすらあった。
 冗談じゃない、と心中でかぶりを振ってみても、打ち消すことのできない焦燥感は澱のようにわだかまるばかりで。
 しかし、然るべき安息すら充分に与えてやれない己の無力さに歯噛みしながら、それでも、イヴェールはその右手を緩める訳にはいかなかった。
 一度血を吸った刃が、ぬめりを帯びてイヴェールを急かす。
 彼になるべく多くの血を分け与えてやれる場所はどこかと逡巡した末、イヴェールは親指の付け根付近に刃を押し当てた。

「い、……っ」

 ぴり、と灼けるような痛みに小さく呻いてしまう。
 温かな血汐が、見る間に左手を紅く染めた。
 心臓が脈打つたび、熱を持った傷口がずきん、と痛む。
 しかし、メルヒェンが胸の内に抱える苦悩を思えば、そんな疼痛など微々たるものだ――イヴェールはそう自分に言い聞かせた。

「我慢しちゃ、駄目だからね?」

 鈍い痛みを糊塗するように、半ばおどけた調子で促す。
 行為を重ねるたびに、彼が罪の意識に絡め取られていくのは明白だった。どれほど腐心したところで、それはきっと変わらないに違いない。
 それでも、彼を苛む懊悩を僅かでも削ぐことはできるのではないか。
 そんな想いが、イヴェールの振る舞いを気丈なものにさせていた。

「は、んん……ん、ぐ……」

 メルヒェンの口元へと差し出した掌からは、ぼたぼたと鮮血が滴っている。
 果たして、イヴェールの傷口には、今度こそメルヒェンの舌が這わされていた。
 冷たく、そして柔らかい感触。
 恐らくは、無意識なのだろう。おずおずと、まるで叱責を恐れる子供のように怯えながら、それでも逃すまいとイヴェールの手首を掴む手には、二律背反に苦しむメルヒェンの心持がこれ以上ないほどに表れていた。

 不気味なほどの静寂を湛えた薄暗い部屋で、メルヒェンの荒い息遣いと、微かな水音だけが響く。
 興奮を抑えきれないのか、鋭く伸びた黒い爪が、イヴェールの皮膚を時折ちくりと刺激した。
 つと視線を向けると、蜘蛛の脚にも似た細く長い指は、不規則に小さく戦慄いていて。

「……メル君、泣いてるの」

 イヴェールの掌に零れ落ちた透明な雫が、血と混ざり合い、くたびれたシーツに薄紅色の染みを作る。
 押し殺すことの叶わなかった嗚咽が、メルヒェンの口から小さく漏れた。
 しゃくり上げるたび、彼の痩躯がひくん、と跳ねる。
 メルヒェンの眦からほろほろと伝う涙を止める術をしかし、イヴェールは持たない。
 ――泣かないで、とは言えなかった。
 彼の心情を斟酌すればこそ、どんな言葉も決して慰めにはならないということを、イヴェールは誰よりも理解していた。

 イヴェールは、伏せられた面を上向かせるように、メルヒェンの輪郭に手を添えた。
 泣き濡れた頬は冷たく、イヴェールの熱をひたすらに奪っていく。
 目のふちに溜まった雫を指でそっと掬い取ると、メルヒェンの顔がくしゃりと歪んだ。

「――っ、…………ぅ、」

 声を詰まらせながら再び欷泣するメルヒェンを、イヴェールはただ抱きすくめる。
 壊れ物でも扱うようなその挙措は、メルヒェンを異質な存在として忌み嫌う他の人間から見れば、嘲弄の対象でしかないのかもしれない。
 だが、そんなことはイヴェールにとっては些末な事象だった。
 メルヒェンを縛る因果を断ち切ることができないのならば。せめて、彼の流す涙を拭ってやれる存在でありたいと、そう願わずにはいられなかった。

 未だすすり泣くメルヒェンを慰撫するように、イヴェールは乱れた黒髪に口づける。
 涙に濡れ、蒼褪めた彼の相貌の中で唯一、唇だけが鮮やかに緋く艶めいていた。


12.06.16 
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