天秤にかけてみる(冬闇) | ナノ



※ふたり暮らし(1/2)と同じ現パロ設定です





 (のど、渇いたな……)

 不意に目を覚ましたイヴェールは、眠い目を擦りながらもぞもぞと起き上がった。
 明かりの消された寝室には、既に外からの光が僅かながら届いている。
 大きく欠伸をしながら枕元の目覚まし時計に手を伸ばすと、針は午前5時を少し過ぎた辺りを指していた。 隣のベッドはもぬけの殻だ。シーツが整ったままであるところを見るに、ベッドの主はまた自室に籠っているのだろう。
 同居人の不規則な生活を思うと、自然と溜め息が零れた。

 お互い成人しているのだし、何か迷惑を被っているのでもない限りはあまり口うるさく干渉するべきでないと頭では理解している。
 とは言え、何かと体調を崩しやすいメルヒェンの姿を見ていれば心配のひとつもするというもので。
 先日、夏風邪を引いた彼を看病するべく奔走した身としては、もう少し自愛というものを意識してほしいと切に願う。
 それに、彼は放っておくとどうにも頑張りすぎてしまうきらいがある。
 本人曰く、集中すると時間を忘れてしまうらしい。その気持ち自体はよく分かるが、彼の場合その度合いが世間一般と比べると少々ずれているのだ。
 あまり無理はしないでほしい――この一言に尽きるのだが、当のメルヒェンは自らに負担を強いているという感覚が皆無なのが厄介だった。

 考えれば考えるほど、懸念がイヴェールの胸中を圧迫していく。
 こうなると、いてもたってもいられなくなるまでにさほど時間は掛からなかった。

(いいや、少し声掛けるくらいなら大丈夫だよね)

 メルヒェンは仕事中に自室を訪ねられるのを快く思わない、ということは知っていた。
 しかし、もう夜も明けてしまっているのだし、さすがにこちらの意図くらいは汲み取ってくれるだろう。
 様子を見に行くついでにお茶でも淹れてあげようかな、と思い立ったイヴェールはそろそろと寝室を後にした。



 なるべく音を立てないように注意しながら、居間へと続くドアを開ける。
 防犯のため仕方がないのだが、窓を閉め切っていた部屋の空気はむっとしており不快だった。

「うー……換気しなきゃ」

 澱んだ空気に眉を顰める。
 メル君の部屋はきっと涼しいだろうなあ、機嫌が良さそうだったらちょっと寛がせてもらおうかな、などと淡い期待を抱きつつ窓の方へと歩み寄った。
 そのとき、視界の端で何かが動いたような気がした。
 ぎょっとしたイヴェールは思わず振り返った。早鐘のように鳴る鼓動を必死に落ち着けながら薄暗い部屋を注視する。
 そうして息を潜めていたイヴェールの目が程なくして捉えたのは、ソファに横たわる同居人の姿だった。

「め……メル君?」

 安堵と驚きの混じった素っ頓狂な声を上げてしまったイヴェールは慌てて口を押さえる。
 しかしそんなイヴェールの動揺も露知らず、メルヒェンは微かな寝息を立てていた。

「寝てる、の……?」

 恐る恐るソファに近づく。
 しゃがみ込んでしばらく様子を窺ってみるも、手足をくの字に折り曲げて些か窮屈そうに身を収めたメルヒェンは昏々と眠り続けていた。
 どうやら起こさずに済んだらしい。

(……かわいい)

 メルヒェンの無防備な寝顔をまじまじと見つめるのは久しぶりだった。
 艶やかに流れる前髪の隙間から垣間見える表情は、普段に比べて幾らかあどけない。
 顔に掛かっている髪をそっと払いのけてやっても、依然として柔らかな吐息が乱れることはなかった。

 よっぽど疲れてるのかな、とイヴェールは苦笑する。
 出来ることならこのまま寝かせておいてやりたいが、こんな場所では疲れも取れないだろう。
 愛らしい寝顔を名残惜しく思いつつ、イヴェールは遠慮がちにメルヒェンの名を呼んだ。

「メル君、起きて、こんなところで寝てたらまた風邪引いちゃうよ」
「…………ん……」

 呼びかけに応じるように、濡れ羽色の睫毛が緩やかに瞬く。
 軽く肩を揺すると、ようやく目が覚めたのかメルヒェンはイヴェールの方へゆっくりと首をもたげた。もっとも、意識がはっきりしているかどうかはだいぶ疑わしかったが。
 イヴェールを映す眼差しはぼんやりとしたもので、少し放っておこうものならすぐにでも目蓋が落ちてしまいそうである。

「メル君、しっかりして? ちゃんとベッドで寝ないと」

 肩貸すから、ね、と説得を試みたが、あまり効果はないようだった。
 ソファにぐったりと横たえられた身体からは起き上がろうという意思などまるで感じられない。
 そして、とうとう眠気に負けたのか、メルヒェンはぽふ、と再びソファに頭を預けてしまった。

「ここでいい……」
「だ、だめだってば! もう、メル君ったら……!」

 とろとろと微睡みかけるメルヒェンを必死で揺り起こす。

「ほら、この部屋暑いし……向こうなら此処よりは涼しいよ?」

 先刻うっかり窓を開け損ねたこともあって、室内の気温はお世辞にも快適とは言い難かった。
 ほんの僅かな時間しゃがんでいただけのイヴェールですらそう感じるのだから、恐らくこの部屋で数時間は眠っていたであろうメルヒェンが不快感を抱かないはずがない。

