煉瓦で組まれた古井戸の縁へと一人腰掛けたメルヒェンは、手にした本の頁をゆっくりと繰っていた。 『光と闇の童話』――いくらか色褪せ、擦り切れたその本は、幾度となくエリーゼに読み聞かせてきたものだ。 だが、話の唯一の聞き手である彼女が存在しないとなれば、退屈な読書を続ける理由は見当たらなかった。 というのも、メルヒェンの方は話の筋などとうに覚えてしまっているからで。 何度巡ったところで、物語の結末はいつも同じだ。 エリーゼ自身、もう聞き飽きたのではないかとメルヒェンはときどき思う。 だが、膝の上の彼女はいつでも愉しそうに耳を傾けているのだった。 頁をめくる手を止めたメルヒェンは、軽く溜め息をつく。 少し休憩にしましょう、と言ったエリーゼが森の奥へと姿を消してからどれくらい経っただろうか。 恐らく辺りを散策しているのだろうが、気まぐれな彼女がいつ帰ってくるのかメルヒェンには見当もつかなかった。 惰性で文字を追っていたものの、エリーゼが現れる気配は一向に感じられない。 そっと本を閉じたメルヒェンは、深紅と漆黒の鮮やかな華飾衣を探してゆるりと周囲を見回した。 (おや……あれは) 誰かがこちらへ向かって歩いてくるのが見える。 しかし、茂みの向こうに見えたのは結い上げた金髪ではなく、一面に積もった雪を思わせるようなまばゆい銀の髪だった。 メル君、寒くないの?――がさがさと下生えを踏み分けてやってきたイヴェールが挨拶もそこそこに口にしたのが、この言葉だった。 メルヒェンの瞳には、やけに心配そうなイヴェールの顔が今も映っている。 イヴェールの吐く息は、微かに白く曇っていた。 よく見れば、鼻の頭も少しだけ赤くなっている。 ひゅう、と吹いた木枯らしが、辺り一面に敷き詰められた枯葉をかさかさと揺らした。 それらを目の当たりにして、メルヒェンはようやく今が冬だったことを明確に意識した。 言われてみれば、少し身体の動きがぎこちないような気もする。 自身の状態などあまり頓着しないため気づかなかったが、指先の感覚も普段より鈍い。 今日は長い間外の風に晒されていたから冷えてしまったのかもしれないな、とメルヒェンはぼんやり思った。 メルヒェンとて、決して季節の移り変わりに関心が無い訳ではない。 春先に芽吹く花々を愛でるのも、真綿のような雪を眺めるのも嫌いではなかった――もっとも、常に薄暗い宵闇の森では前者はほとんど見かけることはないのだが。 ただ、そういった目に見える変化が乏しいと、季節感などと言うものはどうしても意識の外へと追いやられてしまいがちだった。 「大丈夫だ。生者のように活動に著しく支障が出ることはない」 この躯はもう死んでいるからね、と付け加えておく。 刺すような冷気も、身を焦がすような陽射しも、恒常的な体温を持たないメルヒェンにとってはあまり関係のないものだった。 気候の変化を肌で感じ取ることはかろうじて可能だったが、それはまるで膜を一枚隔てたような、どこかぼやけた感覚だった。 吐息が白くなることもなければ、汗が流れることもない。 それどころか、たとえ野薔薇の棘が皮膚を傷つけたとしても、蒼白くくすんだ肌には一滴の血も滲むことはない。 メルヒェンの躯は、通常の人間のそれとはあまりにも異なる点が多かった。 しかしメルヒェンは、そういうものなのだろう、と深く考えることもなく過ごしていた。 なにしろ、屍体が動くこと自体が特異なことなのだ。 それに比べれば、メルヒェンにとって前述したような点は些細な事象に過ぎなかった。 それゆえ、メルヒェンはいつものように淡々とした口調で応じた。 血の通わない、朽ちかけた躯が多少寒気に晒されたところで今さらどうなるわけでもないだろう、といった口ぶりだった。 だが、至極当然のことだと言わんばかりのその言葉に、イヴェールは眉間に刻まれた皺をさらに深くした。 「……でも、感覚自体はあるんでしょ」 手も身体も、こんなに冷たくなってるじゃない、と呟くイヴェールは、今にも泣き出しそうだった。 メルヒェンの手を包むように、イヴェールの両手が添えられる。 温かくも冷たくもない、不思議な感触だった。 屍人のような温度ではないものの、生きた人間のような体温もまた感じられない。 綺麗な手だ、とメルヒェンは思った。 白い、しかし己のように病的ではない、透き通るような肌の色。青と紫に彩られた爪。それらに自然と見入ってしまう。 だが、その両手は間もなくメルヒェンから離れてしまった。 それは、離れることを惜しむような、しかしその一方でメルヒェンを拒絶するような、何とも不可解な含みを持つ動作だった。 「……?」 どうかしたのかと顔を上げてみても、イヴェールは依然として哀しげな面持ちのまま黙りこくるばかりで。 メルヒェンがイヴェールのこうした表情を見るのは、初めてだった。 