忘レモノ(イドメル) | ナノ



 かろうじて月明かりの差し込む、灰昏い井戸の底。
 束の間の微睡みから醒めたイドルフリートは、気怠げな表情のまま瞬きを繰り返していた。
 煉瓦に預けていた背中が、鈍い痛みを訴えている。
 どうやら、座り込んだまま眠ってしまっていたようだった。
 どれくらいの間、こうしていたのだろうか。珍しいこともあるものだ。
 まだ明確とは言えない思考の中で、イドルフリートは自身の行動に少なからず驚いていた。

 己の頭上には依然として月光が注がれていることを鑑みると、意識を失っていたのはせいぜい数時間といったところだろう。
 しかし、睡眠自体をあまり欲することのないイドルフリートにとって、これほど強い眠気に襲われるのは稀なことだった。

(……まさか、私までつられて眠ってしまうとはな)

 困ったものだ、と脳内でひとりごちる。
 イドルフリートは、すぐ隣でうずくまっているメルヒェンに一瞥を投げた。
 うとうとと船を漕ぎ始めるのは、普段ならば決まってメルヒェンの方なのだ。
 死してなお生理的欲求に縛られるというのも皮肉なものだが、さまざまな衝動の渦巻く此処では、それらに引き摺られてしまうのも仕方のないことなのかもしれない。
 しかし、当の本人はそれを――というより、イドルフリートよりも先に眠ってしまうことを快く思っていないらしく、目を擦って眠気を堪えていることもしばしばだった。
 ふにゃふにゃと半分寝惚けたような彼の声など、もうどれほど聞いたかも分からない。
 そんなメルヒェンの相手を適当にこなしつつ、彼が寝息を立て始めるのを待つ、というのがもはやイドルフリートの日課だった。
 改めて思い返してみれば、何ともおかしな習慣だ。
 なぜ私が毎夜子守りの真似ごとに興じなければならないのか――イドルフリートの眉間には、自然と皺が寄せられる。

「……はあ」

 イドルフリートは、ぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜた。
 別にそこまで世話を焼いてやる必要などないのだ。
 自分自身に言い聞かせるように、頭の中でその言葉を反芻する。
 しかし、そうした心構えとは裏腹に、イドルフリートは眠りに落ちる前の記憶を辿っていた。
 いつも通り、自分よりも先にメルヒェンが寝たのならば何の問題もないはずだ。
 だが、いくら思いを巡らせてみても、数刻前のメルヒェンの様子を克明に思い描くことはできなかった。

 イドルフリートは、再び隣をちらりと見遣る。
 先刻までの自分と同じように冷えた石壁へともたれ掛かったメルヒェンは、抱えた膝の間に顔をうずめていた。
 身じろぎひとつしないその姿には、別段変わったところはないように思える。
 ただ一つ、吐息が不自然に潜められていることを除けば。

「……メルヒェン?」

 胸中に生じた微かな疑問を確かめるように、イドルフリートは口を開く。
 深い眠りについているならば届くことはないないはずの、ごく小さな囁き。
 しかし、メルヒェンの肩が驚いたようにぴくりと跳ねたのを、イドルフリートは見逃さなかった。

「眠れないのか」

 思った通りの反応に、つい苦笑する。
 それと同時に、後ろめたさがちくりと胸を刺した。
 すぐそばで小さく丸められた背中は、酷く頼りなげに見えて。
 自分が罪悪感を覚える謂れなど無い、と論理的な判断を下してみたところで、そんなものは何の意味も持たなかった。

「おや、眠っているみたいだね。それならば少しくらい悪戯をしてもばれないかな?」
「……!」

 そ知らぬふりを貫こうとするメルヒェンに、からかい混じりの言葉を投げ掛ける。
 すると、あっけないほど簡単に黄金色の双眸と視線がぶつかった。
 あまりに純真な反応に、堪えることができずにくつくつと笑う。
 イドルフリートが破顔しているのを見て、狸寝入りをとうに見透かされていたことにようやく気づいたらしい。
 口をへの字に曲げたメルヒェンは、ぷい、とそっぽを向いてしまった。

