※王子→闇気味 湿り気を帯びた下草を踏み分けて歩を進める。 どれほど歩いただろうか、ようやく開けてきた視界に安堵の息が漏れた。 通い慣れた場所とはいえ、仄暗い獣道を辿るのはやはり幾許かの不安が残るものだ。 野薔薇を纏った古井戸――“彼”を訪ねる際の目印が次第に姿を現す。 先日訪問したときと変わらず鮮やかな紅が散りばめられた其処に、目当ての青年の姿を認めて自然と顔が綻ぶのを感じた。 井戸の縁に腰掛けた彼は、ぼんやりとした様子で何かをゆるゆると弄んでいる。 微かに見え隠れする形状から察するに、恐らく指揮棒だろう。 「やあメル、久しぶりだね」 にこやかに声を掛けると、びく、と肩が跳ねた。 弾かれたようにこちらを振り向いた彼の相貌は、見開かれた眼のせいかいつもより少し幼い。 どうやら僕の気配に気づいていなかったようだ。 「珍しいね、考えごとでもしていたのかい」 滅多に見られない反応が妙に微笑ましくて、微かに笑みが零れてしまった。 それが気に食わなかったのか、思い切り眉間に皴を寄せた彼はわざとらしく溜め息を吐いた。 「……馴れ馴れしく呼ばないでくれ給えと言ったはずだが」 迷惑そうに細められた黄檗色の瞳がこちらを射抜く。心底うんざりしているといった表情だ。 最も、この遣り取りは既に日常の一部と化していた。 僕としては愛称くらい好きに呼ばせて欲しいのだが、彼はそれすら頑なに拒むのだ。 何やかやと片意地を張ってはいるものの、こうして逢ってくれるあたり嫌われてはいないのだろう、と思う。 だが、もう少し心を開いてくれても良いのに、と寂しさを覚えるのもまた事実だった。 「そんなに嫌かな? エリーゼ嬢だってそう呼んでいるんだから良いじゃないか」 「君とエリーゼが私の中で同じ位置を占めていると思うこと自体がおかしいだろう。……まあいい」 こほん、と咳払いをしたメルヒェンは僕の方に向き直った。 「ちょうど良い時に来てくれた。少し君に聞きたいことがあってね」 「え、僕に? なんだい?」 ぱちぱちと眼を瞬かせる。 私が気を許しているのはエリーゼだけだ――暗にそう示唆するような先の物言いに少なからず胸を痛めていた僕にとっては、意外な言葉だった。 彼が僕のことを表立って頼るのなど初めてではないだろうか。 ――ようやく僕に信頼を寄せてくれるようになったのかもしれない。 そう思うと、今までの傷心が嘘のように高揚感に包まれるのだから単純なものだ。 それでもやはり嬉しいものは嬉しい。 逸る気持ちを抑えながらじっと耳を傾けていると、程なくして彼の口が開かれた。 「君は――」 「うん?」 「君は赤ん坊がどこからやってくるのか、知っているかい?」 一言一句聞き逃さないよう集中していたのだから聞き間違いではない、はずだ。 僕の耳がおかしくなっていないならばの話だが。 改まって聞くくらいだから何かよほど重大なことなのだろうと勝手に思っていた分、完全に脱力してしまった。 と同時に、そんな質問に答えるだけで良いなら僕でも力になれそうだ、と胸を撫で下ろした。 (いや……しかし、これは) どこから説明するべきなのだろう――ふと、迷いが生じた。 そもそも彼ほどの年齢で妊娠の仕組みを知らない男などいるのか。 彼は分かっていながらわざと聞いているのではないか、だが万一そうだとすれば何のために? 一度深みに嵌まったが最後、次から次へと疑問が湧き出る。 しかし彼の眼差しを見る限りでは僕をからかっているようにも思えなかった。 こちらをじっと見つめる表情はまさしく真剣そのもの、といった面持ちだ。 「……えっ、と」 彼は決して無知ではない。頭の回転だって速い。 ただ、ときどき会話が噛み合わないことはあった。 思いがけず垣間見える純粋な一面にはしばしば驚かされていたが、今回の言動もその一部なのだろうか。 「なんだ、君も分からないのか。嗚呼、エリーゼになんて言えば……」 どう切り出せば良いものか考えあぐねていると、沈黙を僕の答えだと取ったのか彼は落胆の色を浮かべた。 困り果てた顔で黙り込む様はやはり演技には見えない。 しかしそれよりも、聞き捨てならない台詞があった。 「エリーゼ嬢? 彼女がどうかしたのかい?」 間髪入れず問い掛ける。 すると、彼は一瞬しまった、という顔をしてからきまり悪そうに目を逸らした。 「……エリーゼを、怒らせてしまったんだ」 ぼそ、と彼が呟く。 ――ああ、それで今日は一緒じゃなかったのか。 いつもメルヒェンの膝の上、もしくは腕の中にいる彼女の姿が思い出される。 彼らでも喧嘩することがあるのか、と思うとメルヒェンには悪いが少々胸が躍った。 なにしろ彼らの相思相愛ぶりを見ると、他者の入り込む余地などないように感じることが多々あるのだ、悔しいことに。 「……何をにやついているんだ、気持ちの悪い」 「あ、ああごめん何でもないよ。で、彼女が怒った原因は何なんだい?」 慌てて話を引き戻す。 彼は暫く疑わしげな視線を向けていたが、やがてぽつぽつと喋り始めた。 「昨日、彼女が言ったんだ――『私子ドモハ嫌イダケド、メルノ子ナラ悪クナイカモシレナイワネ。……ナンテ、冗談ヨ』と。 だから、子どもが欲しいのなら遠慮せずコウノトリにでも頼んでおいたらどうだい、と言ってみただけなんだが……何が気に障ったのか、すっかり機嫌を損ねてしまってね。 『マダソンナ話信ジテルノ!? メルノ馬鹿、モウ知ラナイ!』と叫んでどこかへ行ってしまったんだ」 森じゅう捜しても見当たらないし、一体何がいけなかったんだろう――眉を曇らせて嘆くメルヒェンを見て、少しだけエリーゼ嬢に同情した。 仮に例え話だとしても、意中の相手と子を儲けたい、なんて一般的に考えればかなり思い切った愛情表現だろう。 もちろん、どういった過程を経て子を得るのかを相手が知らなければ、その愛情も伝わらないわけだが。 (うーん……) 正直なところ、このまま彼らの仲裁に一役買うのは面白くない、という気持ちもなくはなかった。 かといって、彼の気落ちした顔を見るのは僕の本意ではない。 (仕方ない、か) ふう、と息を衝いて思案を纏める。 未だに民間伝承を信じているような人間にいきなり真実を教えるとなると多少刺激が強い気もするが、段階を踏んで説明すればきっとどうにかなるだろう。 ――おかしいな、これじゃあまるで年端も行かない少年の家庭教師にでもなった気分だ。 本当は恋人を目指していたはずなんだけどな、と苦笑が漏れた。 まあ、彼の反応を目の前で逐一観察できるのだから家庭教師役も悪くないかもしれない。 彼が現実を知ったら一体どんな顔をするのか、それを想像すると不思議と愉しくなってくるのだから現金なものだ、と我ながら思った。 ‐‐‐‐‐‐‐ 世間知らずなメルが愛おしいです ドイツではコウノトリ説が主流なようなのでそちらを参考にしましたが、キャベツ畑をうろうろするメルも捨て難い… 11.06.06 [ back ] |