解けゆくこころ(コルイド) | ナノ



 青々とした空には、雲ひとつ無い。
 波も凪いでおり、港に船を寄せるには絶好の日和だ。
 久々の上陸に活気づいた船内は騒々しく、船員たちは皆それぞれの持ち場で準備に追われていた。
 将軍であるコルテスは、甲板に出ててきぱきと指示を飛ばしている。
 入港作業ともなれば、船員総出で当たるのが常だ。航海士とて、例外ではない。
 しかし、イドルフリートは甲板のすみ、日陰になった場所にぼんやりと佇んでいるばかりだった。
 その顔はどこか青ざめており、いつものような覇気を見て取ることはできない。

(……私としたことが、船酔いだなんて)

 口元を軽く押さえたイドルフリートは、忌々しげにひとつ舌打ちをした。
 暢気そうに頭上を飛び交うカモメの鳴き声すら耳障りに感じられる。
 何の手伝いもせぬままぼうっと壁にもたれかかっているだけだというのに、吐き気と眩暈は酷くなるばかりだった。

 船酔いなどに見舞われたのはいつ以来だろうか。
 原因については、既に見当は付いていた。恐らく、寝不足による疲労だろう。
 ここのところ海図の製作が難航していたのだ。
 睡眠時間を削って夜な夜な作業に没頭することが多かったため、疲れが溜まっていたに違いない。
 仕事は完璧にこなしてこそだ、というのが信条のイドルフリートとしては、何としても予定通りに仕上げてしまいたかったのだが、今回はそれが仇になったらしい。
 体力には多少自信があったんだがな、とイドルフリートは溜め息混じりに一人ごちた。
 この程度の無茶もきかない自分の不甲斐なさに、苛立ちとともに落胆を覚える。

 こうして突っ立っていても何の役にも立たないので、いっそ船室に戻っていようかとも考えた。
 だが、後々面倒なことになりそうでイドルフリートはあまり気乗りがしなかった。
 幾多の航海を乗り越えてきた船員たちならば、今日のように穏やかな天候の中での作業など何の心配もいらないだろう。
 彼らのこなれた動きを見るに、別段自分の手が必要だとも思わなかった。
 しかし、部屋で休んでいればきっとコルテスは理由を聞きにやって来るだろう。
 素直にわけを話そうものなら、何やかやと説教されるのは容易に想像がついた。
 そして、それは出来るならば避けたいものだった。
 自然とイドルフリートの顔が渋いものになる。

 あまり他人には弱みを見せたくない、というのがイドルフリートにとって正直なところだった。
 もちろん、コルテスや船員たちに心を許していないわけではない。
 それでもやはり、拭いがたい抵抗感が心のどこかに居座っていた。
 それは、船を預かる航海士としての矜持なのか、人間なら誰しも持っているであろう虚栄心から来るものなのか、イドルフリート自身はっきりと正体を見極めることは叶わなかった。


「う、……っ」

 突如としてぐらりと揺れた足元に、イドルフリートの意識は現実に引き戻された。
 同時に、突き上げるような吐き気に襲われ、小さく呻く。
 不意のできごとに、ぎりぎりのところで保たれていた均衡はあっけなく崩れてしまった。
 今まで曲がりなりにも立っていたのが嘘のように、膝ががくんと折れる。
 一度力が抜けてしまうと、途端に全身が虚脱感に襲われた。
 壁に手をついて何とか立ち上がろうと試みても、足に力が入らない。
 ぐにゃぐにゃと歪む視界が吐き気を助長させる。

「……! おいイド、大丈夫か!」

 力なくしゃがみこんでしまったイドルフリートの元にコルテスが駆け寄ってきたのは、それから間もなくのことだった。
 今にも倒れてしまいそうなイドルフリートを、コルテスは必死に支える。

「立てるか? ほら、部屋まで運んでやるから」

 コルテスにぐっと腕を掴まれ、イドルフリートはよろよろと立ち上がる。
 そのまま半ば引きずられるようにして、イドルフリートは甲板を後にしたのだった。







 コルテスに連れられて船室へと戻ったイドルフリートは、ぐったりとベッドの端に腰掛けていた。

「ったく、どうも様子がおかしいと思ってたんだよ……具合が悪いなら最初からそう言え」

 イドルフリートの首元で揺れる十字架を外してやりながら、コルテスは合点がいった、といった様子で言葉を漏らした。
 それを聞いて、自らに起きた異変がとうに見抜かれていたことをイドルフリートは悟った。
 コルテスは全体の指揮をしていたのだから、当然といえば当然かもしれないが、何ともばつの悪い心持になる。

