ふたり暮らし 2 | ナノ



 こちらに背を向けてシーツにくるまる恋人を見て、イヴェールは軽い溜め息を漏らした。

「おーい、メル君」
「……」
「ごめんってば、ねぇ」

 幾度か謝罪のことばを投げ掛けてはみたものの、白いかたまりはぴくりともしない。
 しんと静まり返った部屋では時計の針が進む音がいやに耳に付いた。
 沈黙に耐えかねて、薄暗い部屋をぐるりと見渡す。カーテンの隙間からは白み始めた空が微かに覗いていた。

(ん、もうこんな時間かぁ……)

 欠伸を噛み殺して再度隣のメルヒェンに目を向ける。
今日は昼から出勤だしもう少し眠れるかなあ、なんてのんきなことを考えていたが、そういえば彼の予定は把握していなかった。
 ――声を掛けた方が良いのだろうか。

 イヴェールはここ数日の記憶を手繰り寄せた。
 たしか彼は、「急ぎの仕事は終わった」と言っていたはずだ――交わした会話を反芻しながら、自身を納得させるように頷く。
 それに、彼の行動は不規則だが、仕事柄時間に融通が利くことが多い。いままで付き合ってきた限りでは、早朝から出掛けることもほぼないと言えるだろう。
 そもそも、万一彼に遣り残した仕事があるならばこうして一緒の褥に入れる筈がないのだ。

 彼の作業は夜半に及ぶことがとても多い。
 身体に障るから良くないと言っているのだが、どうにもその辺りの時間帯が一番集中できるらしい。
 作品の完成が間近になれば自室に籠りきりになることなどざらだった。
 作業が一段落ついたと思われる明け方、彼が倒れるように隣のベッドに潜り込むのはもはや締め切り前の日常茶飯事である。

 そういった様子が見られないことからも、現在の彼の生活に幾らか余裕があることは想像に難くなかった。

(うんうん、メル君何も言ってなかったし大丈夫だよね……たぶん)

 一通り理由を並べて安心したのは良いが、彼の機嫌を損ねてしまっていることだけは動かしようのない事実だった。
 行為の最中のことを思い出すと、さすがに多少の罪悪感が胸をよぎる。

 柳眉を寄せる彼の息遣いはつらそうで、声もすっかり掠れてしまっていた。
 事に及ぶ前の彼の態度を鑑みるに、あれだけの負担を強いておいて何の咎めもないとはイヴェールには思えなかった。
 やはりもう一度きちんと謝っておくべきだろう――すんなりと赦して貰えるかは分からないが。

 意を決したイヴェールは、なるべく音を立てないようそろりと体勢を変えた。
 そして、怒っているのかそれとも寝てしまっているのか、未だ身じろぎひとつしないメルヒェンをそっと覗き込む。

 ――寝てるだけならいいな、起こすのもそれはそれで可哀想だけど。
 淡い期待を胸にシーツをはらりと捲った。



 「触らないでくれ」と一蹴される、もしくはすっかり拗ねてしまっている。 
 最悪でもこのどちらかだと勝手に思い込んでいたので、薄闇に揺らめく白金色の瞳から大粒の雫がぼろりとこぼれるのを見て、イヴェールは狼狽してしまった。

「め、メル君?」
「――っ、見る、な……!」

 反射的にこちらを向いた後、再びシーツを引き被ろうとするメルヒェンの腕を慌てて掴む。
 じたばたともがく彼の抵抗はしかし鈍いもので、イヴェールは安堵を覚えた。
 だが、それは同時に彼に色濃く残る疲弊を体現しているのだと思うと、何とも言えない気持ちがじわりと胸に広がった。

「ちょ、ちょっとメル君、落ち着いて……っ」

 見ないから、ね?と諭すように話しかけながら、何とか上半身を起こさせゆっくりと抱きすくめる。
 最初は反抗するように首を振っていた彼だったが、背中をさすってやる内にだんだんと大人しくなっていった。





 薄らと明るくなった室内は、数刻前と変わらぬ静寂に満たされていた。ただひとつ――メルヒェンの嗚咽を除けば。
 彼がしゃくりあげる度、腕の中にすっぽりと収まった身体が震える。
 彼の顔が埋められた肩口の辺りは、すっかり濡れそぼってしまっていた。