屈託の無い笑顔も、外見に比べて多少幼く感じられる口調も、間違いなく彼の特徴のはずだ。 しかし、少なくとも今のイヴェールからはそれらを感じ取ることはできない。 伏せられた双眸は、物憂げな色を湛えたまま、ただ瞬きを繰り返すだけだった。 きゅっと結ばれた唇が、何か言葉を紡ぐ気配もない。 「イヴェール?」 「あ、ああ……ごめん、メル君」 メルヒェンが訝しむように名を呼ぶと、ようやくイヴェールと視線が合った。 柳眉を下げて申し訳なさそうに微笑むその顔には、先刻の面影はもう残っていない。 何事か尋ねても良いものかどうか、メルヒェンには判断が付かなかった。 何か言おうと口を開きかけるものの、迂闊に言葉をかけるのは何故だか躊躇われる。 そんなメルヒェンの戸惑いを感じ取ったのか、イヴェールは努めて明るい調子でメルヒェンに笑いかけた。 「ごめんね、気にしないで? ……そうだ、ちょっと待ってて」 ふいにそう告げると、イヴェールはおもむろにコートを脱いだ。 そして、突然のことに目をぱちぱちと瞬かせているメルヒェンの肩へと、それを掛けた。 柔らかな純白の毛皮が、メルヒェンの襟元をくすぐる。 「……これは、」 一体どういう意図があっての行動なのか。 メルヒェンがそう目だけで問うと、イヴェールはメルヒェンの頭をふわりと撫でた。 「僕じゃメル君のこと、温められないから」 でも、これなら少しはましでしょ?――そう笑うイヴェールの顔はしかし寂しげで、今にも消えてしまいそうな儚さを含んでいた。 (嗚呼、僕って本当、だめだ) イヴェールは、ただ己の不甲斐なさに切歯するばかりだった。 ――いつものように、上手く笑えているだろうか。 そんなことは、自問するまでもなかった。きっと、見るに耐えない情けない顔をしているであろうことは容易に想像がついた。 ともすれば零れ落ちてしまいそうな涙を、必死で堪える。 永遠の冬に抱かれた己に、焔が灯ることは決して無いのだと。 仮初のこの身体には、温もりなど生み出すことはできないのだと。 とうに受け入れたつもりでいたが、いざ現実を突き付けられるとやはり応えた。 仮にヒトの体温を持っていたところで、屍人であるメルヒェンにその熱を分け与えても何の意味もないのだと、ただの己のエゴに過ぎないのだと、頭では理解している。 それでもやはり、感情を割り切ることはできなかった。 ほんのひと時でも、冷え切った彼の身体を温めてやることができたらどれほど幸せだろう。 そう思わずにはいられなかった。 「イヴェール」 静かな声に、イヴェールははっと我に返る。 灰白色の瞳は恐らく、イヴェールをじっと見つめているのだろう。 だが、イヴェールはメルヒェンの顔をまともに見ることができなかった。 このまま目を合わせれば、己のくだらない葛藤を見透かされてしまうような気がして怖かった。 「これは、私には必要のない物だ。君が着るべき物だろう」 抑揚のない声。 白魚のようなメルヒェンの指が、藍色の布地をするりと撫でた。 「……そうだよね、ごめん」 遣り場のない感情を逃がすように、拳をにぎる。 手のひらに爪が食い込む感覚を覚えてもなお、力を緩めることはできなかった。 静寂が耳に痛い。 どうすれば、動揺を悟られることなくこの場を繕えるだろうか。 いまやそれだけがイヴェールの思考を占めていた。 「……イヴェール。君は少し、心配性が過ぎる」 「え、」 手の甲にひやりとした感覚を受けたイヴェールは、思わず顔を上げた。 先刻までメルヒェンの髪を緩やかに梳いていた手には、いつしか彼の手のひらが重ねられている。 僅かに力の籠められた指先はやはり氷のように冷たく、それがいっそう胸を締め付けた。 「何も、こんなことをしなくとも」 「……」 「君がこうして…………触れてくれれば、それだけで私には十分だ」 「っ、でも、僕は――」 イヴェールが咄嗟に声を上げると、きゅう、と手を掴む力が強くなった。 まるで、それ以上は聞きたくないとでも言うようなメルヒェンの様子に、イヴェールは無意識に口を噤む。 「君のそんな顔は、見たくない……胸が、くるしく、なる」 ぽつりぽつりと紡がれるメルヒェンの言葉だけが、深閑とした森に吸い込まれていく。 強張る指が、メルヒェンの心情を何よりも色濃く表現していた。 「……ごめん」 イヴェールはメルヒェンの手を取り、もう一度両手で包み込んだ。 僅かに身をかがめて、冷えた手の甲へと優しく口づける。 「ごめんね、…………ありがとう。メル君」 心の中でわだかまっていたものが、すうっと溶けていくようだった。 「今度は、離さないから」 「……っ」 逡巡を断ち切るように、生気のない手をぎゅ、と握り締める。 照れくさいのか俯いてしまったメルヒェンがたまらなく愛おしくて、くすりと笑みが零れた。 12.01.30 [ back ] |