「しかしまあ、ただの船酔いでよかった」

 十字架をベッドサイドに置いたコルテスは、イドルフリートのシャツに手を伸ばす。
 一番上まできちんと留められていたシャツの釦を幾つか外すと、次いでコートの上から巻かれているベルトを手際よく緩めた。

「これで少しは楽になっただろ、無理しないで横になっとけ」

 コルテスはイドルフリートを促すように、彼の肩を軽く叩いた。
 だが、イドルフリートは頑として動こうとしなかった。
 コルテスの身体をやんわりと押し退けると、イドルフリートは小さな声で呟いた。

「……私のことは、もう構わなくて良い。君は早く向こうへ戻り給え」

 言葉遣いだけはいつもと同じ調子で、気丈に振舞おうとしているのが分かる。
 しかし、こんな症状はすぐに治まる、と言ってなおもコルテスを遠ざけようとする手は冷えており、顔色もひどく悪かった。

「お前、自分がいまどんな顔してるか分かってるのか?」

 コルテスの眉間に僅かに皺が寄る。
 普段とはまるで異なる蒼白い顔。それだけでも十分に胸を痛める要因になるというのに、イドルフリートの目の下にできた隈がコルテスの表情をますます曇らせた。

「……無理しなくて良いと、言っただろうが」
「だから、私なら――!」
「そうじゃない」

 私なら平気だ、と若干語気を強めて言いかけたイドルフリートの言葉を遮る。

「イド、お前最近ろくに寝てなかっただろう。違うか?」

 確信を持って問いかけると、案の定イドルフリートは俯いたまま黙ってしまった。
 沈黙を肯定と取ったコルテスは、深い溜め息を吐いた。
 思い当たる節は、ひとつしかなかった。
 イドルフリートの方も、コルテスが何を言わんとしているかは既に察しがついているように見えた。
 恐らく、この状況を一番苦々しく思っているのは他ならぬイドルフリート自身だろう。
 そう考えると、追い討ちをかけるようで少し気が引けた。
 だが、それでもやはり、コルテスは言わずにはいられなかった。

「あの海図は急がなくて良いと言ったはずだ。もし時間が掛かるようなら、多少次の出港を遅らせても良い、とも」
「そんなこと、出来るわけないだろう!」

 弾かれたように顔を上げたイドルフリートは、感情の昂りを隠すこともせずに声を絞り出した。

「君は暗に私のことを侮辱しているのか? それとも私が己の仕事すら全うできないような低能だとでも?」
「イド、落ち着けって」
「……ッ」

 目の前にあるコルテスの顔が奇妙に歪む。がんがんと痛む頭が煩わしい。
 鈍い痛みに思わず言葉を切ったイドルフリートは、ぶり返した吐き気と眩暈を堪えるように白いシーツを握り締めた。
 目に映るもの全てがまるで陽炎のように揺らいでいる。
 再びこうべを垂れてしまったイドルフリートは、目を開けることもできないまま口を噤んでいた。
 冷たい汗が額を流れていく。

 うまく立ち回れず、結局コルテスに介抱されている自分が情けなかった。
 それでも、弱音など吐きたくなかった。
 もう少し時間が欲しいと言えば、コルテスはきっと承諾したのだろう。
 だが、それでは駄目なのだ。
 自分がコルテスの、この船の足を引っ張るようなことはしたくない、という強い思い――ある種の強迫観念とすら形容できるようなものが、イドルフリートの胸の中を圧迫していた。

「……イド」

 静かな声音が、鼓膜を震わせた。
 先の愚かな振る舞いを咎められるのだろうと察し、自然と身体が強張る。
 だが、想像していたような叱責はなかった。
 その代わりに、ゆっくりと背を撫でさすられる感触だけがあった。
 ごつごつとした手は、紛れもなくコルテスのものだ。
 衣服を隔てているというのに、その手はひどく温かく感じられた。

「俺がお前のことをそんな風に捉えてると、本気で思ってるのか?」
「…………」

 何も言えなかった。
 真摯な口調が、「本当は分かってるんだろう」と言外に告げていた。
 コルテスがああ言ったのは自分のことを気遣っているからだと、イドルフリート自身も心の奥底では理解していた。
 だが、どうしても言い出すことはできなかったのだ。
 弱い自分を露呈することは、イドルフリートにとって耐え難い苦痛だった。