「えと、……メル君、ごめんね? 僕が悪かったよ、だからもう泣かないで」

 せめて泣き止むまではそっとしておこう。そう思っていたのだ。
 しかしその兆しは一向に見出せぬままだった。
 いつ止むとも知れない恋人の歔欷を耳にし続けるのは、予想以上に心苦しいもので。
 気まずさも手伝ってつい言葉を漏らしてしまった。

 無責任な言い分だ、と思わないわけではなかった。
 それでも、イヴェールなりに言い回しには腐心したつもりだったのだが、どうやら逆効果だったらしい。
 イヴェールの言葉が癇に障ったのか、メルヒェンは再びむずかり始めてしまった。

 腕を振りほどいて離れようとするメルヒェンの動きには確固たる拒絶の意思が滲んでいる。
 そんな彼の反応を目の当たりにして迂闊な発言を後悔したものの、既に手遅れだった。

「……っ……きみは、わたし、の……ッ、ふ、うぅ、」

 腕の中を逃れた彼は、目の前で泣きじゃくっている。
 ぽたぽたとこぼれ落ちた涙が皺くちゃになったシーツに吸い込まれていく。
 途切れ途切れに紡がれた声は、当然といえば当然だがやはり嗄れてしまっていた。

「わたし自身のことなんて、っ……ど、でも、いいんだろう……! きみの、すき勝手なきまぐれで、さんざん振りまわして……っ」
「な……そんなわけないじゃないか!」

 どうでもいい人間と同棲などする道理がない。
 思わず口をついて出た反論だったが、心のどこかで居心地の悪さを感じているのは確かだった。
 それを見透かしたかのように、メルヒェンはさらに語気を強める。
 いつも穏やかな彼にしては珍しいその態度は、イヴェールに動揺を与えるには十分なものだった。

「うそ、だっ……! どうせ、ッ私の気持ちなんて、深く考えていないに、きまっている……!」

 ――そうやって、すぐに謝るだけ謝って。私はあのとき嫌だと言ったのに。今日はやめてくれと頼んだのに。
 最後の方は嗚咽に交じってしまい、聞き取るのがやっとだった。

 ぐすぐすとすすり泣くメルヒェンが、やけに遠く感じられた。
 手を伸ばせばすぐに触れられる距離だ。それなのに、身体が動かない。
 知らず知らずの内に、彼をこんなにも傷つけてしまっていたのか。唐突に理解するとともに、己の浅慮に愕然とした。

「……ごめんね、メル君」

 幾度目かも分からない謝罪を呟く。
 自分の言葉はなんて軽いんだろう、と我ながら呆れたが、それでも言っておかなければいけない気がした。

「ここのところ、しばらく夜勤が続いて……メル君の方も仕事が詰まってて。おんなじ部屋に住んでるのにほとんど顔も見られないなんてさ……正直、寂しくてどうにかなっちゃいそうだったよ」
「…………」
「だから、こうして毎晩一緒にいられるのが嬉しくて――ちょっと、歯止めが利かなくなってたみたいだ。……君の気持ちも尊重するべきだったよね。無理させて、本当にごめん」

 彼の羞恥に染まる顔も、色を帯びた声もこの上なく魅力的だ。自分だけが独占できる一面だと思えば尚のことだった。
 しかし、それらは互いの愛情の上に成り立っているからこそ価値があるのだ。
 彼を泣かせてしまったことが、重く心にのしかかった。

 ――ああ、僕はなんて馬鹿なことをしたんだろう。
 調子に乗って彼の言動を軽んじていた自分を呪わずにはいられない。
 ちらりと彼の方に目を遣ってみたが、パジャマの袖で涙を拭っていることもあって、俯いた彼の表情を窺うことはできなかった。

(とにかく、タオルか何か取ってこよう。目を擦るのはあんまり良くないだろうし……)

 メルヒェンに背を向けて、スタンドライトのスイッチをまさぐる。
 しかし、これを点けると必然的に彼の泣き顔も照らし出されるわけで。
 あれだけ顔を見られるのを嫌がっていたのだ。煌々とした明かりではないが、点けない方が良いかもしれない――