「ちょっとした冗談だ、そう怒ることもないだろう。……ほら、こっちに来なさい、メル」

 すっかり機嫌を損ねてしまったメルヒェンを宥めるように、イドルフリートは銀色の混じった黒髪をくしゃりと撫でた。
 ぽんぽん、と自身の大腿の辺りを叩いて、メルヒェンをいざなう。

「……子供扱いしないでくれないか」

 むう、とむくれたメルヒェンは、じっとりとした目つきでイドルフリートを睨んだ。
 頭を撫でる手を振り払わないあたり、本気で怒っている訳ではないのだろうが。
 そうやって拗ねるところが子供っぽいんだ、とからかってやりたい気持ちが頭をもたげるが、口に出すことはしないでおく。
 メルヒェンもしばらくの間は渋っていたものの、早くおいで、と重ねて促されてついに諦めたのか、もそもそとイドルフリートの脚の間へ移動した。

「いい子だ」
「っ、イド……?」

 ふ、と笑んだイドルフリートは、メルヒェンをゆっくりと抱きすくめた。
 イドルフリートに背中を預ける体勢になってしまったメルヒェンは、これといった抵抗をすることもできないまま、ただイドルフリートの腕の中でじっとしている。
 困惑と恥じらいが綯い交ぜになったような表情を浮かべたまま身を固くするメルヒェンに、イドルフリートは穏やかに問いかけた。

「ずっと、起きていたのか」

 しばしの沈黙の後、メルヒェンはこくりと頷いた。

「僕も、早く寝てしまおうと思ったんだけれど……そう意識すればするほど、いろいろなことを考えてしまって」

 そっとメルヒェンの表情を盗み見る。
 艶やかな睫毛に縁取られた瞳は、心細そうにゆらゆらと揺れていた。

「ねえ、イド」
「……何だ」
「僕は、何か忘れている気がするんだ。とても、大切なことを」
「……」
「エリーゼは、忘れたままでいいと言うけど……本当にこれで、良いんだろうか」

 ずっと、彼女と二人で人間達の復讐に手を貸してきたが、それは果たして何の為なのか。そして、誰の為なのか。
 記述の抜け落ちた己の頁には、本当は何が記されていたのか。
 堰を切ったように紡がれるメルヒェンの言葉を、イドルフリートはただ静かに受け止めていた。

「メル」
「……?」

 柔らかく名を呼んだイドルフリートは、メルヒェンの顔を覗き込む。
 怪訝そうにこちらを見返してくるメルヒェンは、心なしか幼く感じられた。
 その顔つきはまるで、穢れを知らぬ少年のようで。
 ぱちぱちと瞬き、小首を傾げるメルヒェンを愛おしく感じるなどと、我ながら日頃の振る舞いに毒されている。
 じんわりと胸を満たす静かな感情に、イドルフリートは密かに嘆息した。
 だが、不思議と嫌悪感はなかった。

「心配せずとも、いつかきっと思い出す時は来るだろう。……その記憶が本当にかけがえのない物なら、ね」

 だから、今は気にせず休むといい――そう告げたイドルフリートは、ぐずる子供をあやすかのように、メルヒェンの腹のあたりをぽふぽふと撫でた。
「……子供扱いするな、と言っているだろう」
「いいから、しばらくこうしてい給えよ。眠りたいのだろう?」

 再びふくれっ面をするメルヒェンに構わず、空いている方の手を彼の頭に伸ばす。
 ゆるゆると根気よく髪を梳いてやるうちに、次第にくたりと全身の力が抜けていくのが分かった。
 しばらくの間ぶつぶつと漏らされていた他愛のない不満もすっかり途切れ、今では微かな風の音だけがこだましている。
 胸に預けられた頭の重みが心地良い。
 メルヒェンに気取られぬようにこっそりと顔色を窺えば、半ば閉じられた瞼の隙間からは、とろんとした金の瞳が僅かに覗いていた。
 小さな寝息がこの耳に届くまでには、そう時間を要することもないだろう。

(やれやれ、本当に手間のかかる……)

 とん、とん、と一定の間隔を取る手を休めずに、イドルフリートは表情を緩めた。
 ずいぶんとほだされてしまったものだ、と自嘲的な笑みを浮かべたが、それでもやはり悪い気はしなかった。



12.03.30 

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