「メル君だって寝苦しいでしょ? 汗かいてるじゃない」
「だから、嫌なんだ……」
「え?」

 ぼそりと漏らされた呟きに注意深く耳を傾ける。
 彼が言うには、汗でべたべたしたままベッドで眠るのは気持ちが悪いとのことだった。
 もっともな主張ではあるが、だからといってわざわざ我慢比べのようなことをしなくても良いのではないだろうか。
 全く、変なところでこだわるんだから、とイヴェールはこっそり嘆息した。

「とにかく、着替え持ってきてあげるから……少しベッドで休んでからシャワーでも浴びたらどう?」

 ほどけかかっていた髪留めのリボンをしゅるりと抜き取る。
 はらはらと零れ落ちた銀混じりの黒髪を手で梳いてやりながら、イヴェールは柔らかく問いかけた。
 だが、メルヒェンは首を横に振るばかりだった。

「嫌だ……シャワー……」

 ぽつぽつと、途切れ途切れに単語が紡がれる。
 半ば夢うつつと言っても過言ではない状態では、会話すらままならない。
 それでも、メルヒェンの言いたいことはだいたい予想がついた。

「いま浴びたいの?」

 恐らくメルヒェンが意図していたであろう言葉をかけてやれば、案の定彼はこくりと頷いた。

(うーん、困ったな)

 こうなってしまっては、メルヒェンの性格からして途中で意見を変えるとはあまり思えなかった。
 思案に暮れたイヴェールは手の中のリボンをもてあそびながら唸る。
 「なら起きて浴びておいでよ」と声を掛けて寝室に戻るのは簡単だが、それでは何の解決にもならない。このまま閑却しておけば、メルヒェンは5分も経たぬうちに再び寝入ってしまうだろう。
 かといって、メルヒェンを無理やり寝室まで引きずっていくような無茶をする気にもなれなかった。

 ――そうだ、良いことを思いついた。
 ぱあっと顔を輝かせたイヴェールは、意気揚々とメルヒェンに提案した。

「じゃあ、僕と一緒にお風呂に入ろうよ。このままメル君を放っておくのも心配だし……湯船に浸かればきっと頭もすっきりするんじゃないかな」

 心配だし、の部分を特に強調しておく。
 以前、何かのきっかけで似たような案を出したときメルヒェンがひどく嫌がったのをイヴェールは覚えていた。
 あのときメルヒェンは「恥ずかしいから」という何とも可愛らしい理由で、かなり粘り強く抵抗したのだ。
 そういった反応を思い返して、わざとメルヒェンが選択の幅を狭めざるを得ないような雰囲気を作り出したのは確かだった。

 イヴェールと共に入浴するか、ひとまず寝室に移るか。
 この2択ならば、彼も諦めてベッドに行ってくれるだろうとイヴェールは踏んでいたのだった。
 それほどまでに拒まれるというのも寂しいものがあるが、この際そこは気にしないでおく。

「ね、どう? メル君」

 にっこりと笑って問いかける。
 そんなイヴェールの考えを見透かしたように、メルヒェンは眉間に皺を寄せた。

「…………君は、ずいぶんと意地が悪いんだな」
「そうかな?」

 笑顔のままで、ことりと首を傾げる。
 すると、不満げに口を尖らせていたメルヒェンはふいと顔を背けてしまった。
 ほとんどうつ伏せに近い体勢を取られてしまったため、表情を窺うことができない。

「……怒った?」

 ソファに顔を埋めたメルヒェンは微動だにしない。不貞寝してしまうつもりなのだろうか。

「メルくーん、ねえってば、」

 もう一度肩を揺すってみようか、と手を伸ばしかけたとき、メルヒェンがのそりと顔を上げた。

「いつまでそこにいるつもりなんだ」
「え、」
「……一緒に風呂に入るんだろう。湯を沸かしに行かなくていいのか」

 予想外の反応だった。
 きっと自分は今この上なく間抜けな顔をしているだろう――イヴェールは頭の片隅で自覚していたが、そんなことはもはやどうでも良かった。
 呆気に取られて目の前の恋人を嘱目する。
 しかし穴が開くほど見つめてみても、そこには普段と変わりない涼しげな顔があるだけだ。

「あ……う、うん。ちょっと待っててくれる?」

 さっと立ち上がったイヴェールはそそくさと洗面所へ向かった。
 努めて平静を装ったが、彼の目には挙動不審な自分の姿が映っていたに違いない。そう考えると、なかなか冷静な思考を取り戻せそうになかった。
 急いで扉を閉めて、ずるずると壁にもたれ掛かる。

「もう……ずるいよメル君……」

 完全に不意打ちだった。
 まさか実現しないだろうと高をくくっていたのに、あんなにあっさりと承諾されるとは。
 イヴェールは自身の髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。

「はあ……何やってるんだろう、僕」

 裏目に出る、という言葉がこれほどぴったりな場面はそう無いだろう、と肩を落とす。
 少しでもメルヒェンに休息を取って欲しいという気持ちには誓って偽りなどない。
 しかし、めったにない機会を前にして理性を保つ自信がないのもまた純然たる事実だった。何とも情けないことだが。
 休養を勧めた本人がメルヒェンの身体に負担を掛けていては意味がない。

(メル君とお風呂入るの、久しぶりだな。……我慢、できるかなあ)

 もう一度盛大な溜め息をつく。
 これからの苦行を思うと、早く準備しなければと急く心とは裏腹に、身体はなかなか動かなかった。




11.08.16 
title:hakusei 

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