「…………分かるわけ、ないだろう」
「え?」

 スイッチを前にしばし逡巡していたイヴェールの耳に微かな声が届いて、思わず振り返る。
 相変わらず俯いてはいたものの、メルヒェンはいつの間にか泣き止んでいた。
 ひしと抱えた枕に半分ほど顔を埋めているせいで、少々声がくぐもっている。

「君は私のことを超能力者か何かだと思っているのか? ……最初から、そうやって口で言えば良いものを」

 ――君の気も知らないで、取り乱した私が馬鹿みたいじゃないか。

 もそもそと言葉を紡ぐ彼の頬は、紅をさしたように紅潮していた。
 伏せられた眼は未だ潤んでおり、まるで羞恥を隠すように瞬いている。
 泣き腫らした目元はほんのりと色づいていた。

「だいたい君は、肝心なときに限って言葉が足りな……っ!?」

 半ば拗ねたように恨み言をこぼす彼に腕を伸ばす。ほとんど衝動的と言ってもよかった。
 どうして彼はこう、庇護欲をそそるのだろうか。
 思い切り抱きしめた肢体は、今にも折れてしまいそうなほど頼りなく、しかし確かに温かかった。

「いっイヴェ、なにして……!」
「うん……ごめん、ちゃんと伝えておくべきだったね」

 わたわたと慌てるメルヒェンの耳元で囁く。
 ひゃ、と上擦った声を上げる彼が無性に愛しく思えて仕方がなかった。

 だが、彼の方はどうだろうか。身勝手な自分に愛想を尽かしてはいないだろうか。
 心の奥底にわだかまっていたものが首をもたげる。

「ねぇ、メル君」

 恐る恐る問いかけた。
 彼を抱く腕にも自然と力がこもる。

「その……もう、怒ってない?」

 ……よね?と、希望的観測を込めて控えめに付け足す。
 彼が僅かに身を固くしたのが感じ取れた。

 こんな野暮なことを訊いてどうするのだろう。自分でもそう思う。
 しかし、そこまで自覚していてもなお、彼の口から直接答えを聞いて安心したいという思いの方が強かった。
 もっとも、彼が自分のことを赦してくれるはずだという考え自体が自惚れなのかもしれないが。

 固唾を呑んでメルヒェンの言葉を待っていたイヴェールに返されたのは、小さな溜め息だった。

「君はつくづく……」

 どこか呆れを含んだ声音に胸がざわつく。
 やはり、まだ彼の心の中には自分を咎める気持ちが残っているのだろうか。
 もちろん自業自得なのだが、何を言われるのかとイヴェールは気が気でなかった。

(どっどうしよう、やっぱり聞かない方が良かったかな)

 嫌な汗が背中を流れる。
 彼の表情を垣間見ることができないのがより一層不安を煽った。
 ――もう駄目だ、耐えられない。

 ごめん、さっきのは無しにして!――イヴェールがそう叫ぶよりもほんの少し早く、黙りこくっていたメルヒェンが口を開いた。

「…………からな」
「え、」
「明日だけは休ませてもらうからな、と言っているんだ……!」

 ごくごく小さな、今にも消え入りそうな呟き。
 絞り出すように吐き出されたそれからは、彼の心情がありありと読み取れた。
 ふい、と背けられた顔はきっと真っ赤に違いない。

(メル君こそ、肝心なときに素直じゃないんだから。……まあ、そこが可愛いんだけど)

 彼の遠回しな回答を噛み締める。
 明日だけは、の部分に込められた彼の精一杯の含みがこそばゆい。
 いかにも感情表現の不器用な彼らしい、と苦笑してしまった。

 照れくさいのか、再び黙り込んでしまった彼は落ち着かないようでそわそわしている。
 そんな姿が微笑ましくて、「じゃあ明後日なら良いんだ?」と冗談めかして尋ねてみたが、今度こそ返事はなかった。
 その代わりに、彼の腕が背中へと回される。
 ぎこちない動作でぎゅう、と抱きついてくる感触に、思わず笑みが零れた。






‐‐‐‐‐‐‐

活発でスキンシップ等の愛情表現も積極的に行うイヴェールに比べるとメルは大人しいイメージです
決して口下手な訳ではないんだけど、自分の感情を相手に伝えるのが苦手というか…
動揺した場合、一生懸命考えてから喋ろうとするものの口を開くよりも先に焦りが態度に出ちゃってたりすると可愛いです


11.06.26 

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