「なあ、そんなに気ィ張るなって。……疲れたなら休みゃいいし、つらいときは俺でも他の奴らでも、遠慮なく頼ればいい」

 静寂の中、船体に寄せる波の音だけが微かに響いている。
 労わるようにゆるゆると背中を撫でる手が心地よいのが、悔しかった。

「とにかく、今日はゆっくり休め。出港は10日後にするから」

 コルテスは、言い含めるようにしてイドルフリートに告げる。
 予定では今回の停泊は一週間だったはずだ。
 その変更がイドルフリートの体調を鑑みてのものであることは、明白だった。

「っ、コルテス……!」

 イドルフリートは間髪いれず抗議の声をあげる。
 自分のせいで航程に誤差が生じるなど、まっぴらごめんだった。
 何もそこまでせずとも、少し休めば体力の回復には充分だ。
 しかし、そんなイドルフリートの考えは見透かしているとばかりに、コルテスはイドルフリートを制した。

「イド、お前はもっと自分の身体を大切にしろ。お前が倒れでもしたら、俺たち全員が路頭に迷っちまうんだぞ」

 厳しい色を帯びた瞳が、真っ直ぐにイドルフリートを射抜く。
 有無を言わせぬ声色に気おされてしまったイドルフリートには、口を閉ざす以外の選択肢は無かった。
 自身の行動の軽率さをたしなめるかのような鋭い眼光に、思わず怯んでしまいそうになる。

 コルテスの言ったことは何から何まで正論だった。
 だからこそ、とても身に応えた。
 しかし、そう簡単に生き方を変えられるとも思えなかった。

(……くるしい)

 イドルフリートは、きゅっと唇を噛み締めた。
 頭では納得していても、心の中は散らかったままだった。
 つらいなら誰かを頼ればいい――先刻のコルテスの言葉が、脳裏をよぎる。
 素直にそうできれば、どれほど楽だろうか。
 背中に感じる温もりに、胸が締めつけられた。

「それに」

 己の愚かしさに歯噛みしているイドルフリートの心情を知ってか知らずか、コルテスは言葉を継いだ。
 背中に置かれていた手が、ふっとイドルフリートの頭の上に乗せられる。

「船のことはもちろん心配だが、……何よりもまず、お前のそんなつらそうな顔、俺は見たくないんだよ」

――だから。頼むから、無理はするな。
 祈るように呟かれたその言葉に、いとおしそうに髪をかき混ぜてくるその手付きに、イドルフリートの心はどうしようもなくかき乱されていた。
 何か熱いものがぶわ、と胸の奥にこみ上げてくるのを、必死に押さえ込もうとする。
 しかし、それは我慢しようとすればするほど、大きく膨れ上がるばかりで。

「ん……イド、どうした」

 そわそわと落ち着かないイドルフリートの顔を、コルテスは心配そうに覗き込んだ。
 おおかた、船酔いが悪化でもしたのかと懸念しているのだろう。

「なんでも、ない」

 目を合わせるのが妙に気恥ずかしくて、イドルフリートは思わず顔を背ける。
 しかし、先ほどのようにコルテスを押し遣ることはしなかった。
 離れたくない、もっと触れていてほしい。確かに、そう思った。
 自分からそれを口に出すことは、やはりできないのだけれど。

「……そうか」

 柔らかな返事が、イドルフリートの耳朶をくすぐった。
 温かな手のひらが再び背の方へと降りてくる。
 じんわりとした熱を感じたのも束の間、イドルフリートはコルテスの胸元へと抱き寄せられていた。

「ッ……おい、いったいどういう、」

 どういうつもりだ、と切れ切れに紡いだ言葉は上擦っていて、イドルフリートは不用意に声を上げたことを後悔した。
 心臓がどくどくと脈打っている。
 その鼓動の音がいやに大きなものに思えて、これではコルテスにまで聞こえてしまうのではないかとイドルフリートは気が気でなかった。

「悪い……もう少しだけ、我慢してくれ」

 感情を押し殺したような声。
 動揺するイドルフリートをよそに、力強く回された腕が緩められる様子はない。
 言葉を交わさずとも、コルテスの愛情を感じ取るにはそれだけで充分だった。

「……我慢も何も、……別に嫌だと言った覚えは、ない」

 コルテスに身を委ねたイドルフリートは、ややあって口を開いた。
 くぐもった、小さな声がコルテスの胸腔に響く。
 同時にコートの端をぎゅ、と掴まれる感覚に気づき、コルテスは首を傾げた。
 イドルフリートに悟られないようにそっと視線を落とすと、布地を握り締める手が僅かに見えた。
 ほっそりとした、およそ海の男とは思えないような白い指は、微かに震えていて。
 ずいぶんと控えめなその行為に、コルテスはこっそりと苦笑した。
 そうして、何も知らないふうを装いながら、より強くイドルフリートの身体をかき抱くのだった。



11.12.05 

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